夏休みになった。
 部活も補習もない私は、図書委員の当番がある日以外はナギサに行くのが日課になっていた。長い長い夏休みの時間を持て余した子どもたちが遊びにやって来るので、忙しそうなユウさんを手伝うという名目で。
 正直なところ、ユウさんに失恋してしばらくは、彼の顔を見るのもつらいという気持ちが確かにあった。でもそれ以上に私は、自分が変わるきっかけをくれたナギサという店のことを大切に思っていて、ユウさんとお店のためにできる限りのことをしたいという気持ちが強かったのだ。
 それに、ナギサさんとの思い出が詰まっているのだと、この前こっそり教えてくれた桜貝を、一日に何度も見つめているユウさんの横顔に気づいてしまったら、ふたりの間に私の入る隙間なんかないと痛いほどに思い知らされて、日に日に自分の気持ちと折り合いがついていった。今はただ、親しくしてくれている兄のような存在だと思うようにしている。
 くるくると動き回るユウさんの背中を見ながらそんなことを考えていると、ふいにスマホが音を鳴らした。見るとお父さんから、【いつ帰ってくる?】と相変わらず愛想のない短いメールが届いていた。
 あの雨の日、漣と一緒に家に戻ると、お父さんはすでにいなかった。嫌みのひとつでも言ってやろうと意気込んでいた私は拍子抜けしてしまった。
 あれほど漣との同居に難色を示していたお父さんがなぜあっさり引いたのか不思議に思っていたら、私と漣が家を出たあとにちょうど帰宅したおじいちゃんが説得をしてくれたのだと、おばあちゃんが教えてくれた。
 漣はちゃんとした身元の知人の息子だということ、今まで一緒に暮らしてきて人に危害を加えるような人間ではないと確信できるということ、それでも不安なのは分かるのでおじいちゃんたちが責任を持ってしっかり様子を見るということ。それらのことを保証するから信じて任せてほしい、と話してくれたという。普段は無口なおじいちゃんがそんなふうにお父さんと対峙する姿を、ぜひ見てみたかったなと思った。
 とはいえ、次の日の朝、お父さんからメールで、
【今後の進路についてちゃんと話がしたいから、夏休みに一度帰省するように】
 と連絡が来たので、まだ納得はしていないようだ。私は【気が向いたら】とだけ返した。漣の言うように、親の言葉や意見に縛られるのはやめにしようと思ったのだ。別に親の言うことは絶対ではないし、納得できなければ反論していい。それでも分かり合えなければ、自分の人生は自分のものだと割り切ってもいいのだと、考えられるようになった。
 今日も短く【まだ分からない】と返信して、カウンターでお絵描きをしている小学生の女の子ととりとめのない話をしていたとき、龍さんと真梨さんがやって来た。
「こんにちは……あっ」
 彼女の腕に小さな赤ちゃんが抱かれているのに気がついて、私は思わず声を上げた。
「わあ……生まれたんですね」
「うん、今日で生後一ヶ月。初めてのお出かけはナギサに行くって決めてたんだ」
 おくるみに包まれてすやすや眠っている赤ちゃんの頬を撫でる真梨さんと、それを隣で見つめる龍さんの顔は、眩しいくらいに輝いていた。
「あっ、龍、真梨、いらっしゃい」
 ユウさんがキッチンから出てくる。そして赤ちゃんに気づいて、「わあっ!」と声を上げた。
「連れてきてくれたんだ! こんにちはー、初めまして!」
 嬉しそうに赤ちゃんを覗き込んで話しかけるユウさんの肩を、龍さんが軽く小突く。
「優海、起きちゃうだろー」
「あっ、そうかごめん! いやでも、嬉しすぎて声のボリューム抑えらんないって……!」
 ユウさんが自分の口を塞ぎながら、でもやっぱり興奮を堪えきれないように笑った。
「そうかあ、龍もとうとう父親かー。頑張んないとな!」
 ユウさんはひそひそ声で言いながら、龍さんの背中をばしんと叩いた。龍さんは「うるさいし、痛いし」と言いながらも、「頑張るよ」と笑った。
「コーヒーと玉子焼きでいい?」
 ユウさんがキッチンに向かいながらふたりに訊ねる。
「あっ、でもあれか、真梨はカフェインだめか。栄養つくからバナナジュースとかにする?」
「あ、うん、ありがと。じゃあバナナジュースお願い」
「はいよー、ちょっとそこ座ってゆっくりしててな」
 テーブル席に腰かけた真梨さんの腕の中を、私も思わず覗き込む。
「赤ちゃん、見てもいいですか……」
「うん、どうぞ」
「うわあ、小っちゃーい……」
 目も鼻も口も、顔の横でぎゅっと握りしめられている手も、作りものみたいに小さかった。真樹が生まれたときも、こんなに小さかっただろうか。あまり覚えていないけれど、自分も小さかったからそれほど小さいとは思わなかったのかもしれない。
「そうだよね、生まれたての赤ちゃんってこんなに小さいんだーって、私もびっくりしちゃった。こんなに小さいのにちゃんと生きてるなんて、不思議な感じがするよね」
 真梨さんが小さな手をそっと指先でつつきながら言う。
「この子の寝顔を見てたら、無事に生まれてきてくれただけで本当にありがとうって思う。勉強ができなくたって、運動が苦手だって、立派な仕事につけなくたって全然いい。とにかく大きな怪我も病気もしないで、無事に生きていってくれたら、それだけで嬉しい」
 囁くように語った彼女の目は、少し潤んでいた。
「うん、俺も本当にそう思う」
 隣で龍さんもうなずいている。
「この気持ちを、忘れないでいたいね」
 彼の言葉に、真梨さんは優しく微笑みながら「そうだね」と答えた。
「こんにちは」
 声がしたので振り向くと、ドアを開けて入ってきたのは、制服姿の漣だった。部活帰りに直接寄ったらしく、大きなスポーツバッグを肩にかけている。
「うわっ、赤ちゃん!」
 真梨さんたちの姿に気づくと同時に駆け寄ってくる。
「生まれたんですね、すげえ!」
 ユウさんに負けないくらいきらきらとした目で言う漣の肩を慌てて叩き、私は「しー」と人差し指を立てて小声で言う。
「漣、声が大っきい。赤ちゃん起こしちゃうから、ボリューム落として」
「あっ、そっか!」
 彼はうなずいて赤ちゃんから少し顔を離した。
「なんか、ふたり、仲良くなった?」
 訊ねてきたのは、龍さんだった。すると真梨さんも、「私も思った」と笑う。
「真波ちゃんと漣くん、前はちょっとぎこちない感じだったのに、すごく距離が縮まった感じ」
「だよな、やっぱり。いやー、いいなあ、若いって」
「青春だねえ」
「俺たちにもこんなころがあったよなあ」
 私たちを置き去りに盛り上がるふたりの会話に入ることができなくて、私は口をぱくぱくさせた。なぜか一気に顔が熱くなり、慌てて下を向く。
「なに、照れてんの?」
 漣がおかしそうに顔を覗き込んできた。
「お前も可愛いとこあんじゃん」
「は、はっ!? なにそれ、ていうか照れてないし!」
 なぜか裏返ってしまった声で急いで否定する。前も漣から同じようなことを言われたことがあったはずなのに、どうして今回はこんなにも心臓がうるさいんだろう。焦る私をよそに、彼はさっきの私と同じように唇に人差し指を当てて言った。
「声でけーぞ、赤ちゃん起きたらどうする」
 そう言われると黙るしかなくて、言葉を引っ込めたせいかさらに頬に熱が集まるような気がした。私はうつむいたまま、勢いよく席を立つ。
「……なんか、あれだね、暑いね。窓開けようかな」
 誰にともなくそう言って、反対側にある窓に向かった。こんな顔を見られたら絶対に漣に馬鹿にされる。
 音を立てないように窓を開けたとたん、風にのって、遠くからかすかに太鼓のような音が聞こえてきた。
 真梨さんにも聞こえたらしく、「あ、太鼓」と呟く。
「そういえば、もうすぐ龍神祭だもんね。練習が始まるころだよね」
 耳慣れない単語に私は動きを止めて振り向く。すると、漣が隣にやって来て、窓の外に目を向けながら「八月の頭にある鳥浦の祭りだよ」と教えてくれた。
「鳥浦の海に住む神様の祭りなんだってさ。夜にみんなで灯籠持って町内を回ったあと海岸まで行って、灯籠を燃やすらしい。そうしたら願いが叶うって言われてるんだって」
 そう説明してから、
「まあ、俺もまだ見たことないけどさ。引っ越してきたばっかりだし」
 と笑った。その顔を見てふと思いつき、気になっていたことを訊ねてみる。
「漣って、前はどこに住んでたの?」
「N市だよ」
 その答えに、私は目を見開いた。
「えっ、そうなの? 私と一緒ってこと?」
「実はな」
「ええー、そうだったんだ、知らなかった……」
 ということは、漣はわざわざN市から、身内のいない鳥浦へと引っ越してきたわけだ。
 親の転勤というわけでも、私のように不登校という事情があるわけでもなく、親戚の家があるわけでもないのに、なぜなんだろう。
「なんで漣は、ひとりで鳥浦に引っ越してきたの?」
 思わず疑問を口に出すと、彼は少し唇を引き結んでから、ゆっくりと口を開いた。
「……会いたい人が、いて……」
 初耳だった。鳥浦に誰か会いたい人がいて、そのためにわざわざ引っ越してきたということか。そこまでして会いたいなんて、一体どんな人なんだろう。
「……それって、誰?」
「恩人」
 漣は短く答えた。
「じゃあ、その人に恩返しとかするために、わざわざここに下宿してるってこと?」
「まあ、な。どこにいるか分かんないから、とりあえずこのあたりに住みたくて、父さんに頼んでつてを探してもらって、真波のじいちゃんに行き着いたんだ。事情があってどうしても鳥浦に住みたいって相談したら、快く引き受けてくれてよかった」
「そうなんだ……それで、その人には会えたの?」
 何気なく訊ねると、彼の顔がぴくりと強張った。
「……怖くて捜せてない。でも、ここに住むことが、償いだと思うから」
 怖い? 償い? 恩人という言葉とはかけ離れた単語に、私は眉をひそめた。
 でも、張り詰めたような彼の横顔を見ていると、なぜだか言葉を失ってしまい、訊き返すことができなかった。
「……ちょっと俺、外出てくるな」
 急に漣がそう言って、店を出ていった。いつもより小さく見えるうしろ姿を、私は呆然と見送る。
 追いかけてなにか声をかけたほうがいいだろうか、でももしかしたらひとりになりたいのかもしれない、と思いあぐねているうちに数分が過ぎたころ、慌ただしい足音とともに、漣が戻って来た。