せっかくの休日なのに、明け方からずっと雨が降っていた。
 昨日のニュースの気象予報では晴れだったけれど、海辺の町の天気は不安定で、予報が外れることも多いのだ。
 文房具を買いに隣町まで出かけようと思っていたものの、窓の外を灰色に染める雨景色を見ていたら気が重くなり、来週でいいか、と考え直した。
 こんな天気なのに漣は早朝から部活に出かけていき、おじいちゃんは町内会の用事で外出していたので、家には私とおばあちゃんだけだった。
 少し遅めの昼食のあと、居間のテレビでふたりでワイドショーを観ていたとき、玄関のチャイムが鳴った。立ち上がろうとしたおばあちゃんに、「私が出るよ」と声をかける。
 最初のころは、こういうなにげないやりとりもなかなか上手くできなかった。なにかを手伝おうと思っても言い出せなくて、結局やってもらってばかりになっていた。
 でも今は、自然にできるようになった。頑張れば、努力すれば、私も変われるのだ。
 そのことを少し誇らしく思いながら、がらりと玄関のドアを開けた瞬間、息を呑んだ。
 太い眉、鋭い眼光、真一文字に結ばれた口、無表情な顔、ぴんと伸ばされた背筋、暗い色のスーツ、真っ黒なこうもり傘。
「え……お、お父さん……!?」
 そこに立っていたのは、紛れもなく私の父親だった。お父さんはじろりと私を見て、
「久しぶりだな、真波」
 と低い声で言った。
 相変わらずだった。口調も態度もひどく威圧的で、こちらが息苦しくなるくらいに重い。これまでの私だったらきっと、挨拶もそこそこに尻尾を巻いて逃げ出していただろう。
 でも、私は変わると決めたのだ。
「……うん、久しぶり」
 心の片隅で小さくなって震えていた勇気を奮い立たせて、なんとか口にする。お父さんはぴくりと片眉を上げてうなずいた。
「おじいさんたちはいるか?」
「あ、おじいちゃんは出かけてるけど、おばあちゃんはいるよ。呼んでくるね」
 そう答えた瞬間、うしろで「あらっ」とおばあちゃんの声がした。
「まあ、隆司さん……どうなすったの?」
 ぱたぱたと玄関にやって来たおばあちゃんに、お父さんは慇懃無礼に頭を下げた。
「お義母さん、ご無沙汰しております。突然の訪問をお許しください。取引先との仕事の関係で急きょ近くまで来る用事ができまして、せっかくならと寄らせていただきました。真波がお世話になっております」
「あら、そうだったの。あ、どうぞどうぞ、上がってください」
「では、失礼いたします」
 お父さんとおばあちゃんが話すのを初めて見た。小さいころ鳥浦に来たときはお母さんと真樹と三人で、お父さんはいなかったのだ。ふたりはこんな感じで会話するのか、と驚いてしまう。義理とはいえ親子なのに、まるで他人のようだった。私も人のことは言えないけれど。
「隆司さん、なにか飲みますか」
「いえ、お構いなく」
「麦茶でいいかねえ」
「ああ、では、お願いします」
 おばあちゃんが台所に入っていったので、私はお父さんに「こっち」と声をかけて居間に導いた。
 無言のまま向かい合って座る。なにか話をしたほうがいいかな、とも思ったけれど、なにも思いつかない。
 しばらくすると、おばあちゃんがお盆に麦茶の入ったコップを三つのせて入ってきた。
 お父さんの前に麦茶を置きながら、おばあちゃんは小さく呟くように言う。
「あの、洋子の……容態はどうですか」
 洋子というのは、お母さんの名前だ。どきりとして、私もお父さんを見る。
「……変わりありません」
 お父さんは無表情のまま答えた。ふっと肩の力が抜ける。
「そう……そうやねえ、もう十年も経っとるもんねえ……」
 おばあちゃんは微笑んで言ったけれど、とても悲しそうだった。それから「羊羮でも切ってこようね」と立ち上がって台所へと戻っていった。
 再び居間に沈黙が落ちる。お父さんがコップを持ち上げて、麦茶をひと口飲んでから、ゆっくりと口を開いた。
「真波、ちゃんと学校には行ってるのか」
「行ってるよ」
 私はうなずいて答える。
『そうか、偉いな、頑張ってるな』……そんな答えが返ってくると期待していたわけでもないけれど、ただ小さくうなずき返すだけのお父さんの反応に、思っていたよりずっとショックを受けた。
 私がどれほどの決意で学校に足を踏み入れたのか、どれだけ頑張って通い続けているのか、お父さんには想像もできないのだろうか。
「部活には入ったのか」
 私の気持ちなんて気づく様子もなく、お父さんはさらに問いを重ねた。
「……部活はやってないけど、図書委員会に入った」
 それだけでも、私にとってはかなりの進展なのだ。どうにか伝わってほしくて、じっとお父さんの目を見る。
「委員会?」
 でも、お父さんはぐっと眉をひそめて、低く唸るように続けた。
「そんなもの、なんの意味がある? 大学受験のことを考えたら、部活にこそ入るべきだろう。ただでさえお前は入学から一ヶ月も休んで、マイナスからのスタートなんだ。せめて部活に入って真面目に活動して、内申点を上げておかないと、推薦を考えたときに痛い目を見るぞ。真樹は成績も順調に上がっていってるし、校外のボランティアにも積極的に参加して頑張ってる。真波も見習わないといけないぞ」
 かっと頭に血が昇った。なんでそういうこと言うの?と叫びそうになる。
 ずっと不登校で、学校が怖くてどうしても足が向かなかった私が、高校生になってやっと通えるようになったばかりで、大学受験のことまで考えられるわけないじゃない。委員会に入っただけでも、大進歩なのに。
 でも、そりゃそうだよね。お父さんが大好きな真樹は、学校を一日も休まず、塾でも優秀な成績で期待されて、先生や友達からの評判もよくて、将来有望だもんね。お父さんは大事な跡継ぎの真樹のことしか目に入ってないもんね。私みたいな出来損ないの気持ちなんて分からないよね。
 鳥浦に来てから少しずつ明るいほうへと浮上していた気持ちが、一瞬にして暗い暗い沼の底へと沈んでいく。
 お父さんに対する不平不満や、真樹に対する劣等感、そしてなにより自分の情けなさへの嫌悪感が、とめどなく湧き上がってくる。
 やっぱり、だめなんだ。私なんかいくら努力したって、少しくらい変われたところで、お父さんにとっては〝面倒ばかりかける恥ずかしい娘〟でしかないのだ。
 張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、全身の力がしゅるしゅると抜けていく。今まで頑張ってきたすべてが、無意味なものに思えてくる。
 この感覚を、私は確かに知っていた。
 口を開く気力さえ失くしてうつむいたとき、玄関のドアが開く音がして、雨音が強まった。
「ばあちゃーん! ごめん、濡れてるから、タオルとか持ってきてくれない? あ、真波いるなら、真波お願い」
 漣の声だった。部活が終わって帰宅したのだ。
 私は無言で立ち上がり、洗面所に行きバスタオルを取って玄関に向かう。
「なんか革靴あったけど、誰かお客さん来てんの?」
 ありがと、とタオルを受け取りながら、漣が首を傾げて訊ねてきた。
「父親が来た」
 短く答えると、彼は目を見開く。
「え、真波のお父さん?」
 私はこくりとうなずき、踵を返して居間に向かう。
 正直なところ、このまま自分の部屋にこもってしまいたかった。もうお父さんの顔は見たくない。でも戻らないとあとでなにを言われるか分からない。
「なに、お父さんが来てくれたのに、お前なんでそんな暗いの?」
「……お父さんが来ても、嬉しくないもん」
 思わず正直に答えると、漣が一瞬黙って、「そっか」とぽつりと答えた。
 てっきり理由を問いただされたり、親に向かってそんなこと言うな、と怒られたりすると思っていたので、少し拍子抜けする。