「幽霊だー!」
 ふいに聞こえてきた言葉に、私は反射的に振り向いた。目を向けた先には、小学生くらいの男の子が数人、海のほうへ向かって走っている。
「幽霊が来るぞー! 逃げろ!」
「急げ、急げ!」
 ぎゃははっ、と楽しげに笑いながら追いかけっこをしている背中を目で追う。
「幽霊……?」
 思わず少年たちの言葉を反芻すると、先を歩いていた彼が「ああ」と振り返った。
「あっちに砂浜があるんだけど、夜になると幽霊が出るって言われてるんだよ。それでこのあたりの子どもたちは、鬼ごっこのときに追いかける役を『鬼』じゃなくて『幽霊』って呼んでるらしい」
「……ふうん」
 別に答えを求めていたわけでもないのに詳しく解説されて、私は微妙な気持ちになりつつうなずいた。彼はまた少し眉を寄せてから、ふいに前のほうを指差した。
「着いたぞ」
 その指先を追うと、小ぢんまりとした古い木造の家屋があった。彼がすたすたと歩きだしたので、私もあとを追う。
 軒先には、風化して今にも崩れそうなプラスチックの台の上に、花の鉢植えがいくつか置かれている。少し視線を上げると、網戸だけ残して開け放たれた玄関の引き戸とチャイム、そして『高田』という表札があった。高田というのはお母さんの旧姓だ。
 この家には確かに昔一度来たことがあるはずなのに、やっぱりほとんど覚えがなかった。いきなり知らない家に連れて来られたような気分だ。
「ただいまー」
 彼は自転車を車庫の中に停め、私の荷物を抱えると、奥に声をかけながら玄関の網戸を開けた。鍵をかけていないのか、なんて不用心な、と驚きを隠せない。
「はーい」と応える声が中からかすかに聞こえてきた。
 これから祖父母に会うのだと思うとなんだか急に動悸がしてきて、私はうつむいて立ち止まる。すると彼が怪訝そうな声で言った。
「おい、真波。入らないのか?」
 突然呼び捨てにされて、私はばっと顔を上げた。
 会ったばかりの人に、しかも男子に下の名前を呼ばれるなんて、初めてのことだった。本当に、なんて不遜なやつなんだろう、この美山漣という人間は。
「どうした? 早くしろよ。じいちゃんたち待ってるぞ」
 驚きと動揺でそれでも動けずにいると、奥のほうから足音が聞こえてきた。
 どきりと心臓が跳ねる。顔もはっきりとは覚えていないおじいちゃんとおばあちゃんに、とうとう対面するのだ。どんな顔をすればいいのか分からなくて、反射的にまたうつむく。
 どきどきとうるさい胸のあたりをぎゅっとつかみ、下を向いたまま待つ。
「まあちゃん?」
 少ししわがれた年配女性の声が玄関に響いた。顔を上げると、笑みを浮かべた顔がふたつ並んでいた。
「あ、はい……」
 私が小さく答えると、おじいちゃんがにこにこ笑いながら「いらっしゃい」と言った。
「よく来たねえ。待ってたんよ」
 おばあちゃんも同じようににこにこしながら小首を傾げる。
「遠かったから疲れたやろう。中でゆっくりせんね、冷たい飲みもの用意してあるからね」
「あ、はい、どうも……えと、これからお世話になります。よろしくお願いします」
 まずは挨拶が肝心、と自分を激励して、できる限りきちんと頭を下げた。
「あらあら、こちらこそよろしくねえ。年寄りの家だから古いし散らかっとるけど、自分の家だと思ってのびのびしてねえ。じいちゃんもばあちゃんも、まあちゃんが来てくれるのを楽しみにしとったんよ」
 ちらりと目を向けると、おばあちゃんは包み込むような笑顔でこちらを見ていた。笑い皺の寄った少し垂れた目尻が、記憶の彼方や古い写真に残されているお母さんのそれと重なる。やっぱり似ているな、と思った。
「本当に、よう来てくれたねえ」
 今度はおじいちゃんが言った。まるで私のことを心から愛おしんでいるかのような眼差し。
 一瞬ほだされかけて、ふたりとも本当に私のことを待ってくれていたみたいだ、と思ってしまった。でも、浅はかな期待を〝そんなわけない〟と慌てて打ち消す。
 実の親でさえ持て余して見捨てるような人間を、ほとんど会ったこともない、まともに喋ったこともない祖父母が心待ちにしてくれていたなんて、そんな都合のいいことなどあるわけがなかった。優しい表情を浮かべてはいるけれど、きっと、面倒な大荷物を押しつけられてしまったと思っているに違いない。それに気づかずに素直に喜んだりしたら、痛い目を見るのは自分なのだ。
 私は緩みかけた気持ちを意識的に引きしめ、深々と頭を下げた。
「……はい、なるべくご迷惑をおかけしないように気をつけますので、よろしくお願いします」
 脱いだ靴をしゃがみ込んで並べていると、
「……なーんか他人行儀だなあ。血の繋がった孫なのに」
 隣に立って私たちを交互に見ていた彼が、私に視線を留めて呟いた。
 不躾な言葉にむっとして、思わず険しい表情を浮かべて彼を睨み上げてしまう。
 すると、すぐに背後から「そうねえ、はたから見たらそう思ってまうよねえ」とおばあちゃんの声が降ってきた。
「まあちゃんが私らとちゃんと会ったのは、まだ小っちゃいころやったからねえ、きっと緊張しとるんよ」
 妙にのんびりとした口調で自分の気持ちを勝手に代弁されて、私は居たたまれなさに唇を噛む。
 祖父母には今まで二回しか会ったことがなかった。子どものころここに遊びに来たときと、お母さんが入院している病院にお見舞いに行って、たまたま姿を見たときだけ。ここに来たときのことは幼すぎて覚えていないし、病院で会ったときは一方的に見かけただけで、もちろん会話もしていない。
 促されて奥の部屋へと廊下を歩く。おばあちゃんが私を振り向いて申し訳なさそうな笑みを浮かべて口を開いた。
「ごめんねえ、まあちゃん。ばあちゃんらは、あちらのおじいさんたちにあまりよく思われとらんから……ろくに会いにいくことも電話もできんで、寂しい思いをさせとったよね」
 私は黙って首を横に振る。別に寂しいなんて思ったことはなかった。正直なところ、申し訳ないけれどそれほどの思い入れもない。ただ、遠くに母方の祖父母がいるという事実がぼんやり頭の片隅に記憶されていただけだった。
「でも、これからは、ばあちゃんたちがまあちゃんの側にいるからね。安心して甘えてねえ」
 甘えて、という言葉に、なんだか胸のあたりがざわりとした。
 そんなこと、できるわけない。そもそももう高校生なんだから、誰かに甘えたいなんてこれっぽっちも思わない。
 周りに自慢できるような孫では全くない私なんかを、真意はともかく表面上は快く引き取ってくれたことには感謝しているけれど、むしろ、どちらかと言えば放っておいてほしかった。
 私は、できるだけ誰にも迷惑も面倒もかけないように、空気のようにひっそりと存在していたいのだ。そのほうがお互いにとって得だと思う。無駄に傷つけたり傷つけられたりしなくて済むし、変に期待や心配をされてがっかりさせてしまうおそれもない。
「まあちゃん、ここが居間だよ」
 おじいちゃんの声に、廊下の床板をじっと見つめながら歩いていた私は目を上げた。その呼び方やめてほしい、と思いつつ。
「うちは最近の家みたいにダイニングとかはないからねえ、ご飯を食べるのもテレビを見るのもくつろぐのも全部ここなんよ」
 そうおばあちゃんが続ける。私は小さくうなずいて中に足を踏み入れた。
 畳敷きの居間は、今まで住んでいた家のリビングに比べてずいぶん小ぢんまりとしていた。真ん中には昔のホームドラマに出てきそうな卓袱台が鎮座していて、その上に箸立てと調味料、リモコンなどが置かれている。壁際に置かれた木製の棚にはガラスの扉がついていて、中には食器類や文具、書類や本などが雑多に収納されていた。
 左側には開け放たれた引き戸があり、その向こうは台所のようだった。仕切り代わりに、木のビーズが無数に連なった玉すだれがかかっている。おばあちゃんが「さて、さて」と言いながら通り抜けると、じゃらじゃらと音が鳴った。
 歴史の教科書に載っていた昭和時代の家庭の資料写真が、そのまま再現されているかのようだった。
「まあちゃん、飲みものはなにがいいね?」
 玉すだれの向こうでおばあちゃんが冷蔵庫を開けながら訊ねてくる。その背中に、なんでもいいです、と答えようと口を開いたとき、さらに言葉が続いた。
「お茶なら緑茶か麦茶か。ジュースはりんごジュースかみかんジュース、ぶどうジュース。あとねえ、カルピスもあるんよ」
 おばあちゃんがそう言って振り向いた。なぜか意味深な笑みを浮かべている。私は怪訝に思いながらも、「じゃあ、麦茶で」と答えた。とたんにおばあちゃんが目を丸くする。
「えっ、麦茶でいいん? 遠慮せんでいいんよ。カルピスあるよ」
 おばあちゃんが冷蔵庫から取り出したらしいカルピスのボトルを突き出してきた。
 なんでそんなにカルピス推すの。暑かったし喉が渇いてるから普通にお茶がいいんだけど。そもそも甘い飲みものあんまり好きじゃないし。ていうか、もしかして田舎ではカルピスってすごい贅沢品で、客をもてなすときはカルピスが定番とか?
 表情は変えないまま、でも頭の中では思考が高速回転している。
 正直なところ、全く飲みたくはなかったけれど、この流れで無下に断るなんてできそうになかった。
「じゃあ、カルピスいただきます……」
 なんとか笑顔で返そうとしたけれど、頬がぎしぎしと軋む感じがしているから、たぶん情けないくらい強張った顔になっているだろう。もともと表情筋を動かすのが苦手な私にとって、愛想笑いはひどくハードルが高いのだ。
「はあい、すぐ作るから待っとってねえ」
 おばあちゃんがにっこり笑ってうなずき、奥へと引っ込んでいった。
 私は目立たないようにふうっと息を吐き、卓袱台の横で手持ち無沙汰に佇む。そのとき、廊下から居間を覗いていた彼がふいに「じいちゃん」と声を上げたので、私は反射的にそちらを見た。
「真波の部屋は、一階の客間の隣でいいんだよな?」
 また、勝手に呼び捨て。腹が立つから、私もあとで『漣』と不躾に呼んでやろう、とこっそり決意する。初対面の相手からいきなり呼び捨てにされる違和感や所在なさを味わってみればいいのだ。まあ、そんな繊細な神経を持ち合わせているようには見えないけれど。
 それに、彼がおじいちゃんに声をかけたときの調子が、なんというかすごくなれなれしくて、それにも違和感を覚えた。たぶんただの近所の男の子なのに、まるで私ではなく彼のほうがおじいちゃんの本当の孫みたいな、遠慮も壁も感じさせない口調。
「ああ、そうだよ」
 おじいちゃんは彼の横柄さを気にするふうもなく、かすかに笑みを浮かべてうなずき返した。
「じゃ、とりあえずこいつの荷物、持ってっちゃうな」
 彼は私の旅行鞄を指さしながら抱え直して言う。
「そうかい、ありがとうな、頼んだよ」
「そのあと二階に上がってから戻る。着替えたいから」
「ああ、分かったよ」
 ふたりの会話に黙って聞き耳を立てていた私は、最後の彼の言葉に耳を疑った。
 着替える? 二階で? どういうこと? まるで自分の家みたいな……。
 彼が姿を消したあと、ちらりとおじいちゃんのほうを見ると、私の疑問が伝わったのか、「ああ、そうそう」となにかを思いついたように言った。
「漣くんは、うちの二階に下宿しとるんよ」
「え……っ」
 さすがに我慢できずに、驚きの声を上げてしまった。
「下宿……」
「そうなんよ」
 いつの間にかお盆を持って居間へと入ってきていたおばあちゃんがうなずきながら言う。
「漣くんは、じいちゃんの昔なじみのね、ご友人の息子さんなんだよ。こっちの高校に通うことになったけどひとり暮らしさせるのは心配って聞いたもんで、ほんならうちで預かるよって言うてねえ。働き者だし気がきくし、むしろ私らのほうがいろいろ助けてもらっとるんよ」
「はあ……」
 曖昧にうなずき返しながらも、なんでそれを先に言ってくれなかったの、と思わずにはいられなかった。
 年ごろの孫娘と男を同居させるなんて、いくらなんでも非常識じゃないか? しかも相手はあの無神経なやつだ。それでなくても、お風呂とか着替えとか、どう考えても嫌なんですけど。そんな状況だって分かってたら、絶対にこっちの高校なんて選ばなかったのに。
 ああ、もしかして、やっぱり本当は私なんかの面倒を見させられるのは迷惑だと思っていて、わざと私の嫌がりそうな状況を作るために彼を下宿させることにしたとか。私が自分から『実家に戻りたい』と言い出すように。そうすれば世話を頼んできたお父さんに対して角を立てずに家に帰すことができるから?
 さすがに被害妄想かと思ったけれど、悪いほうへ悪いほうへと沈んでいく思考を止めることができない。
 そんな私の負の感情が伝わったらしく、おばあちゃんが少し慌てたようにつけ足した。
「ああ、心配せんでいいんよ。漣くんは本当にいい子だから、まあちゃんに嫌な思いをさせたりしないよ、大丈夫。安心しんさい」
 出会って数十分ですでに何回も嫌な思いさせられましたけど、と心の中で不服を申し立てる。
「それに、高校も同じとこやしね。分からんことがあったら漣くんに訊けば安心やからね、よかったねえ」
 そんな予感はしていたけれど、やっぱり同じ学校なのか。全然よくないし、別に訊きたいこともないし。私はうつむいて唇を噛んだ。
「まあ座って座って、まあちゃん。これ飲みんさい、喉が渇いとるやろう。ほら、カルピスよ」
 おばあちゃんが満面の笑みで卓袱台の上にグラスを置く。私は口に出せない思いを胸いっぱいに呑み込んだまま、下を向いてうなずき、腰を下ろした。
 口に含んだ乳白色の液体は、記憶の通り、ひどく甘ったるかった。