「おじいちゃん、おばあちゃん、行ってきます」
 玄関で靴を履きながら声を上げると、ふたりが居間から顔を出した。
「行ってらっしゃい、まあちゃん。気をつけてね」
「はい。あ、今日は委員会の集まりがあるから、ちょっと遅くなるかも」
「はいはい。頑張ってね」
「ありがとう、行ってきます」
 外に出ると、海に白く反射した朝の光が目を射た。七月に入って、景色はすっかり夏だ。
 背後で「行ってきます」と声がして、見ると漣が玄関から出てきた。
「なに、俺のこと待ってたの?」
 にやにやしながら言われて、「馬鹿じゃない?」と軽く受け流す。
「へー照れちゃって」
 私は無言で駅に向かってすたすたと歩き出した。「待てよ」と漣が自転車を押してついて来る。部活のあと暗くなってから下校する彼は、帰りは駅から自転車で走るのだ。それなら行きも自転車に乗ればいいのに、いつも私と並んで押して歩く。
 すっかり歩き慣れた道を進みながら、もう二ヶ月も経ったのか、とふいに思った。その間に、私の状況も気持ちも驚くほど変わった。
 最初のころは心を閉ざして殻にこもり、なるべく誰とも接触しないようにしていたけれど、ナギサの子ども食堂を手伝うようになったのをきっかけに変わろうと決意してからは、おじいちゃんやおばあちゃんとの会話も徐々に増えた。学校では、クラス会議で話し合ってもなかなか決まらなかった図書委員におそるおそる手を上げて立候補したりもして、私にしてはずいぶんと頑張っていると思う。
 図書委員会に入ってもいいかなと思った理由は、金曜日が閉室日で活動がないからだった。金曜日は子ども食堂の日だ。
 それ以外の曜日も本当はナギサに行きたかったけれど、委員の当番や、六月から始まった進学補習があるので、なかなか行けなくなっていた。
 でも、思っていたよりは平気だった。前ほどユウさんに依存しなくても、なんとか毎日をこなせている。
 ただ、その分ユウさんに会える金曜日が、自分でも驚くほど待ち遠しかった。

 学校に着いて教室に入ると、新しく隣の席になった女子から「おはよ」と声をかけられ、私も「おはよう」と挨拶を返した。
 自分から話しかけるのはやっぱりまだ難しいけれど、せめてうつむかずに顔を上げて、誰かから声をかけられたらちゃんと答えるようにしている。
 下を向くことで予防線を張ってシャットアウトするのはやめよう、と決めてからは、自然と周りから話しかけてもらえる機会も増えた。まだ友達と呼べるような人はできていないけれど、孤立しているというほどでもなくなった。
 そんな私の変化はおじいちゃんやおばあちゃんにもなんとなく伝わるらしく、「最近いい顔をしとるねえ」と嬉しそうに言われた。
 頑張れば変われるんだ。自分から歩み寄る努力をすれば、相手も近づいて来てくれるんだ。そんな当たり前のことに今さらながらに気がついた私の目には、やけに世界がきらきらと輝いて見えた。

 一時間目は体育で、バスケの授業だった。
 準備運動を終えて軽くパスとシュートの練習をしたところで、ゲームを始めます、と先生が言った。まずは男子が先にコートに入り、女子はそれぞれに壁際で休憩を取りながら観戦する。
 試合が始まってすぐにみんなの注目を一身に浴びたのは、漣だった。
 彼が相手チームのボールを素早くカットしたり、狭い隙間を縫う難しいパスを通したり、意表を突くフェイントでディフェンスをくぐり抜けたり、軽く飛び上がって鮮やかなシュートを決めたりするたびに、女子たちから拍手と歓声が上がった。
 私は周りに合わせて小さく拍手をしながら、バレー部のくせにバスケまで軽々できちゃうわけね、と思わず心の中で突っ込んでしまう。
 そんなことを考えながら見ているうちに、相手チームのひとりが不穏な動きをしていることに気がついた。体育の授業は二クラス合同なので、他クラスの人は私にはまだ顔しか分からないけれど、彼は先生から見えないように、自分の身体の陰で相手の腕をつかんだり服を引っ張ったりして、プレーを妨害しているのだ。
 表情を見ると、顔を歪めてかなり躍起になっているようだった。負けを意識して焦っているのだろうか。
 もちろんみんなも気がついているようで、ちらちらと視線を送ったり、ひそひそ話をしていたりするけれど、誰も先生に指摘することはない。たかが体育の授業だから告げ口をするほどのことではないとか、雰囲気を壊して険悪になりたくないとか、みんなそういうふうに考えているんだろう。
 でも嫌な感じだな、と思いながら彼の動きを目で追っていると、攻守交代になってコートの中の人たちが一斉に移動し始めた。不正をしている男子もこちらへ向かって走ってくる。彼はまた先生の目を盗んで相手の進路を塞ぐように横から強く身体をぶつけた。ぶつかられた男子がよろけて転びそうになる。
「うわ、危ない」
「ひどいね」
 周りの女子たちも呆れたように言っている。
 そのとき、向こうから漣が駆けてきた。そして追い抜きざまに、「おい」と彼に声をかける。
 かなり小さい声だったけれど、ちょうど私の目の前だったので、聞き取ることができた。
「そんなんで勝って嬉しいか? 自分が情けなくなるだけだから、やめとけよ」
 たぶん彼のプライドを守るために、他の生徒には聞こえない音量で言ったのだと思う。でも、その言葉自体は、容赦のない厳しいものだった。
 言われた男子ははっと目を開いて漣を見てから、悔しそうに唇を噛んで走り去っていったけれど、それ以降はぱったりと大人しくなった。
 前までは、こういう漣の振る舞いを見ると、なんて冷たくて嫌なやつなんだ、と思っていた。相手が傷つくようなことでも真正面から口にする、人の気持ちを考えることができない人間なんだと思っていた。
 でも、今なら分かる。漣の言葉は、ユウさんの穏やかな優しさとは違う、厳しさと表裏一体になった優しさなのだ。みんなのために、相手のために、あえて自分が憎まれ役を買って出て、毅然と真実を告げるのだ。
 漣はうそをつかない。というか、つけないのだと思う。嫌なら嫌と言うし、不愉快に思ったらムカつくと言う。それは普通に考えたら、人間関係を上手く築いていくうえでは、あまりよくないことかもしれない。
 でも私にとっては、そういう彼のまっすぐさは、助かる面もあった。
 私は中学生のころ、友人関係で痛い目に遭った。大して珍しくもない出来事だと頭では分かっていたけれど、それでもひどく悲しくてみじめで悔しくてつらくて、それ以来、表に見えている他人の表情や言動を全く信じられなくなった。人は笑顔の裏にどす黒い感情を秘めていることもあるのだと知ってしまったのだ。
 周囲が向けてくる優しい言葉や明るい笑みの奥に隠されたものを読み取ろうと疑心暗鬼になり、いつの間にかそれが癖になっていて、常に相手の言動を疑っていた。ユウさんに対しては笑顔の裏を読むことはないけれど、それは彼が家族やクラスメイトのように私と密接な関係を持っていないからだ。彼は別に自分をごまかしてまで私への悪意を隠す必要がないと分かっているから、私も安心して目に見えるものだけを信じていても大丈夫だと思っているだけ。
 でも、漣は違った。彼はいつも自分の気持ちに正直で、苛立ちも不愉快もすべて顔や声に出す。それが分かっているからこそ、彼といるときには隠された気持ちを探る必要がなくて、それがとても私の気を軽くした。
 鳥浦に越してきたとき、他人に対して一線を引いている私の中にずかずかと入り込んできて、言いたい放題に言葉をぶつけてきた。それを私はひどく苦々しく思っていたけれど、彼がいなかったら、私は今もまだ殻にこもったままだっただろう。
 漣はすごい、と私は心の中でひっそりと呟いた。
「漣くんって、すごいよね」
 まるで心を読まれたような言葉を唐突にかけられて、一瞬で我に返った私は、慌てて声の主を見た。ふたり分ほど離れたところに座っていた橋本さんだった。どうやら彼女の耳にも、漣の囁きが届いたらしい。
「あ……うん、そうだね」
「ああいうことぱっと言えるのって、尊敬しちゃう」
「まあ、なかなか言えないよね、普通」
「しかも勉強も運動もできて、性格がよくて気配りができて、他の男子とは全然違って大人っぽいしね。白瀬さんって、一緒に住んでてときめいちゃったりしない?」
 ときめく、という予想外すぎる言葉に、私は「はっ!?」と目を丸くした。
「いやいや、ないよ……」
「えー、本当に?」
「ないない、本当にない」
 顔の前で思いきり手を振ってみたけれど、橋本さんはいまいち信じていないように見えた。
「私、恋愛とか、よく分からないから……」
 苦し紛れにそう言うと、今度は彼女が目を見開く。
「分からないって、好きな人いたことないってこと?」
「うん、まあ……」
 そんなにおかしいかな、と思いながら首を縦に振る。
「好きになるってどんな感じなのか、分からない」
 素直な思いを口にすると、橋本さんは「うーん」と小首を傾げて言った。
「会えると思うと楽しみで落ち着かないとか、その人の顔見られただけで嬉しいとか、用はないけど話したいとか、でもいざ話したらどきどきしちゃう、とか?」
「……なるほど」
 私にとっては、それに当てはまるのは、ユウさんだ。会える日は朝からわくわくするし、ナギサに足を踏み入れて彼が笑顔で出迎えてくれると嬉しい。どきどき、というのはよく分からないけれど、彼に会って何気ない話をしていると、とても心が安らぐ感じがする。
 私はユウさんに恋をしているのだろうか。なんだかぴんとこない気もするけれど、そう考えると、今までの自分の気持ちに説明がつく気がした。
 ひねくれ者の私が、ユウさんに対しては素直になれること。夜に家を抜け出してまで彼に会いに行っていたこと。人と接するのが苦手なくせに、自ら子ども食堂の手伝いを申し出たこと。彼に会える日が、いつも楽しみで仕方ないこと。
 すべて、ユウさんのことが好きだからなのだ。