「……なーんもない」
 ずっしりと重たい荷物を抱えて駅のホームに降り立ち、これから住むことになる町を見渡したときの私の第一声が、それだった。
「ほんとになんもないな」
『鳥浦』と書かれた駅名板を見上げて、ふうっと深いため息を吐き出す。数えるほどしか乗客のいない電車をこの駅で降りたのは、私ひとりだった。
 再び駅の外に視線を向ける。目に映るのは、空の青と山の緑だけ。その下には、地面にへばりつくように建ち並ぶ古くさい木造住宅の茶色が続いている。ど田舎、という言葉が頭に浮かんだ。
 T市鳥浦町。ここに来たのは、十年以上前、幼稚園のころ母親に連れられて祖父母の家を訪れたときの一度だけだった。幼かったからほとんど記憶はなくて、こんなにもなにもないところだとは思わなかった。これまでの環境と違いすぎて、言いようのない不安が込み上げてくる。
 私、これから、どうなるんだろ。
 ぼんやりと考えながら、案内表示の矢印に従って階段を上り、線路の上をまたぐ連絡通路を渡って、また階段を下りる。
 改札機はひとつだけだった。
 住み慣れた街を出るときは、掃除機のノズルに吸い込まれていく無数の塵のひとかけらみたいに、人波に押し流されながらずらりと並ぶ改札機のひとつを通り抜けた。でも、新しい町に入る今は、無人のホームの端にぽつんと佇むそれを、たったひとりで通り抜けている。ずいぶんな落差だった。
 当然か、と思う。私がこれまで暮らしていたのは、このA県の県庁所在地N市の中心部だった。海に突き出した半島の先端にあるこのT市とは比べものにならないほどの人口密度で、いつどこに行っても数えきれないほどの人がいる。そこから各駅停車でちんたら走る電車に揺られること一時間。たったそれだけで、こんな異次元のように人の気配のない場所に辿り着くなんて。まるで世界の中心から片隅まで無理やり運ばれてきてしまったような気持ちだ。
 駅舎を出た私はまたひとつため息をついて、車一台停まっていないちっぽけなロータリーの端で足を止めた。目の前には、これから住む世界が広がっている。
 左は見渡す限りの海、右は果てしなく続く山。それらの上に覆いかぶさる空は、高い建物が全くないせいかやけに広く感じられて、なんだか落ち着かなかった。
 お父さんから鳥浦の高校をすすめられたとき、ここまで寂れた町だとちゃんと覚えていれば、絶対に承諾なんてしなかったのに。
 私がこんな煮え切らない思いを抱えて憂鬱なため息ばかりついているのには、理由がある。
 この四月から高校生になった私は、家族のもとを離れて母方の祖父母が住む町に引っ越し、そこから近くの学校に通うことになった。
『N市の通信制高校に通うか、祖父母の家からT市の高校に通うか』の二択をお父さんから迫られて、『ほとんど知らない町に住むのは嫌だけれど、居場所のない実家にずっといるよりはましだろう』と考えた末の、消去法の選択だった。
 本当は春休みの間に引っ越して入学式から登校する予定だったけれど、わけあって一ヶ月遅れて、ゴールデンウィークに入った今日から鳥浦に住むことになった。
 長い連休が明けたら、とうとう初登校ということになる。入学以来ずっと欠席していて、休み明けに突然教室に入ってきた人間を、クラスメイトたちはどんな目で見るだろうか。想像しただけでも気が重くなった。
 しかも、地元から遠く離れた祖父母の家にお世話になりながら学校に通うというのは、表面上はお父さんのすすめという形ではあったけれど、実際には体のいい厄介払いのようなものだ。それは、私が中学で問題を起こしたからだった。手のかかる娘だから家を追い出されたも同然なのだと、私はちゃんと分かっていた。祖父母だって、娘婿からの頼みを断り切れずに面倒な孫を押しつけられてしまった、と思っているに違いない。
 そういう状況だったから、高校生活への期待や新天地への希望なんて、持てるわけがないのだ。憂鬱になって当然だ。
 そんなことを思いながら、もうすぐ迎えにくるはずの祖父母をぼんやりと待っていたときだった。
「——シラセマナミ?」
 突然うしろから声が聞こえてきて、私は驚いて振り向いた。
 そこにいたのは、自転車にまたがって無表情にこちらをじっと見ている、同い年くらいの男の子だった。
 第一印象は、瞳が強い、だった。頭上から燦々と降り注ぐ太陽の光を全部集めて詰め込んだような、強くてまっすぐな瞳。
 今にも射抜かれそうな眼差しに、思わず硬直してしまう。こういうふうに真正面から見つめてくる視線が、私は苦手だった。
 どうして私に声をかけたんだろう。どうして私の名前を知っているんだろう。疑問に心を奪われて無言で立ち尽くしていると、彼は軽く眉をひそめて首を傾げながら自転車を降り、また口を開いた。
「〝白瀬真波〟じゃないの?」
「……そう、ですけど、なにか?」
 ぼそりと答えると、彼は小さくうなずいて言った。
「俺は、美山漣」
 それから彼がずいっと右手を差し出してくる。まさか握手を求めているのか。嫌だ。
 戸惑って黙り込んでいると、彼はぶっきらぼうな口調で「荷物」と言った。自分の勘違いに気づいて、恥ずかしさに私は首を振る。
「大丈夫です」
 すると彼は少し苛々したように眉根を寄せ、「いいから」と旅行鞄を奪い取った。慌てて取り返そうとした私に背を向け、自転車の荷台に鞄をのせてバンドで留める。そして無言のままハンドルをつかみ、自転車を押して歩き出した。
 全く状況を理解できていなかったし、正直、知らない男の子についていくのにも抵抗がある。でも、荷物を取られてしまったから、仕方がない。
「あの……誰ですか」
 渋々あとを追いながら背中に問いかけると、彼はどこかうざったそうな顔で振り向いて足を止めた。なんか、怖い、この人。
「さっき名乗ったじゃん。美山漣。高校一年」
 げ。ほんとに同い年だ。嫌だな。私はこっそり、ふうっと息を吐く。今日だけで何回ため息をついただろう。
「それは分かってるけど」
 同学年ということが判明したので、遠慮なくタメ口でいかせてもらうことにする。
「なんであなたが私のこと迎えに来たのかが分かんないから、訊いてるの」
 反発するように、相手に負けないくらいの無愛想を心がけて言うと、彼が少し眉を上げた。
「ああ、お前のじいちゃんばあちゃんに頼まれたんだよ」
 初対面の女子を『お前』と呼ぶ不躾さに、私は内心で顔をしかめた。
 こういう男子、苦手だ。いや、男子は基本的にみんな苦手だけど。うるさくて、ガキっぽくて、乱暴で粗野で、嫌になる。まあ、女子の陰湿さにも辟易するけど……と考えて、つまり私はみんなが嫌いってことか、と我ながら呆れた。自分のことは棚に上げて、ずいぶん偉そうだ。
「そうか、俺が来るって聞いてなかったのか……」
 彼は横を向いてひとりごとのように小さく呟いたあと、ちらりとこちらを見て「それなら」と言った。
「ちゃんと言えばよかったな。ごめん」
 いきなり素直に謝られたので、また不機嫌な視線を向けられるんじゃないかと構えていた私は拍子抜けしてしまう。肩すかしを食らって黙り込んだ私を気にするふうもなく、彼は再び歩き始めた。
 住宅街の中を線路沿いに歩いて、しばらくしたところで踏切を渡る。すると一気に視界が開けて、目の前に海が広がった。私は思わず足を止める。
 周りになにもないせいか、さっき駅から見たのとは比べものにならないくらい、広く大きな海に見えた。どれほどの距離かも分からないくらい遠くに浮かんでいる大型船らしい影以外なにもなく、ただ果てしなく広い。
 まるで海に包まれているみたいだ、と思った。広い広い海に抱かれたちっぽけな町の片隅に、私はいるのだ。
「どうした?」
 ふいに声をかけられて、我に返った。電信柱ひとつ分ほど離れたところで怪訝そうな顔をしている彼の視線に突き刺されたような気がして、慌てて足を動かす。
 追いついた私に、彼は呆れ顔で言った。
「ちゃんとついてこいよ。迷子になっても知らないぞ」
 私はむっとして小さく返す。
「迷子とか……高校生にもなって、ならないし」
「はぐれてもスマホで調べればいいとか思ってんだろ」
 図星を指されて、私はぐっと唇を噛んだ。
 それのなにが悪いの。このご時世、スマホさえあればどこでも行けるでしょ。さすがに口には出さないけれど、彼の小馬鹿にしたような言い方に心の中で反論する。
「この辺の道、目印になるようなもんないし、地図アプリ見たって土地勘なければ迷うのがオチだぞ」
「…………」
 そんなの、私が悪いわけじゃない。田舎すぎるこの町が悪いんだ。なんで私が嫌みを言われなきゃいけないの。
 苛々したまま、私は黙って彼のあとを追った。
 海沿いの歩道は、古いガードレールに仕切られた線路沿いの道に比べると幅が広く、わりと整備されていて、ふたり並んでも余裕を持って歩けるくらいだった。でも、さっき会ったばかりの無愛想な男の子と肩を並べる気になんてなれなくて、五歩分ほど距離をとってついていく。
 するとしばらくしてまた彼が振り向いた。
「なんでうしろ歩くんだよ。変だろ。話しにくいし」
 別にあんたと話したいことなんてないし、と思いつつも、これ以上なにか言われるのも癪で、言われた通りに彼の横に並ぶ。
 でも、自分から近くに来させておいて、彼はこれといってなにも話さない。それなら縦並びのままでよかったじゃん、と内心で毒を吐きながら、私はちらりと隣を見上げた。
 いかにも気の強そうな顔をしている。細くてまっすぐな眉、切れ長の瞳。すっと通った鼻筋、きりりと引き結ばれた薄い唇、直線的な輪郭。海から来る風にさらさらとなびくまっすぐな黒髪、尖った肩、すらりと伸びた四肢、薄っぺらい身体。なにもかもまっすぐだ。
 まっすぐなのも、苦手だ。私はひねくれていると自覚しているから。自分の苦手なものを縒り集めたような人と、どうして肩を並べて歩いているのか、不思議だった。
 ……それにしても、まだ着かないのか。そろそろ沈黙が気まずくなってきた。いくら初対面だから仕方がないとはいえ、無言のまま何分も過ごすというのは気が重い。
 なにか話題はないかと考えを巡らせて、荷造りをするときに寝ぐせ直しのヘアスプレーを鞄に入れるのを忘れてしまったことを思い出した。こっちに着いたら買いに行かなきゃ、と思っていたのだ。
 深呼吸をして、気持ちを励ましてから、口を開く。
「ねえ」
 彼は自転車を押しながらこちらに視線を落とした。
「あのさ、あとでちょっと買い物したいんだけど、近くにスーパーかドラッグストアある?」
「スーパーみたいな感じの店だったら、山田商店か、ニコニコストアかな」
 その名前を聞いた瞬間、嫌な予感に襲われた。おそるおそる訊ねる。
「……それ、どういう店?」
「山田商店は、まあ、八百屋みたいな? 野菜と果物と、あとは肉もちょっと売ってる。ニコニコストアは普通のコンビニ。それ以外の店だとけっこう遠くて、車じゃないときつい」
 ニコニコストアなんて、聞いたこともない名前だった。それ、ほんとにコンビニなの? と疑問が湧いてくる。『普通のコンビニ』ってなに。私の知ってる普通のコンビニはセブンイレブンとかローソンなんだけど、この辺にはないの?
 ぐるりと周囲を見渡して、確かになさそうだ、と判断した私は、ふうっと息を吐いた。
「……じゃあ、そのニコニコストアとかいう店に行こうかな」
 八百屋にヘアスプレーが売っているとは思えなかったから、聞き慣れないとはいえそのコンビニに行くしかなさそうだった。
「ああ。でも、七時までだから、買い物行くなら早めのほうがいいぞ」
 彼がちらりとこちらを見て言った。
「七時まで? 夜七時で閉まるってこと?」
「そうだよ」
 なにそれ。二十四時間営業じゃないってこと? そんなコンビニあるの? 全然便利じゃないじゃん、と心の中で突っ込みを入れる。本当に、どこまでいってもここは異次元のような町だった。
「……で、その店、どこにあるの?」
「この道まっすぐ行って右に曲がって、三つ目の交差点で左に曲がって、ずーっと行って右」
 また嫌な予感が胸に込み上げてくる。
「……歩いて何分くらい?」
「歩き? チャリだと十分くらいだけど、歩いたら、まあ、二……三十分くらいかな」
 予感が当たって、私はげんなりと肩を落とした。最寄りのコンビニまで徒歩三十分とか、ありえない。本当に全くこれっぽっちも便利じゃない。
 もはや返す言葉も見つからず押し黙ると、彼はふっと嫌みな笑みを浮かべた。
「どうせ〝ど田舎〟って馬鹿にしてんだろ」
 まるで心を読まれたかのようで焦りを覚えた。でも、だって、本当のことじゃない、と心の中でひとりごちる。徒歩十分圏内にコンビニがなくて、しかも深夜営業さえしていないなんて、まさに〝ど田舎〟だと思う。
 とはいえそんなことを口に出すわけにもいかず黙っていると、彼は肩をすくめて前に向き直った。それから私たちはひと言も口をきかずに黙々と足を動かし続けた。
 手持ち無沙汰を紛らすために何気なく右側に視線を送ると、海面に白く反射した太陽の光に目を射抜かれた。このところ急に気温が高くなったこともあって、真夏の中にいるような錯覚に陥る。
 ただ歩いているだけなのに、こめかみにじわりと汗がにじんできた。暑い、と心の中でぼやく。
 あたりは一軒家ばかりで、陽射しを遮るものがないからか、まるで南国に来たみたいだった。五月にはN市あたりでも急に夏めいてくるけれど、この海辺の田舎町の暑さは種類が違う。
 本格的な夏になったらどうなるのか。暑さが苦手な私は、想像しただけでのぼせてしまいそうな気分だった。
 こんな暑い中いつまで歩くんだろう、と先の見えない道行きにうんざりし始めたころ、彼が「曲がる」と呟いて横断歩道を渡り、やっと海沿いの道から外れた。そのまま両側に家々が建ち並ぶ小道に入る。車一台通るのがやっと、というくらいの狭い道だ。
 すぐに着くのかと思いきや、またしばらく歩く。げんなりしていたとき、うしろからばたばたと足音が聞こえてきた。