それ以来、放課後に『ナギサ』に通うのが私の日課になった。
 ホームルームが終わると同時に学校を出て、家に荷物を置いて着替えるとすぐにナギサへ向かう。そして夕飯の時間ぎりぎりまで居座る。
 ナギサは、田舎の小さい店のわりに、お客さんがけっこう多かった。席がいっぱいになることはないけれど、まだ日が出ている時間帯にはたいてい誰かが店にいる。初めて訪れたあの日店に誰もいなかったのはとても運がよかったのだ。
 今日も、入り口のドアを開けると、四、五人の先客がいた。
「いらっしゃい」
 ユウさんがいつものように笑顔で迎えてくれる。
 私は定位置の、カウンターの端の席に腰を下ろした。頼むのはいつもオレンジジュースだ。恥ずかしいけれど、コーヒーは苦くて飲めない。
 毎日喫茶店でお茶をするなんて高校生にしては贅沢かな、とも思うけれど、昔から趣味もなく土日にどこかへ遊びに行ったりもしない私は、お小遣いやお年玉がかなり貯まっていて、たとえ毎日喫茶店に通ったとしても当面お金が底を尽きることはなさそうだった。
 ユウさんは接客で忙しいので、私も話しかけたりはせずに大人しくしている。遅い時間になってきて客足が途切れがちになるときは、何気ない会話をしたりもするけれど、あの日のように悩みや気持ちをぶちまけたりはしない。それでも、この穏やかな空間にいるだけで心が浄化されるような気がして、十分満足していた。
 私がこの席を気に入っているのは、ここに座ると、出窓のガラス瓶がよく見えるからだ。窓から射し込む光に照らされて、半透明に煌めくピンク色の貝殻。
 あの日は気が動転していたので気がつかなかったけれど、ナギサの店内には、至るところにこの貝殻が置かれていた。壁にかけられた額縁の中で色ガラスのかけらと一緒に花の形に貼りつけられたものや、カウンターの上のガラス皿の上に何枚か集められたもの、そしてキッチンの脇にある棚にかけられた二本のネックレスの飾りもピンクの貝殻だ。
 そのすべてが、海に反射して店内に満ちる光を受けて透き通り、控えめにきらきら輝いている。幻想的なほど綺麗な光景だった。これがこの店の温かさや優しさのもとなのかな、となんとなく思う。
「前から気になってたんですけど、このピンク色の貝殻って、本物ですか?」
 注文の品を出し終えて仕事が一段落したユウさんに訊ねると、彼はやけに嬉しそうに笑った。
「これ、気になる?」
 そう言って彼は、棚にかけてあったネックレスの一本を、私に手渡してくれる。細い金色のチェーンに通された、淡いピンクの貝殻。
 初めて間近に見て、その美しさに目を奪われる。窓のほうに向けて光に透かしてみると、桜の花のひとひらのようだった。
「本物の貝殻だよ。桜貝っていうんだ」
「桜貝……」
 見た目の印象通りの名前だった。
「すごく綺麗な貝ですね。ユウさん、桜貝が好きなんですか?」
 だからこんなふうにたくさん集めているのかな、と思って訊ねる。彼は「うん」と屈託なく笑った。
「桜貝はね、『幸せを呼ぶ貝』って呼ばれてるんだよ」
「幸せを呼ぶ貝、ですか」
 うん、とユウさんは微笑みながら窓の向こうの海を見た。
「見つけると幸せになれるって言われてるんだ。貝殻を拾ってお守りとして身につけたりね。このあたりの海岸でもたまに拾えるよ」
「もしかして、あの中に入ってる貝殻も、ここで拾ったんですか?」
 私は出窓のガラス瓶を指さした。白い陽射しの中で光を放っている、澄んだ桜色の綺麗な貝殻たち。
「うん、そうだよ。散歩のときとかに見つけたやつを拾ってきて、あの中に集めてるんだ」
 ユウさんはとても優しい笑みを浮かべてうなずいた。彼にこんな眼差しで見つめられる桜貝たちを、少し羨ましく思う。
 そのとき、背後で入り口のドアベルがからんころんと音を立てた。目を向けると、白髪頭のおじいさんが店内に足を踏み入れるところだった。毎日のようにやって来る常連客だ。
「いらっしゃいませ!」
 ユウさんがいつもの人懐っこい笑顔で挨拶をする。おじいさんはテーブル席に腰かけながら、「こんにちは、ユウくん」と答えた。
 この店に通うようになっていちばん驚いたのが、これだった。ユウさんは、本当に〝ユウ〟という名前だったのだ。幽霊のユウさん、という失礼なあだ名をつけてしまったと思っていたのに、まさか本名と同じだとは思わなかった。
「ホットと玉子焼きで」
 おじいさんが注文を入れると、ユウさんは「はーい」とうなずいてキッチンに入っていった。
 喫茶店に来てコーヒーと玉子焼きを頼むなんて、普通に考えたらなんだかおかしいけれど、この店では定番の注文パターンだった。ほとんどのお客さんが、飲み物と玉子焼きを注文する。ナギサの名物は、なぜか玉子焼きなのだ。
「ユウくんの玉子焼きは、なんだかあったかい味がするんよなあ。味つけは違うはずなのに、なんでやろうなあ、亡くなった妻が毎朝焼いてくれた玉子焼きを思い出すんよ……」
 おじいさんはにこにこと微笑みながら玉子焼きに箸を入れる。他のお客さんも同じようなことを言っているのを聞いたことがあった。
「うん、やっぱり美味しいなあ」
「ありがとうございます! この玉子焼きには、愛がいっぱい詰まってるんで」
 へへへ、とユウさんが照れくさそうに笑いながら言った。
「本当にうまいよ。ユウくんがナギサを始めてくれてよかったなあ。このあたりには遅くまでやってる喫茶店がなかったからね、年寄り連中はみんな喜んでるんだよ」
「俺もみなさんがいつも来てくれて喜んでますよー」
 ユウさんは心から嬉しそうに答えた。
 彼がこの店を始めたのは、三年ほど前のことらしい。他のお客さんとの会話に聞き耳を立てて得た情報によると、彼は高校卒業後、部活の先輩のつてを頼って隣のS市の大きな喫茶店で五年ほど働き、開業資金を貯めた。そして鳥浦に戻ってきて、町で唯一の定食屋だったけれど店主が高齢になって閉業してしまったこの店を買い取り、自分の手で改装して喫茶店にした。
 ナギサは早朝から近所のお年寄りが集う憩いの場になっているらしい。明るくて人懐っこいユウさんは、おじいさんおばあさんたちのアイドルのような人気者だという。
 私も同じようなものだ。学校には相変わらず馴染めないけれど、この店にいる間は、憂鬱なことはすべて忘れてほっと安心できるのだ。
 ユウさんはすごいな、と思う。店の中を忙しそうにくるくると立ち回る姿を見ていると、さらにそんな尊敬の気持ちが強まる。私と十歳しか変わらないのに、もう自分の店を持っていて、しっかり切り盛りしていて、しかもお客さんから信頼されて愛されている。本当にすごいし、かっこいいなあ、と思う。
 海でふたりで話しているときは、どこか少年っぽい雰囲気を感じていたけれど、店にいるユウさんは、やっぱりものすごくしっかりした大人に見えた。
「そういえば、明日は〝子ども食堂〟の日よねえ」
 ふいに反対側から声が聞こえた。入り口の右側の席に座っていた常連のおばあさんが、ユウさんに声をかけている。彼は「はい、そうです」と笑顔でうなずいた。
「最近は何人くらい来とるん?」
「だいたい十から二十人くらいですかね。小学生の子たちが多いですけど、その子らが弟とか妹も連れてきてくれるんで、けっこう賑やかですよ。本田さんもよかったら顔出してみてくださいね」
「あら、こんなおばあちゃんが紛れ込んでしまっていいんかねえ」
「もちろんいいですよ! 子どもたちも喜ぶと思います。お時間あるときにぜひ様子見に来てみてください」
 ユウさんは生き生きとした表情でそう言った。