どれくらい眠っていたのだろうか。少し昼寝をするつもりが、すでに日は落ち始め、部屋の中は先ほどよりもうっすらと暗くなっていた。
 またよく寝たな。
 ここに来てからというもの、昼寝をするようになった。それに一度寝てしまうと、どうも起きない。酷い時は二時間くらい起きない時もある。寝過ぎだと分かってはいるが、寝る事が心地いい。
 ベッドから上体を起こし、窓の外の景色を見つめた。雨が降っていたせいか、空には虹がかかっていた。
 冬の虹は虹蔵(にじかく)不(れ)見(みず)といい〈虹を見かけなくなる〉という言葉があるくらいとても珍しい。冬場は夏に比べて、太陽が出ている時間も少なく、日差しも弱い。太陽の光が空気中の水蒸気に当たり、屈折して出来る虹にとって、日差しは人間でいう食事のようなもの。なくては形を維持出来ない。降り積もる雪の上に天と地の懸け橋とされる虹がかかる。こんなにも贅沢なものを見る機会は、もしかしたら、これが最初で最後なのかもしれない。そう思うと、この虹がまだ閉ざされてほしくないと願うもの。
 寝室を出てリビングに行くと、パソコンが置かれたダイニングテーブルの上で、顔を伏せている梢子が居た。規則正しい寝息を立て、気持ちよさそうに眠っている。
 ……疲れてんだな。
 青星はソファーの上に置かれていたブランケットを取り、梢子の肩に掛けると、書斎に入った。
 部屋の中は作業用のデスクに、大きめの本棚が二つ並んでいつだけのこぢんまりとした空間が広がっていた。こまめに掃除をしているのか、本棚には、埃一つなかった。
 ここに来た日、時間がある時は、本を読むと良いと奴に言われたが、俺が奴と生活する上で、本に触れないという事はまずない。
 知識。それは、どれだけ身に着けようとも自分だけの物。奪われる事しかなかった俺の人生に、奴は残るものを何か与えようとしているのか。
 ざっと見た感じ、歴史書が多いな。もしかして奴は、時代小説が専門なのか? 
 青星は梢子の書いた本を読もうとたが、そこには間宮梢子という作家の名前の本はなかった。自分の本は置かない主義なのか。作家によっては、自分の作品が目に届くところにあると、プレシャーになってしまう人いる。梢子もその一人なのだろうか。
 仕方ない。他のにしよう。
 そう思い、目についた一冊の本に手を伸ばした。その本の題名は、
 百万回生きた猫――と書かれていた。
 ……絵本? あいつ、こういうのも読むんだな。
 本をぱらぱらとめくると、記憶が思い起こされた。
 百万回生きた猫。昔、まだ母さんがいた頃、読んでもらった記憶がある。確かこの主人公の猫、ずっと自分だけしか愛さなかったのに、ある時、出会った猫を好きになって、最後その猫が死んだ時、泣くんだ。猫は生まれて初めて、自分以外の相手を想ったんだ。
 母さんは自分の膝の上に俺を置いて、抱きしめるような形でこの本を読んでくれていた。
 もう、何もかも置いてきた思い出だが。
 本を閉じたと同時に、ドアの方から人の気配がして振り向くと、そこには寝ていたはずの梢子がいた。その肩には青星が掛けたブランケットが。
「起きたのか」
 梢子は眠そうな目をしながら、部屋の中へ入って青星の隣へとやって来た。
「何を読んでいたんだ?」
「ん」
 青星は持っていた絵本を梢子に渡した。
「あーこれかー」
「お前、絵本なんて読むんだな」
「これは特別だ。いい話だろ。他人を思いやる心を大切にする事を教えてくれる」
「あの猫は最後に、一体何を見たんだろうな」
「さあ、それはあの猫にしか分からん。……だが、これはあくまで私の解釈の仕方だが、猫は幸福な気持ちを抱き、その生涯を終えたはずだ」
「そんな気持ちを抱えて死ぬなんて、いい人生だな」
 梢子は頷いた。
「そうだな。でも私は、幸せに満ちて死にたいとは思わないな」
「え……どうして」
 幸せで死ぬことの何が嫌だっていうんだ。俺は、どうせ死ぬなら、幸福で死にたい。誰だってそうだろう……??
 梢子は顔を俯かせ、何かを……誰かを想っているようだった。
「まあ、考え方はそれぞれだ」
 ぱっと顔を上げそう言うと、梢子は棚に本を戻した。
「もちろんこの猫の場合は、それで良かったと思うがな」
 もし、百万回生きた猫のように、死ぬことが幸せに思えることが現実にもあるとするならば、俺は、その人生をお前に生きてほしいと思う。



「さてと、やるとするか」
 目の前に広げられた大量の資料に、梢子は次から次へと目を通していた。ダイニングテーブルを挟み、互いのスペースを取るように、二人は対角線上に腰を下ろした。
「お前には、ここに書いてあることを調べてまとめてほしい」
 梢子は青星に一枚のメモ用紙を渡した。青星はそれを受け取り、上から下まで目を通した。
「これ、全部か?」
 梢子が渡してきたメモには、作品に関わる内容が事細かに記されていた。
「量が多いな」
「間違ったこと書いて、読者を混乱させるわけにはいかないだろ? 充分過ぎるくらい調べるんだ」
「ふーん。小説家様も大変なんだな」
「様はいらん」
「はいはい」
 やっぱり、『きっちり体で払ってもらうぞ』あの言葉はこういう事だったのか。
 俺を助けた理由を聞いた時、あいつは店の奴らとは違うと言った。その言葉を聞いた時、小説家としての仕事を手伝う労働力という意味で、体でと言ったのだろうと思った。俺の受け取り方がどうこうではなく、世間一般的にみても、奴のあの言い方はそういう意味だと捉えられる。しかし、相手はこの間宮梢子。世間一般的、普通などは通用しない。
 変に、面白いが加わったな。
 梢子は時々手を止めながら、考え込むように執筆をしていた。
 この体で、小説を書く。それは安易なことではない。梢子は額から流れる汗を拭い、必死に物語を作り続けていた。間宮梢子。努力を怠らず、どんな些細な妥協も許さない。たとえ読者が気づかない僅かな点でも、彼女は追及する。その物語を作り上げることへの熱量は、他の作家にも比肩を取らない。
 義手が煩わしく感じてきたのか、顔をしかめてはパソコンと義手を交互に見ていた。
「休憩するか」
「いやいい」
 梢子は少し強めの口調でそう言った。
「でも、あんま無理してもだろ」
 席を立ち、青星はキッチンへ。その様子を見た梢子はパソコンから手を離し、背もたれに寄りかかった。
「……すまない」
 出されたお茶に口付けると、梢子は短く息を漏らした。きっと、嫌気がさすのだろう。思うように動かせない体に。
「お前は優しいな。人を気遣える」
 それは相手がお前だからだ。
「お互い様だろ」
「私が? ないない」
 冷静に話す青星に、冗談を言われていないことを分かっていたが、梢子は失笑してしまった。
「ある。だってお前、本当は知ってたんだろ。俺が……捨てられた事も……虐待、されていた事も……」
 そう、こいつは知っている。俺の身に何があったのか全て――。
 俺が牧野に両親の話をした時、こいつは少しも驚いた顔を見せなかった。冷静な一面があるこいつが、ただ単に顔に出さなかったとも考えられるが、俺と真正面からぶつかろうとしているならあの時、知ったと言うだろう。
 知らなかった。そう言ってくれる事を少し期待した自分がいた。
「――ああ、知っていた」
 梢子がそう答えた時、青星の心に、重りのような物がのしかかった。ずるずると青星を引きずるように沈んでいく重り。
 嫌だった。自分が、誰にも愛されていない、惨めな人間だと思われることが。怖かった。自分が、なんの価値もない人間だと思われることが。お前に、否定されることが。
 お互いに何も言わない時間が流れ、部屋の中がやたらと静かに感じられて、聞こえるのは自分の苦しみの鼓動だけだった。
 青星の顔は下を向き続けた。
 寒い。急に、寒さが襲ってきた……。あいつの顔を見られない。どん顔をしているのか知りたいけど、知りたくない。頼む、俺を、拒絶しないでくれ――。
 拳を握りしめ、唇を噛んだ。
 梢子は腰を上げると、窓辺に立ち、どこか遠くを見ていた。
 何しているんだ……。
「今夜は、星が綺麗だろうか……」
 うわ言のように呟く梢子。
 そう言い、コートを手に取った梢子。
「青星。お前に、見せたいものがある」



 坂道を上ること数十分。梢子はぐんぐんと進んでく。家で仕事をしている小説家の割には、体力があるようだ。一方の青星は、体力も筋力もない体のせいで、すでに疲労が溜まっていた。
 歩いている最中、梢子は青星に、『絶対に上を向くな』と言った。
 こんな中、上を向かないなんて、どうにかなりそうだと青星は思っていたが、そんな事を梢子に言っても、どうにもならない。
「どこに向かっているんだ」
 息を荒げながら、青星は聞いた。
「まあ、そう焦るな。じきに分かる」
 いきなりに外に連れ出され、坂道を上らされる。そこまでして、見せたいものなんて、一体何なのだろうか。
 真冬の夜にわざわざ自分から外に出るなんて、俺一人だったら絶対にしないな。
 後ろくらいは見てもいいかと思い、明かりが灯る、街の方に目を向けた。
 黄色い光、オレンジ色の光。同じ家の光のはずなのに、光から感じられるものが違うのは、住んでいる人間や環境が異なるからだろう。
 坂道の次は、長く続く、コンクリート製の階段上らされた。これが上ってみると、意外に急な階段で、たまに後ろを振り返って見ては、さっきまでの坂道を簡単に見下ろせた。どうやらこの先に、奴の言う、見せたいものがあるらしい。
「青星。お前は知らないようだから、私が教えてやる」
 青星より、数段先の階段に居る梢子が前を見ながら言った。
「お前の名前である青星というのは、星座のシリウスからきている」
 シリウス。それは大犬座(おおいぬざ)で、太陽を除いた全天で、最も明るい星と言われている。日本では冬の南の空に、やや低いあたりにみられ、約八千六百個あると言われている全天の中から、シリウスを見ることが出来るのは、とても貴重な事。古代ギリシャ語では、セイリオスと言い、意味は焼き焦がす・輝く。中国名では天の狼と書いて天狼(てんろう)と言う。
「別に、輝いているって言っても、シリウス自体が輝いているわけじゃないだろ」
 シリウスが明るく見えるのは、地球との距離が近い事が関係している。シリウスが、ではない。
「まあ、そうだな。じゃあこれは知っているか?」
「??」
「シリウスの由来、それは、すべての人に、親しみを持ってもらえるようにと、名付けられたと」
「え――?」
「さあー、ここら辺でいいかな……」
 気が付くと、そこは小さな公園だった。木製のベンチと滑り台にブランコがあり、あまり人が立ち寄らなさそうな、ひっそりした雰囲気があった。
「なあー、まだ俺は上を見ちゃいけないのか」
「ちょっと待て」と言われ、空を見上げられない事が、段々ともどかしく感じられてきた。
 本当に何がしたいんだ。いい加減、俺にも見せてくれ。こんなんじゃ、さっきのこともあって、余計に気持ちが下を向く。
「あ……」
 梢子は、思わず零れたようにそう声を漏らすと、「見ろ!」と、天に向かって指を差した。
 青星はその指先の方向に視線を向け、
 ――息を飲んだ――。
 空を浮かぶ星の中で、どの星にも負けずひと際輝いている星。それはそれは、美しい星――。
「……あれが……シリウス、なのか……」
 信じられない。あれが、俺の名……。
「どうだ、お前はこんなにも、素晴らしい存在なのだぞ」
「俺が……? 言葉にならない……」
 今の俺は、そう答えるので精一杯だった。
 肌で感じていた寒さも、ここまで辿り着くための疲労も。感じていた煩わしさも、悲観的な考えも、気持ちも、全てがこの一瞬で消えた。
 奴は、俺の心を救おうとここに連れて来た。
「お前、誕生日はいつなんだ」
「え、七月二日だけど」
「やっぱりなー」
 梢子はひしひしと頷いていた。
「それがどうかしたのかよ」
「シリウスは、七月二日の誕生星なんだ」
 誕生星。花に誕生花があるように、星にも誕生星というものが存在する。青星はこの時、それを初めて知った。
「お前の母親は、生まれたお前を見て、何よりも輝いて見えた。まるで、あのシリウスのように。お前は愛されていた。たとえ、どんな事があろうとも――」
「……」

『母さん! 母さん!』
『なーに? 青星』
『僕ね、母さんがだーいすき! 母さんは??』
『母さんも、だーいすきよ!!』

 遠い記憶の中の母は、自分にそう言ってくれていた。
 心から、母を愛していた。でも、もう母はいない。
 しばらく星空を見上げた後、「冷える前に戻ろうと」梢子が言い、俺たちは公園を後にした。
「そういえば、星って、私たちが今見ているものはリアルタイムじゃないらしいぞ」
 階段を下っていると、奴がそんな事を言ってきた。
「えっ! そうなのかよ!? ……てか、今そういう事を言うかね」
 せっかく人が感動していたっていうのに、リアルタイムじゃないとか、なんか萎えてくるだろ。
「光が伝わる速さは、この世界で一番早いと言われている。しかし、星たちは地球からとても離れたところにいるため、私たちが見る空に届くまでは、時間がかかるんだ」
「へー……なんかすげぇな」
「そう思うと、星を見るのが何だか楽しくならないか?」
「……確かに、楽しいかもな……」
 奴は小説家だから多くの知識がある。知ることは楽しい。学ぶことは生きる事。この時、その事も奴から教わった気がした。
「質問していいか」
「お、何だい?」
 梢子は嬉しそうに、にやにやと笑った。
「シリウスは、この星に届くまで、どれくらいかかるんだ??」
 知りたい。自分はどれほどの時を経て、ここに存在しているのか。
「そうだなー……」


 ――八年という長い歳月を超え、遥か彼方、君と出逢った。

 ――幾千年にも感じられる孤独に耐え、今、あなたという夜明けと巡り合った。


 これは、必然的なこと。
 私達は、出逢うべくして出逢い、別れるべくして別れる――。

「――八年だ。シリウスが、ここに辿り着くまでは八年……!」

 そう奴は、その鋼の翼を大きく広げ、声高らかに言った。
 八年……。俺が、母さんに捨てられ、父さんの暴力に耐え、生きてきた日々と同じ。



――この時の俺たちは、これから待ち受ける困難など、知るよしもなかった。ただ、今あるその日々を抱きしめていた。