雀(すずめ)の鳴く声と、暖かな布団。寝室まで香る、朝食の匂い。そして、誰かのぬくもり。こんな日は、いつぶりだろうか。
目が覚めると、そこは自分がいた世界からかけ離れていた。
よく寝た。
カーテンの隙間から入ってくる日差しが、妙に温かく感じた。
青星はベッドから上体を起こし、部屋の中を見回した。
そうか、俺は店を辞めて、あいつの元に来たんだ。
まだ、ぼーっとしている頭の中、青星は、昨日の出来事を思い出していた。
降り積もる雪の中、突然、現れた風変わりな女。その女の正体は有名な小説家で、両腕がない。そいつはその不自由な体で、クラブに殴り込みをして、俺を汚れた世界から解放した。そして自分の傍に俺をいさせる事に。とまあ、普通だったらありえない話だ。昨日の一夜の事が全て夢だったかのようだが、今、俺はここにいる。
これだけ心地良いんだ。もうひと眠りしよう。
そう思い、起こしていた上体を倒そうとすると、ドアの方からバタバタとうるさい足音が聞こえてきた。
――バンッ!
「おはよう少年!!」
勢いよく扉を開けそう言うと、梢子は青星の寝ているベッドの前まで来た。青星は上体を倒し、かけていた布団を顔の上まで引っ張り、体全体をすっぽりと布団で覆い被せたが、すぐに布団を引き剝がされた。
「起きろ! 朝だ!」
耳元でそう叫ばれ、青星の機嫌はより一層、悪くなった。
「……んな、叫ばなくても聞こえるつーの」
青星が不愛想にそう言うと、梢子はぐんと自分の顔を青星に近づけてきた。
なっ……。
毛穴もくすみもない綺麗な肌が間近に迫り、青星の心臓は飛び撥ねた。
「なっ、なんだよ……」
「クマが消えたな。よく寝られたのか?」
「え?」
サイドテーブルに置いてあった手鏡を取り、自分の顔を見ると、確かにクマが消えていた。
「ほんとだ……」
どれだけ睡眠時間を確保しようとも、ぼろぼろになっていた身体。それなのに、たった一日ここで寝たくらいで、こんなにも良くなるなんて。
「よく寝られたなら良かった」
梢子は目を細め、安心したように笑った。
他人にとって良い事を、さも自分の事のように喜ぶなんて。そんな人間がいるのか。
「……変な女」
青星は梢子に聞こえないような小さな声でそう呟いた。
「朝食の準備が出来ている。早く来い」
そう言って軽く手を振り部屋を出て行こうとした梢子、その手には義手がはめられていた。
あれが、義手。本物を見るのは初めてだが、想像していたものよりも、はるかにリアルだ。長袖を着ていたら、よけいに分からないな。
こんな事を思うのは、良くないことなのかもしれない。でも、両腕のないあいつが、あの時はとても美しく見えた。それは、月光があいつを照らしていたからではない。あいつ自身が、輝いていたんだ。
――ピンポーン。
そこでインターホンが鳴り、梢子はリビングではなく玄関に向かった。
「げっ……」
鍵穴から外を覗いて、そう言う梢子。
「誰だ?」
青星がそう問いかけると、梢子は渋い顔をして編集担当だと答えた。
――ガチャ。
玄関に入るなり、訪問者は、胸ぐらをつかむ勢いで梢子に迫った。
「先生……!! 昨日はよくも僕を一人にしてくれましたね。おかげであの後、大変だったんですから!!」
「いやー、すまないすまない」
「本当に申し訳に思っているんですかぁぁぁあ……!!」
「お、思ってるよ~……」
「嘘をつくな! あんたって人はいつも口ではそう言って本当に……うぇぇぇえ!!!! お、おとこ!? 先生の家に男の子がいるー!!」
牧野は青星を見て指差し、困惑した表情で叫んだ。
青星もまた、牧野を困惑した表情で見ていた。
「何やってるんですか! 何やってるんですか!? こんなの違法ですよ!? 誘拐罪であんた逮捕されますよ!?」
「もー、朝からうるさいなー。もう、その時はその時でしょ」
大声を出す牧野に対し、梢子は両手を上げ、耳を塞ぐ素振りをした。
「その時になってからじゃ遅いんですよ……!」
「分かったから、ここで騒がれても困る。とりあえず中に入れ」
牧野を一旦、落ち着かせ、三人はリビングへ。ダイニングテーブルには梢子が作った朝ご飯が綺麗に並べられていた。
……こいつ、こんなに家庭的な料理が出来たんだな。
梢子の作った料理はいたってシンプルなものだったが、綺麗に巻かれ焼き上げられた卵焼きや、海の匂いが香り、食欲をそそるみそ汁は、今まで青星が感じる事の出来なかったものだった。
言動からガサツなイメージがあったから、てっきり料理は出来ないのかと。
「お前、私が料理できない女だと思っていただろ」
青星の驚いた表情を見て、梢子はそう言ってきた。
「ああ」
「少しは否定をしろっ!」
せっかく作った朝食だが、咎められながら食事をする気にもなれず、後で温め直すとして、梢子は三人分の紅茶をテーブルの上に置いた。
牧野は紅茶を一口飲むと、ふうーと息を吐き、自分を落ち着かせていた。
担当する小説家の家にやって来たら、見知らぬ男がいた。しかも子供の。驚いて大声を出すのも無理はないが、随分と騒がしい編集者だな。歳はおそらく、二十代半ばだろうが、かけている丸メガネが余計に若く見えさせている。
「で、彼は誰なんです?」
テーブルを挟み、向かいあっている牧野は、いつになく真面目な顔をしてそう言った。
「その前にまずはお前の紹介だ」
「そうでした」
牧野は鞄から名刺を取り出し、梢子の隣に座る青星の目に前に置いた。
「改めまして、間宮先生の編集担当をしています。牧野宗助です」
「どうも……」
青星は視線をテーブルに落とし、差し出された名刺を見ていた。
牧野……ああ、そうか、こいつがあのとき言っていた牧野か。友人とか家族とか、もっと親しい間柄なのかと思っていたが、仕事上での付き合いのやつだったんだな。
「で、こちらは七瀬青星くん。訳あって、私が面倒を見ることになった」
「訳って、一体どんな……」
「まあ、ちょっと複雑で」
「複雑って、そんな事で僕が納得するとは思っていませんよね?」
梢子は短く溜息をつくと、青星を見た。
何を言いたいかは分かる。こいつに話してもいいかと訊きたいのだろう。
「青星」
「いいぜ、別に。そうしなきゃ、この人は首を横に振るばかりだろ」
梢子は数秒、青星を見つめると、前にいる牧野を見た。
「……青星は、クラブの商品として、働かされていた」
「えっ……クラブって……なんで……ご両親は……?」
「それは――」
「母親は俺を捨てて家を出た。残った俺は、父親と生活を共にしていたが、その父親も、莫大な借金だけ残して、俺の前から姿を消した。それで俺は借金を肩代わりするはめになって、クラブで働いていた」
青星は梢子の言葉に、間髪入れずにそう言った。
人に自分の身の上話をするのは、いい気分じゃない。だが、他人にされるよりは、まだ自分でした方が、心が楽だった。
牧野は目を大きく見開き、「そんな……」と口元に手を当てた。
そりゃそんな顔するだろうな。あんたが今まで生きてきた世界と、俺がいた世界はまるっきり違う。
青星の視線は下を向いた。
俺は、誰がどう見ても普通じゃない……
「……牧野……?」
優しげな梢子の声がして顔を上げると、なぜか牧野は泣いていた。メガネのレンズに、涙が触れていた。
なんで、こいつが泣くんだ……?
「ごめん……僕、八人兄弟で、ちょうど青星くんと同じくらいの歳の子もいるから、他人事には思えなくて……」
頬に流れた涙を振り払い、鼻をすすりながら、そう言う牧野。
「牧野は長男だからな、人一倍、家族に対する愛情が深いんだ」
梢子は、テーブルの横に置いてあったティッシュの箱を牧野の前に置いた。牧野は「ありがとう」と言うと、メガネを外し、涙を止めるように、ティッシュで目を押さえていた。
「……変だ」
「え??」
「あんたも、この女も、変だ……」
青星はぶっきらぼうにそう言った。
牧野は「とりあえず、分かりました」と言い、まだまだ不安に思うところはあるみたいだったが、今日のところは仕事もあるからと会社に出勤した。
牧野が帰った後、二人はお待ちかねの朝食の時間。梢子の「いただきます」と言う声に青星は小さな声で「いただきます」と続いた。
食事をしている時、青星はじっとそれを見ていた。箸を上手く持ち、おかずを落とすことなく掴む。みそ汁のお椀も、米のお茶碗も流れるように美しく持ち上げる。本当に本物の手のようだ。
その姿に、青星は見とれてしまっていた。
「ん? どうした??」
「あ、や、ずいぶん慣れているんだな」
「あー……まあな。この体になって、それなりに経つからな」
梢子は一度、箸を止め義手を見て言った。
いつからそうなんだ? そんな事は聞けなかった。聞いて、こいつが悲しんだり、苦しんだりするのは嫌だったし、自分に対して、冷めた顔を向けられたくもなかった。
梢子は箸を置くと、片方の義手でもう片方の義手を撫で始めた。それは何か、彼女にしか分からない、痛くも、もどかしくもある、懐かしい日々を頭に思い起こしているのだろうか。
いつか、知れる日がくるのだろうか。こいつの過去を。そして、俺はその過去を共に未来へと繋げる事が出来るのだろうか。
夜、風呂を沸かした梢子がリビングに顔を出すと、さっきまで、ソファーに座っていたはずの青星の姿がなかった。どこに行ったのかとあたりを見回していると、どこからか冷気を感じた。見ると、ベランダのドアが開いていた。梢子は開いていたベランダの扉から顔を出すと、そこには目を細め、全身で夜風を感じている青星がいた。綺麗に刈り上げられたサイドの髪は涼し気に揺れているように見えた。
梢子の気配に気づき、振り向いた青星の瞳は、吸い込まれそうなくらいに奥深く、それはまるで、夜の深海に広がる星々のようだった。
夜風は一段と冬を感じさせ、恋しさの感情を産ませる。
「こんな冬の夜に、風邪引くぞ」
そう言い、梢子は青星の隣に並んだ。
「お前、夜は好きか? 私は好きだ。夜は良い。穏やかに時が流れてゆく。特に、静寂な冬の夜は好きだ。誰にも、何にも邪魔されない。私だけの時間。考え事をしてしまう時もあるが、心が落ち着く時でもある」
青星は静かに梢子の話に耳を傾けていた。
「あまりに夜を感じたくて、夜更かしをしてしまう時もあるな。大人だが、ゲームや漫画を読んで、次の日が寝不足なんて日もある」
梢子の表情には、自然と笑みがこぼれていた。
「あんたでも、そんな顔をするんだな。もっと機械的な奴なのかと思っていた」
「機械的ってな……」
「でも、いいんじゃないか」
「え?」
「もっとすればいい、そういう顔」
「お前な……年上をからかうなよ」
少しいじわるそうに口角を上げる青星。その姿を月明かりだけで見たことが、この日の梢子の心残りとなった。
「これからは、お前の笑顔をたくさん見たいものだ……」
梢子は小さな声でそう言った。
「なんか言ったか?」
「いや、なんでもない! さあ、風呂に入れ~」
ベランダを出る梢子を見送ると、青星はもう一度、空を見上げた。
どんどん、美しくなっていく星空。
部屋の中からは、梢子が青星を呼んでいた。青星は、その声を追うように、部屋の中へ入った。
目が覚めると、そこは自分がいた世界からかけ離れていた。
よく寝た。
カーテンの隙間から入ってくる日差しが、妙に温かく感じた。
青星はベッドから上体を起こし、部屋の中を見回した。
そうか、俺は店を辞めて、あいつの元に来たんだ。
まだ、ぼーっとしている頭の中、青星は、昨日の出来事を思い出していた。
降り積もる雪の中、突然、現れた風変わりな女。その女の正体は有名な小説家で、両腕がない。そいつはその不自由な体で、クラブに殴り込みをして、俺を汚れた世界から解放した。そして自分の傍に俺をいさせる事に。とまあ、普通だったらありえない話だ。昨日の一夜の事が全て夢だったかのようだが、今、俺はここにいる。
これだけ心地良いんだ。もうひと眠りしよう。
そう思い、起こしていた上体を倒そうとすると、ドアの方からバタバタとうるさい足音が聞こえてきた。
――バンッ!
「おはよう少年!!」
勢いよく扉を開けそう言うと、梢子は青星の寝ているベッドの前まで来た。青星は上体を倒し、かけていた布団を顔の上まで引っ張り、体全体をすっぽりと布団で覆い被せたが、すぐに布団を引き剝がされた。
「起きろ! 朝だ!」
耳元でそう叫ばれ、青星の機嫌はより一層、悪くなった。
「……んな、叫ばなくても聞こえるつーの」
青星が不愛想にそう言うと、梢子はぐんと自分の顔を青星に近づけてきた。
なっ……。
毛穴もくすみもない綺麗な肌が間近に迫り、青星の心臓は飛び撥ねた。
「なっ、なんだよ……」
「クマが消えたな。よく寝られたのか?」
「え?」
サイドテーブルに置いてあった手鏡を取り、自分の顔を見ると、確かにクマが消えていた。
「ほんとだ……」
どれだけ睡眠時間を確保しようとも、ぼろぼろになっていた身体。それなのに、たった一日ここで寝たくらいで、こんなにも良くなるなんて。
「よく寝られたなら良かった」
梢子は目を細め、安心したように笑った。
他人にとって良い事を、さも自分の事のように喜ぶなんて。そんな人間がいるのか。
「……変な女」
青星は梢子に聞こえないような小さな声でそう呟いた。
「朝食の準備が出来ている。早く来い」
そう言って軽く手を振り部屋を出て行こうとした梢子、その手には義手がはめられていた。
あれが、義手。本物を見るのは初めてだが、想像していたものよりも、はるかにリアルだ。長袖を着ていたら、よけいに分からないな。
こんな事を思うのは、良くないことなのかもしれない。でも、両腕のないあいつが、あの時はとても美しく見えた。それは、月光があいつを照らしていたからではない。あいつ自身が、輝いていたんだ。
――ピンポーン。
そこでインターホンが鳴り、梢子はリビングではなく玄関に向かった。
「げっ……」
鍵穴から外を覗いて、そう言う梢子。
「誰だ?」
青星がそう問いかけると、梢子は渋い顔をして編集担当だと答えた。
――ガチャ。
玄関に入るなり、訪問者は、胸ぐらをつかむ勢いで梢子に迫った。
「先生……!! 昨日はよくも僕を一人にしてくれましたね。おかげであの後、大変だったんですから!!」
「いやー、すまないすまない」
「本当に申し訳に思っているんですかぁぁぁあ……!!」
「お、思ってるよ~……」
「嘘をつくな! あんたって人はいつも口ではそう言って本当に……うぇぇぇえ!!!! お、おとこ!? 先生の家に男の子がいるー!!」
牧野は青星を見て指差し、困惑した表情で叫んだ。
青星もまた、牧野を困惑した表情で見ていた。
「何やってるんですか! 何やってるんですか!? こんなの違法ですよ!? 誘拐罪であんた逮捕されますよ!?」
「もー、朝からうるさいなー。もう、その時はその時でしょ」
大声を出す牧野に対し、梢子は両手を上げ、耳を塞ぐ素振りをした。
「その時になってからじゃ遅いんですよ……!」
「分かったから、ここで騒がれても困る。とりあえず中に入れ」
牧野を一旦、落ち着かせ、三人はリビングへ。ダイニングテーブルには梢子が作った朝ご飯が綺麗に並べられていた。
……こいつ、こんなに家庭的な料理が出来たんだな。
梢子の作った料理はいたってシンプルなものだったが、綺麗に巻かれ焼き上げられた卵焼きや、海の匂いが香り、食欲をそそるみそ汁は、今まで青星が感じる事の出来なかったものだった。
言動からガサツなイメージがあったから、てっきり料理は出来ないのかと。
「お前、私が料理できない女だと思っていただろ」
青星の驚いた表情を見て、梢子はそう言ってきた。
「ああ」
「少しは否定をしろっ!」
せっかく作った朝食だが、咎められながら食事をする気にもなれず、後で温め直すとして、梢子は三人分の紅茶をテーブルの上に置いた。
牧野は紅茶を一口飲むと、ふうーと息を吐き、自分を落ち着かせていた。
担当する小説家の家にやって来たら、見知らぬ男がいた。しかも子供の。驚いて大声を出すのも無理はないが、随分と騒がしい編集者だな。歳はおそらく、二十代半ばだろうが、かけている丸メガネが余計に若く見えさせている。
「で、彼は誰なんです?」
テーブルを挟み、向かいあっている牧野は、いつになく真面目な顔をしてそう言った。
「その前にまずはお前の紹介だ」
「そうでした」
牧野は鞄から名刺を取り出し、梢子の隣に座る青星の目に前に置いた。
「改めまして、間宮先生の編集担当をしています。牧野宗助です」
「どうも……」
青星は視線をテーブルに落とし、差し出された名刺を見ていた。
牧野……ああ、そうか、こいつがあのとき言っていた牧野か。友人とか家族とか、もっと親しい間柄なのかと思っていたが、仕事上での付き合いのやつだったんだな。
「で、こちらは七瀬青星くん。訳あって、私が面倒を見ることになった」
「訳って、一体どんな……」
「まあ、ちょっと複雑で」
「複雑って、そんな事で僕が納得するとは思っていませんよね?」
梢子は短く溜息をつくと、青星を見た。
何を言いたいかは分かる。こいつに話してもいいかと訊きたいのだろう。
「青星」
「いいぜ、別に。そうしなきゃ、この人は首を横に振るばかりだろ」
梢子は数秒、青星を見つめると、前にいる牧野を見た。
「……青星は、クラブの商品として、働かされていた」
「えっ……クラブって……なんで……ご両親は……?」
「それは――」
「母親は俺を捨てて家を出た。残った俺は、父親と生活を共にしていたが、その父親も、莫大な借金だけ残して、俺の前から姿を消した。それで俺は借金を肩代わりするはめになって、クラブで働いていた」
青星は梢子の言葉に、間髪入れずにそう言った。
人に自分の身の上話をするのは、いい気分じゃない。だが、他人にされるよりは、まだ自分でした方が、心が楽だった。
牧野は目を大きく見開き、「そんな……」と口元に手を当てた。
そりゃそんな顔するだろうな。あんたが今まで生きてきた世界と、俺がいた世界はまるっきり違う。
青星の視線は下を向いた。
俺は、誰がどう見ても普通じゃない……
「……牧野……?」
優しげな梢子の声がして顔を上げると、なぜか牧野は泣いていた。メガネのレンズに、涙が触れていた。
なんで、こいつが泣くんだ……?
「ごめん……僕、八人兄弟で、ちょうど青星くんと同じくらいの歳の子もいるから、他人事には思えなくて……」
頬に流れた涙を振り払い、鼻をすすりながら、そう言う牧野。
「牧野は長男だからな、人一倍、家族に対する愛情が深いんだ」
梢子は、テーブルの横に置いてあったティッシュの箱を牧野の前に置いた。牧野は「ありがとう」と言うと、メガネを外し、涙を止めるように、ティッシュで目を押さえていた。
「……変だ」
「え??」
「あんたも、この女も、変だ……」
青星はぶっきらぼうにそう言った。
牧野は「とりあえず、分かりました」と言い、まだまだ不安に思うところはあるみたいだったが、今日のところは仕事もあるからと会社に出勤した。
牧野が帰った後、二人はお待ちかねの朝食の時間。梢子の「いただきます」と言う声に青星は小さな声で「いただきます」と続いた。
食事をしている時、青星はじっとそれを見ていた。箸を上手く持ち、おかずを落とすことなく掴む。みそ汁のお椀も、米のお茶碗も流れるように美しく持ち上げる。本当に本物の手のようだ。
その姿に、青星は見とれてしまっていた。
「ん? どうした??」
「あ、や、ずいぶん慣れているんだな」
「あー……まあな。この体になって、それなりに経つからな」
梢子は一度、箸を止め義手を見て言った。
いつからそうなんだ? そんな事は聞けなかった。聞いて、こいつが悲しんだり、苦しんだりするのは嫌だったし、自分に対して、冷めた顔を向けられたくもなかった。
梢子は箸を置くと、片方の義手でもう片方の義手を撫で始めた。それは何か、彼女にしか分からない、痛くも、もどかしくもある、懐かしい日々を頭に思い起こしているのだろうか。
いつか、知れる日がくるのだろうか。こいつの過去を。そして、俺はその過去を共に未来へと繋げる事が出来るのだろうか。
夜、風呂を沸かした梢子がリビングに顔を出すと、さっきまで、ソファーに座っていたはずの青星の姿がなかった。どこに行ったのかとあたりを見回していると、どこからか冷気を感じた。見ると、ベランダのドアが開いていた。梢子は開いていたベランダの扉から顔を出すと、そこには目を細め、全身で夜風を感じている青星がいた。綺麗に刈り上げられたサイドの髪は涼し気に揺れているように見えた。
梢子の気配に気づき、振り向いた青星の瞳は、吸い込まれそうなくらいに奥深く、それはまるで、夜の深海に広がる星々のようだった。
夜風は一段と冬を感じさせ、恋しさの感情を産ませる。
「こんな冬の夜に、風邪引くぞ」
そう言い、梢子は青星の隣に並んだ。
「お前、夜は好きか? 私は好きだ。夜は良い。穏やかに時が流れてゆく。特に、静寂な冬の夜は好きだ。誰にも、何にも邪魔されない。私だけの時間。考え事をしてしまう時もあるが、心が落ち着く時でもある」
青星は静かに梢子の話に耳を傾けていた。
「あまりに夜を感じたくて、夜更かしをしてしまう時もあるな。大人だが、ゲームや漫画を読んで、次の日が寝不足なんて日もある」
梢子の表情には、自然と笑みがこぼれていた。
「あんたでも、そんな顔をするんだな。もっと機械的な奴なのかと思っていた」
「機械的ってな……」
「でも、いいんじゃないか」
「え?」
「もっとすればいい、そういう顔」
「お前な……年上をからかうなよ」
少しいじわるそうに口角を上げる青星。その姿を月明かりだけで見たことが、この日の梢子の心残りとなった。
「これからは、お前の笑顔をたくさん見たいものだ……」
梢子は小さな声でそう言った。
「なんか言ったか?」
「いや、なんでもない! さあ、風呂に入れ~」
ベランダを出る梢子を見送ると、青星はもう一度、空を見上げた。
どんどん、美しくなっていく星空。
部屋の中からは、梢子が青星を呼んでいた。青星は、その声を追うように、部屋の中へ入った。