朝方、まだ人の出入りがない街で、阿久津はある人物と待ち合わせていた。
 誰もいない、まだ眠っている静かな街で吸う煙草の味も、悪くない。
「ふぅー……」
 閉まっている店のシャッターに寄りかかり、吐いた煙を目で追った。
 昨日、自身が経営するクラブに、一人の女が現れた。その女はクラブの商品の一人である、七瀬青星を自分によこせと言ってきた。最初は青星に惚れた客が、クラブ通いでは満足出来ずに言ってきたのだと思ったが、阿久津は女の顔に見覚えがなかった。
 冷静沈着で頭の回転も速く、俺の脅しにも微動だにしなかった。何より、あの酷く落ち着いている様が、独特な雰囲気を作り出していて、気味が悪かった。
 あの女がどうして青星を欲しがるのかは、この際どうでもいい。でも青星のあの目。
――俺が、一体何をしたって言うんだよっ……。
 あいつの目は、いつも闇を見ているかのようだった。それなのに、あの時はまるで、女神でも見たかのように、光のある目で、あの女を見ていた。あいつは、青星にとって、一体なんだと言うんだ。
 だが青星はクラブの中でも上等な商品。そう簡単に手放すわけがない。それにあいつには莫大な借金がある。どんな善人な人間でも、あいつを本気で救いたいと思うわけがない。試すつもりで金を払えと言ったが、まさか本当に金を払ってくるとは思いもしなかった。
 一本目を吸い終わり、二本目に火をつけようとしたところで、重たそうにキャリーケースを引いた女が現れた。
 ……本当に来やがった。
 阿久津は寄りかかっていたシャッターから体を離した。長く、星屑を纏ったかのような美しい女のその髪は、朝焼けの光に負けずと輝いていた。
 女は阿久津の目の前に来ると、無言でキャリーケースを差し出してきた。
「その手、義手か」
 女の両腕には、本物と見間違えるほど器用に動く両腕があった。
「ああ。金を持っていくのに、手がなかったら不便だろ」
「はっ、お前が言うと、冗談に聞こえないな」
「御託はいい。ささっと受け取れ。きっちり五千万入っている」
 阿久津は何も言わずキャリーケースを受け取り、「確かに受け取った」と言った。中身を確認しない阿久津を女は疑問に思ったようで。
「いいのか」
「ああ、お前は嘘を言うような女ではないだろう」
「ふんっ。随分な信用だな」
 阿久津の返答に、女は反吐が出ると言うように鼻で笑った。
「お前、小説家なんだってな。どうりでそれだけの金があるわけだ」
 後で調べた事だが、女はそれなりに名の知れた小説家だった。女のデビュー作。〈緋色の悲鳴〉は、百万部の大ヒット。完璧を求められ続けた少女が、破滅の道を進んで行くハードボイルド系作品だ。そのあたかも自分が体験したかのような気持ちになるという、女のリアルな小説は、読む者を魅了した。その後もヒット作を次々と生み出し、女は人気作家の仲間入りを果たした。そんな女だ。金があるのも納得だ。しかし、阿久津にはここで疑問に思ったことがあった。それは、女がここ数年で、一冊も本を出版していないということだ。少なくとも、一年で必ず一冊は本を出していた女が、数年間、一冊も出さないことなどあるのだろうか。単に休息か、創作力が尽きたのか。それとも、もう書かなくてもいいほどの満足感を得たのか。いや、そのどれでもない。今そこに、明確な答えがある。
「その腕のせいか」
「何がだ」
「お前が本を出版しないのは、その両腕が原因か」
 事故なのか、病でなのか。こいつに両腕が無くなった原因は知らないが、つい聞いてみたくなってしまった。
「お前が知って何になる」
 梢子は人を近づけさせないほどの冷めた空気を漂わせ、阿久津に鋭い視線を送った。
 これ以上は踏み込んではいけない。阿久津は必然的にそう思った。
 冷めた空気を消そうと、阿久津は咳払いをした。
「一つ忠告しておく。本当の悪魔は他にいる。あいつの父親、七瀬一浪には気をつけろ」
 七瀬(ななせ)一浪(いちろう)青星に関わった以上、あの男の話をしないわけにはいかない。
 梢子は眉間に皺をよせ、阿久津を見た。
「……どういう意味だ」
「あいつの父親、一浪は横暴な男で、暴れると手が付けられなかった。そんな父親を持ってみろ。何をされるかは、言わなくとも分かるだろ」
 阿久津の言葉に、梢子は何も言わず、顔を歪め視線を下に落とした。今、梢子が想像している中の青星は、耐え難い苦痛を受けているものなのだろう。
「母親もそんな父親から逃れるために、青星を残し、一人、家を出て行ったらしい。それから父親の怒りの矛先は、全て青星ただ一人に向けられるようになった」
 実の母親にも捨てられ、父親からの暴力に耐える日々。青星には、それが世界の全てだったのだろう。挙句の果て、父親は莫大な借金を抱え、その責任を青星に負わせ消えた。
 青星のような子供が借金を返せる方法はただ一つ。
 ――自分を売る事。
 青星は目の前に現れた阿久津から逃れる事も出来ず、生きるためには、言われたとおりにするしかなかった。
「あの親父は、完全にここがいかれている」
 阿久津は自分の頭を指差しながらそう言った。
 たとえこの女の力を借りて、俺の元を離れることが出来たとしても、あの父親がいる限り、あいつはずっと不幸のままだ。本当の自由などは訪れない。
「なぜ私にそんな話を? お前は人を心配するようなやつか?」
「それくらい、七瀬一浪が危険だからだ。とにかく、そう言う事だ。あんたも自分の身を危険にさらしたくなかったら、あいつと離れるんだな」
 離れたとして、青星の居場所は店にしかない。俺の元に戻ってくるのがおちだな。
「じゃあな……」
 阿久津は梢子に背を向け歩き出した。
 もって、三ヶ月……いや一ヶ月もてばいいか。
 そんな事を考えながら歩いていると、後ろからあの時のような、どぎつい声がした。振り向くと、梢子は阿久津を睨みつけていた。
「お前、何か勘違いしているようだが、私はあいつを手放す気なんてない」
 半ば強引だった梢子のあの言動。金で人を買ったと言われてもいいくらいの出来事。梢子に青星を傍にいさせるメリットなんて、阿久津は何もないと思っていた。梢子自身も、この先に起こることなんて、何ひとつ予想していない。
「ずっとだ」
 ずっと……。軽はずみに言っていないことは、梢子の目を見れば分かる。青星のことを話す梢子の目はいつだって本気だ。
「……そうかよ」
 阿久津はそれだけ言うと、今度こそ梢子の目の前から消えた。
 街は先ほどよりも明るく照らされていた。朝焼け空の下、眩いその光に、梢子は目を細めた。そして片目を閉じ、空に片手を伸ばし、手の中に光を収めると、家に帰る道をいつもより早い足取りで進んだ。