耳を澄まさなくとも聞こえる、水滴が落ちる音。うるさいほどに鳴り響く秒針。あの日から、俺の時間は止まったままだというのに、時間は知らぬ顔をして、今も動き続けている。
 カーテン越しに見える、光の中を彷徨う雪。
 雪は嫌いだ。あいつと出逢った季節であり、あいつとの思い出が溢れている季節だから、あいつを酷く思い出す。
 俺の卒業式を最後に、あいつは俺の前から姿を消した。
 [すまない。旅に出る]
 そう書かれた小さなメモを残して。
 俺はあいつを必死に探した。だか、まるで神隠しにでもあったかのように、どこを探しても、あいつはいなかった。
 俺を一人にしないと言ったあいつが、俺の前から消えた。嘘つきだ。でも、そうしなけらばあいつは自分を保っていられなかった。それほどまでに、あいつの心は押しつぶされていたのだ。
 何が全てをあいつに捧げるだ。覚悟をしたような顔をして、俺は何も覚悟を出来ていなかった。自分の言動にたちまち嫌気がさす。
 もっと俺が早く気づけば、もっと俺がちゃんとあいつを見ていれば、今もあいつは生きて笑っていただろうか。
自分で、自分の命を奪うような真似なんてしなかったのだろうか。
 梢子は半年前、あの公園で自殺した。犬の散歩に訪れた近隣住民が、ベンチに横たわり息をしていないあいつを見つけた。
 俺は牧野から連絡を受け、運ばれた病院へと向かった。司法解剖の結果、死因は、市販の風邪薬を大量に摂取した事だったと言う。
 市販薬を買うには自殺を防止するために制限がある。梢子は二カ月という期間をかけ、薬を集めていたのだろう。
 あいつの遺体を目の前にしたと時、俺は涙も流さなかった。実感が湧かなかったんだ。あいつがもういないという、実感が。そして受け入れなかった。あいつの死を。これはあいつじゃない。そう思ったのだと思う。
 葬儀は、牧野を含めた、編集部のわずかな人間と、あいつ親しくしていた友人のみで行われた。俺は葬儀にも出ることはなく、今日まで、あいつの墓にも行っていない。それも、あいつの死を受け入れられてない証拠となっている。
 でも月日が経って、周りからあいつの話が出なくなって、あいつの本の貴重価値が上がって、あいつの存在が薄れていく事を感じた。
 時々、あいつとの未来を想像するんだ。もしも、あいつが生きていたらという世界を。でも我に返った時、苦しくて、苦しすぎて上手く息が出来なくなる。心が張り裂けそうになる。そして体中にある水分を全て出し切るかのように、頭痛がするほどに涙を流す。
 夢だって見るんだ。でも目覚めたら、あいつが居ない世界だけがここにある。だから目を覚ますのが嫌だった。現実を突きつけられたようで、お前の大切な存在はもこの世にはいないのだと、お前は孤独なのだと、言われているようだった。耐えきれなかった。あいつが居ない世界を生きる事が。
 今まで、どれだけ体の痛みを感じても、心は上手く機能していたのに、俺はあいつを失って初めて心の痛みというものを知った。時には、胸に尖ったナイフのようなものが突き刺さっているようにズキズキと痛んだ。また時には、胸を強く圧迫されているかのような圧に押しつぶされそうになった。でも、そんな痛みを知ってもなお、俺は梢子に逢いたくて、逢いたくて仕方がなかった。信神にまで、本気で願った。あいつに逢わせてくれと、あいつを返してくれと。
 あいつの頬には、涙が渇いた跡があった。あいつは泣いていたんだ。悲しかったんだ。辛かったんだ。苦しかったんだ。
 でも、一つだけ不可解な事があった。あいつの顔は微笑んでいた――。
 泣いていたのに、なぜ笑う? あいつは死ぬ間際、一体何を考えていたのだろうか。何を見ていたのだろうか。俺はそれが知りたかった。
 うるさい……。
 さっきから家の中にインターフォンが鳴り響いている。梢子が死んだ今、この家に来るのは、ただ一人だけ。
 青星は重い腰を上げ、ソファーから立ち上がると、玄関へ。扉を開けると、そこには牧野の姿があった。
「入ってもいい……?」
 そう尋ねる牧野に、青星は何も言わずに、部屋の中へ通した。
 牧野はあれ以来、仕事の合間、俺の様子を見に来る。変わった事なんてあいつが死んだ以外、何もないのに、毎日のようにだ。遺言だが何だか知らないが、人の重りになるような事はごめんだ。
 それに一番は、牧野に会うと梢子を思い出してしまうという事もある。
「何もないから、帰ってくれ」
「分かってる。でも、今日はどうしても、君に渡さなくてはならないものがあるんだ」
「俺に? 一体何をだ。俺は何もほしくない……俺のほしいものは、もう手の届かないところにあるんだ……」
 そうそれは、決してどれだけ手を伸ばそうとも、手に入れられないもの。
「青星くん……」
 牧野は悲し気に俯いた。
「本当に帰ってくれ、あんたのそういう顔、見たくなんだよ……」
「青星くん、僕はただ」
「なんでだ……」
「え?」
 青星は牧野の言葉を遮るようにそう言った。
「なんであいつを一人にしたんだよ……!!」
 突然、怒鳴り声を上げた青星に、牧野の体は固まった。
 自分が心底嫌だった、憎かった。嫌いだった。そして、悔しさが溢れた。
 分かってる。こんなの、ただの八つ当たりだ。牧野は何も悪くない。こいつは梢子の意志を尊重した。俺と違って、自分のための選択をしたんじゃない。梢子のための選択をしたんだ。
「俺は……何も出来ていなかった……。ただ穴の開いた己の心を埋めるために、あいつの傍にいた。自分のためだ……!」
「それは違うよ……!」
 牧野は必死な顔でそう言った。
「だったらなんであいつはここにいない……!? 俺が救えなかったからだ……! そうだろ……?? 」
「違う……」
 歯を食いしばり拳を握る牧野。
「梢子ちゃんは、梢子ちゃんは、君に救われていたんだ……!」
「……は……?」
 呆然とした顔をする青星。
 牧野は鞄から原稿用紙を取り出し、青星に差し出した。
「梢子ちゃんが、僕らの前から姿を消してからの二か月間で完成させた物語だ。梢子ちゃんが、君に残した。最後の贈り物だ。読んでほしい」
「……梢子が?……」
 牧野はゆっくりと頷いた。
 これが、あいつが何年もかけて、寝る間も惜しみ、幻肢痛に苦しまされながらも、それでもなお、手書きで作り続けた、あの物語なのか?
「……」
 青星はその原稿の手を伸ばした。
 タイトルは、――夜明けのシリアス――
 間違いない。これは、あいつの字だ……
 線が細く、川に水が流れるように緩やかで、繊細な、あいつの字。
 青星は、手でゆっくりと、タイトルの文字を上から下へとなぞった。
 梢子。感じさせてくれ、お前の存在を。教えてくれ、お前が最後に何を思っていたのか。何を見ていたのかを。
 速まる鼓動を落ち着かせながら、青星は最初のページをめくった――。