少し眠りたいという青星のため、梢子は病室を出て、夕飯を取る為、食堂に来ていた。
 豪快に大盛カツカレーを頬張っていると、頭上から声がした。
「よく食う女だな」と。
 顔を上げると、そこには、相変わらず人相の悪い阿久津がいた。
「何だお前、帰ったんじゃなかったのか」
 阿久津は梢子の目の前の席に腰を下ろすと、煙草を取り出した。
「バカッ。ここは病院だぞ」
 梢子は阿久津の手をパッチンと叩き、止めた。義手だから思いのほか、痛かったようで、阿久津は「痛って」と声を漏らしていた。
「そうだったな。つい忘れる」
 目の前に阿久津が座ている事に、まだ少し違和感は残るが、梢子は構わず食事を続けた。
「青星の様子は?」
「母親の手紙を読んで、頭の中で整理とつけようとしているようだ。少し時間はかかるかもしれないが、あいつなら大丈夫だ」
「ずいぶん簡単に考えているんだな。お前だったら、もっと騒ぎ立てると思っていた」
 確かにそうかもしれない。自分は青星の事となると、歯止めが利かないし、なりふり構わない行動を起こす。それは今回の事で身に沁みた。阿久津だって、それを一番近くで見ていたから思うのも当然の事。しかし今は違う。そう思えるのは、青星自信がこの一年で、大きく成長した事を知ったからだ。
 梢子はカツカレーを平らげると、水を飲み干し、置いてあったナプキンで口を拭いた。そして一息つくと語り出した。
「出会ったばかりのあいつは、とてもひ弱で、いつも何かに怯えていた。私が守ってやらなければいけないと、思っていたが、どうやらそれは違ったようだ」
「というと?」
「あいつは自分ばかりが守られて、もらってばかりだと思っているかもしれないが、守られていたのは、もらっていたのは、本当は私の方なんだ」
 強く私の体を抱きしめるあいつ。あいつの腕の中にいると酷く安心する。十個以上も年下だというのに、守ってもらえているような気がするんだ。体ではない、心を――。
「あいつは、自分がなんの価値もない、つまらない人間だと思ってる。でも、それは違う。<青星>その名の通り、あいつは私に光をもたらしてくれた。あいつの存在は、私を救ってくれたんだ」
 そう、これは散々、私に辛い宿命を背負わせてきた天から送られた光。
 八年だ。八年、私はあの日を待っていたんだ。そして、ようやくあいつに巡り合った。これは運命でもなんでもない。必然的だったんだ。私たちは、出逢うべくして出逢った。
「あいつは強い。とても」
 今の青星は己と向き合い、過去を受け入れ、前に進もうとしている。だから、きっと大丈夫だと梢子は思っていた。
「お前らは、魂の奥深くで結ばれている。決して誰にも離せやしない。それは、友情や愛よりも深いものだ」
「……そうかもしれないな」
 阿久津は席から腰を上げ、背を向けて歩き出そうとした。
「阿久津」
 梢子は阿久津を呼び止めた。
 どういうやり方で今こいつがここにいられるのかは知らんが、こいつの事だ。何かうまい言い訳を考えて、ここにいるのだろう。たとえば、七瀬青星に大切な話があるとか。
 しかし、もうこいつは今まで通りの生活は出来ない。それをこの窓から、アリのように小さく見える、警察とパトカーが教えている。
 梢子は横目で下を見ていた。
「お前、これからどうするんだ」
 神崎の悪事が明らかになった今、阿久津が経営していたクラブにも、当然、警察の捜査が入っている。こいつも売春をやっていた罪で警察に逮捕される。神崎が絡んでいた時点で、それが分かっていたはずなのに、こいつは青星を救出する事を止めなかった。それにあの夜、あの別荘に警察を呼んだのは阿久津だった。
 最後まで、訊けなかったな。こいつの本心を。
「何も変わらない。俺は俺で生きる」
 そう言い残すと阿久津は食堂を出て行った。行先はあのパトカーの中。
 またな――。
 梢子はその言葉を阿久津に言う事は出来なかった。
――この日を境に、阿久津が梢子と青星の前に現れることはなかった。警察に逮捕されるはずだった阿久津は、忽然と姿を消したのだ。店で所有していた莫大な額になる株は、全て持ち去られ、噂では、クラブで働いていた身寄りのない子供と行動を共にしていると言う。
 梢子は独り言のように言った。
「――ありがとう。阿久津」
 歳をとると、素直になれないものだ。