「まだ来ないのか」
 古びた倉庫の床に足を打ち付け、落ち着かない様子の梢子。今、二人は、青星の拉致に深く関わっている人物と待ち合わせていた。
「落ち着け。もうすぐ来るはずだ」
 梢子の仮定の話を聞いた阿久津の頭にある人物が浮かんだ。その人物は、阿久津が経営するクラブの常連で、警察の官僚だった男だ。男は青星がお気に入りの様で、いつも青星を指名していた。もしも梢子の言っている事が全て正しいとすれば、そいつが絡んでいるとみて、間違いないと阿久津は踏んだ。そして部下に連絡を取り、店に保存されて個人データの電話番号に電話をかけ、今、その男を呼び出していた。
「一つ言うが、お前、間違っても殺すなよ。青星の居場所を突き止めるのは、この方法しかないんだからな」
「分かっている」
 静寂な空間の中、聞こえるのは、互いの吐息のみ。二人は何を話す事もなく静かにその時を待っていた。
 分かっている。口ではそう言ったが、本当は八つ裂きにしてやりたい。なんなら、今まで青星を物のように扱ってきたやつら全員だ。無論、阿久津も例外ではない。しかしやつが居なければ、ここまで辿り着く事は出来なかった。仮を作るのは趣味じゃないが、これは仕方のない事だと言える。何を言おうとも、優先するのは青星の命。それ以外はない。たとえこの身が亡ぼうとも、救い出す。 
 ……煙草臭い……
 少し離れた位置には、使われなくなってそのまま置かれたのであろう資材に寄りかかり、煙草を吸う阿久津がいる。
 こいつに会っている時、吸っていない姿を見た事はない。
「お前、吸い過ぎじゃないか」
 梢子がそう言うと、阿久津は銜えていた煙草を口からはずし、人差し指と中指で挟み、見つめていた。
「こんな物に頼らないといけにないほどに、この世界は生きるのが難しいんだよ」
 初めてこいつを見た時、それはもうあくどいやつだと思った。サングラス越しにでも分かるその冷徹さと、他者を蹴落とす事に慣れているといった態度。違法クラブのオーナーとしては充分すぎるほどの存在感。正直、怯んだ部分は、少しはあったと思う。ただ、それを悟られないように、上手隠した。自分が怯えては、交渉は成立しない。だから、絶対に弱い部分を見せない。傲慢で、強引な女を演じ切るんだと思っていた。
 ……あの時は、あの人の娘に生まれた事を、喜んだ自分がいたな。
「なあ、阿久津。お前、本当は青星の事をどう思っているんだ」
 一浪の話を聞かされたあの日から、今日まで共に行動をしてきたこいつに対しての印象は大きく変わった。あくどいやつから、あくどいやつを演じる事しか出来ない生き方をしてしまっている。という印象に。
「お前は言っていた。罪の償いだと。あれは、どういう意味なんだ?」
 青星への事だけを後悔しているとも捉える事が出来るが、それだけなのだろうか。こいつには、何かもっと別の何かがあるのではないだろうか。
「俺は、ゴミだめの中で生まれ育った」
「……は?」
「俺の母は、水商売をやっていた女だった。そこの客で来た男との間にできた子が俺だ」
 こいつ、煙草の吸い過ぎで頭イカレたのか? いきなり身の上話なんて。
「父は当然、俺と母を養う気などなく、子供ができたと知ると姿を消した。母も俺を育てる気などなく俺を捨てた。その後は地元の半グレ集団に面白半分で拾われ、育てられた。そいつらは人を殺したりするが、己のみを守る自己防衛のみでだ。自分から吹っ掛けるような真似はしない」
 阿久津はなんのためらいも迷いもなく、話しているようだった。
「まともな教育を受けて育っていない俺だ。普通の生き方など、常識など知らない。だから……」
 阿久津は少し間を開け、何か考えるように目を細めた。そして、
「こういう生き方しか出来ない」
 阿久津の話し方は、心のうちが分からないものだった。何があったのか、一連の流れが分かってとしても、そこで阿久津が何を思い、何を感じたまでは分からない。
 阿久津は梢子を一瞥すると、靴の底で吸っていた煙草を踏みつけ火を消した。
「まあ、お前はこの程度の話で、驚くようなやつではないだろうがな」
 だから……。その後に続く言葉は、本当はなんだったのか。私はそれが知りたかった。
「ふっ……答えになっていないな」
 梢子は苦笑した。
 阿久津は、確かに残虐な事をしている男だ。しかし、私が思うような人間ではないのかもしれない。
 外は真っ白な濃い霧に包まれ、異彩な空気を放っていた。街灯のオレンジ色の光が染める街並みは、暁色を思わせた。こんな夜は、裏の世界での取引にはもってこいの日だと梢子は思った。
 外に一台の黒い乗用車が止まるのが見えた。おそらく、今か今かと待ちわびた人間だ。梢子は背筋を伸ばすと、眼光を鋭くした。
「来たぞ」
 運転席から一人の男が現れた。阿久津は梢子より一歩前に出ると、男を出迎えた。
「どうも、神崎さん」
 神崎(かんざき)……こいつが青星を……
 女が好みそうな色気のある顔立ちに、品よく着こなされたオーダーメイド製のスーツに、新品同様な綺麗な革靴。上まできっちりと絞められたシャツのボタンとネクタイが、表向きの神崎の顔だ。
 自分の中にメラメラと怒りが湧きあがるのを梢子は感じていた。
 神崎は、阿久津の一歩後ろに立つ梢子に目を向けると、分かりやすく顔を歪ませた。
「……こちらは」
「お気になさらず。私の知人です」
 阿久津が作った柔和な表情でそう言っても、神崎の顔はより一層、険しくなるものだった。
 一見、神崎は国の平和と秩序を守る正義の象徴である警察官だと思われるが、こいつの目は明らかに死んでいる。汚れている。目を見れば分かる。相手が、どんな人間なのか。
「それで、例の物は?」
 早くこの場を去りたいのだろうか。神崎は早速本題に入った。
 余裕がないと言う感じだな。威厳を感じるのは、テレビの中だけか。
 梢子は心の中で神崎を嘲笑した。
「ここに」 
 阿久津は持っていた茶封筒を神崎の前に掲げた。
 この封筒の中には神崎が阿久津の経営する違法クラブに通っていたという証拠が記されたデータが入っている。梢子と阿久津はそれを餌に神崎をおびき寄せ、取引を持ち掛けたのだ。
 阿久津が持つ茶封筒に手を伸ばした神崎だったが、阿久津は手を引き、神崎から遠ざけた。
「何の真似だ」
 神崎は阿久津を睨んだ。
「約束は忘れていませんよね?」
「……ああ」
 神崎は極まり悪そうな顔した。
「では先にそちらから」
「貴様……」
「いいんですが、これが世に出回っても」
 阿久津は残虐な脅しで神崎を操ろうとしていた。
 警察の官僚ともなる男が違法クラブ。しかも売春をしていたとなると、当然、警察の地位と権力は無くなり、世間は神崎をほおってはおかないだろう。
 ほんと、なんで私はこいつを怖がらなかったのか。……きっとそれだけ、私は青星を助けたかったんだ。
「……分かった。先に話す」
「お願いします」
 神崎は一呼吸ついた。そして意を決したような顔つきで、
「七瀬青星は今、私の別荘にいる」
「別荘……?」
 神崎は頷いた。
「私が所有している別荘の中の一つに、地下付の別荘があるんだが、一浪はその別荘を監禁場所として貸してほしいと言ってきた。貸してくれたあかつきには、息子を好きなようにさせると」
「なるほど。どうやら、お前の読みは当たっていたようだ」
 阿久津は梢子に振り返りそう言った。
「……ああ」
 梢子は神崎の目の前に立った。
 まったく吐き気がする。
「なんなんだ君は……」
 神崎は両腕のない不気味なを女を見て、困惑しているといったようだった。
 そんな神崎の姿を見て、自分の姿がこんな風に役に立つなら、この姿も悪くないと思った梢子。
「神崎。お前は、七瀬青星を手に入れてどうしようとしていた? 痛いと泣くまで、あいつが嫌がる事をしようと考えていたのでないか? 」
「はあ……?? もとあと言えば、あいつが俺に縋ってきたんだ。だから俺はそれに応えてやったまでだ。それを、まるで俺が悪いかのように言うなんて、とんだ侵害だな」
 神崎は冷笑していた。自分が行っていることを悪びれる様子なんてこれっぽっちもない。得をしている自分が居れば、それでいいと思っている。
 こいつは、自分がやっている事の罪の重さに、まるで気づく事などなく、これからも子供を食い物にするのだろう。何が平等社会だ。何が平和だ、秩序だ。お前らのような人間は、いつだって、優しくない。
 長い髪を垂らし、下を向く梢子はホラー映画に出てくる貞子だと間違われてもおかしくない。「阿久津。やっちまっていいか?」
 阿久津は深いため息をつき、
「好きにしろ」
 そう言い、その場から少し距離をとろうと梢子の後ろへ歩きだした。
「何をする気だ」
 神崎は怯えた目で梢子と阿久津を交互に見ていた。
 こいつに青星と同じ痛みを味わってもらいたいが、そんな事はあいつが一番望まない。だから、私は私のやり方で、こいつを苦しめる。
 梢子はぐんと神崎に顔を寄せた。
「楽しかったか。私の大切な人を縛り、痛めつけるのは」
 その目は赤く、見の毛もよだつほどに恐ろしいものだった。
「なぁ……楽しかったか?」
 神崎はしりもちをついた。
「人が話しているのに、しりもちをつくなんて、お行儀が悪いぞ」
 その姿は悪魔そのものに見える。
「立て」
 どぎつい声で言う梢子に、神崎はふらふらとその場に立った。
「フッ……フハハハッ。足が小鹿のように震えているぞ。そんなに私が怖いか?」
 滑稽な神崎を嘲笑うかのように不適な笑みを浮かべる梢子。
「お前みたいな人間が、どうして普通に生きて、あいつが生きられなかったんだ……」
 梢子は独り言のようにそう呟いた。
 不平等で、厳しい、生きづらい世界。だけど、生きる事への希望を捨てない。捨てさせない。
 青星。私は、お前のためなら、悪にでもなれる――。
 梢子は足を開くと、両足に力を入れた。
 こんな体の状態で、あの時のように上手くいくかは分からんが、私はこいつぶっ飛ばしたくて仕方がない。
 梢子は体を回転させると同時に、神崎の顔をめがけて片足を上げ、蹴り飛ばした。あの時と同じ、回し蹴り作戦だ。
 神崎は後ろにあったダム缶にぶつかると、そのまま気絶した。その姿は、月も喜ぶほどに無様だった。
 梢子は神崎に近づくと、耳元で
「もし神がいたとしても、お前にその恵みが与えられることは一生ない……」
 そう言い、倉庫を出て行った。
 阿久津は野垂れる神崎の目の前に、茶封筒を捨てると、その場を後にした。