阿久津は車の前、小さく息を吐いた。白く流れる息は靄のような姿をして闇に飲まれた。
煙草を一本だけ吸うと、阿久津は車に乗り込んだ。
「今日はホテルに泊まろう」
窓側に顔を向ける梢子に、阿久津は言った。
「はっ……お前とホテルなんて、死んだ方がマシだ」
憎まれ口を叩く梢子。その瞳は虚ろで、目の下にはクマができていた。
青星が一浪に連れ去られてから、既に三日が経った。あれから阿久津たちは血眼になって青星を探したが、見つける事はおろか、手掛かりは何一つ掴めていなかった。
真理愛の証言の元、青星が通う高校の近隣住民に聞き込みをした。しかし、誰も青星の姿は見ていなかった。奇妙な事だ。人通りの多い学校付近で拉致されたというのに、誰の目撃もないなんて。
理由は分からないが、一浪は異常なほどに青星に執着している。痛めつけられているとしても、青星が殺されていることはないだろう。
「部屋は別に取るんだからいいだろう。……そんな姿のお前と行動を共にする俺の身にもなれ」
星屑のような輝きがあった梢子の髪も、今ではもう、霊気を全て吸い取られたかのように、まっさらだ。青星を見つける前に、梢子の精神が持つかどうかも問題だった。
ホテルに着き、空きがあるかどうか調べてもらうついでに、フロントに一浪と青星の写真を見せ、ここを訪れていないかどうか訊いたが、首を横に振った。
どこをどう探しても、空振り。光は一筋も見えず、穴倉にでも落とされた気分だった。
「空きのお部屋なのですが、最上階でしたらお二人様用のお部屋をご用意させて頂けます」
「一緒の部屋という事ですか」
「はい」
一瞬、梢子の不満な顔が頭に浮かんだ阿久津だったが、また憎まれ口を聞くとして、その部屋のカードキーを受け取った。
予想通り、阿久津に悪態をついた梢子だったが、それは部屋へと続くエレベーターに乗り込むまでの事だった。部屋に入ると大人しくシャワーを浴び始め、上がってからはそそくさとベッドに身を投げた。
横を向けば見える、最上階からの景色は、今では滑稽に見える。今この瞬間、一人の少年が連れ去られ、暴行を受けているのかもしれないなんて、誰も思わないだろう。何も知らないで笑っている人間を憎く思ってしまう。
自分はもう一度、大切な存在を失ってしまうのだろうか。いつか失うと分かっていたのに、求めてしまった自分がいけなかったのだろうか。やっぱりあの時一人孤独に滅びる事を選択するべきだったのだろうか。何を考えても、頭の中の霧が晴れる事はない。
青星が居なくなってからの梢子は、絶望の檻の中に閉じ込められた、タテガミオオカミのようだ。オオカミの体に、狐の頭、鹿の脚。美しくユニークなその姿は、梢子そのもの。
飢えに飢え歩き回っていると言うのに、何度狩りをしても、その欲している存在を捉える事が出来ない。なんともいじらしい。
もしも、もう二度と青星に会う事が出来なかったら? 青星がまた辛い目に逢っているとしたら? そう考えると、梢子は夜も眠れなかった。
目の下のクマが酷かろうとも、肌がぼろぼろになり、口がかさつこうともそんな事はどうでもいい。どんな犠牲を払ってでも、梢子は青星を探し出す。
部屋の中には、阿久津がつけた、深夜のニュース番組が流れていた。最初は耳だけで聞いていた梢子だったが、やがて体を起こし、画面に目を向けた。
内容は暴力団組員に警察が関与しているというものだった。
日本の秩序を守る警察官が、反社会勢力に賄賂を渡し従わせていたなんてやり方があまりに合法ではない。
賄賂……警察……
その時、梢子の脳裏にある仮設が浮かんだ。
「阿久津。一つ聞くが、一浪は軍人時代、どの階級だった」
テレビの前のソファーに座る、阿久津の背中に梢子は問いかけた。
まさか、そんな事はないよな。日本はそこまで落ちぶれていないよな。と、梢子は心の中で呟いていた。
「は?……」
眉間に皺を寄せた阿久津がこちらを向いた。
「幹部だがそれが何か……?」
その瞬間、梢子の背筋は凍った。
「……もしも、警察組織との繋がりがあるとしたら……?」
「馬鹿な……いくら何でもそこまでは――」
そう言った阿久津の額から、冷や汗が流れた。
混乱を隠せない阿久津の瞳。
「いや……あり得るのかもしれない……」
一つもない目撃証言。あぶり出せない監禁場所。警察の官僚ともなる人物が一浪に秘密を握られ、協力をしているであれば……? 一浪がそこまで賢い男かどうかは分からないが、警察が犯罪者にただで尽力するとは考えにくい。何かメリットとなるものでゆすって………
「――そう言う事か……」
梢子は上着を肩に掛けるとドアに向かって歩き始めた。
「どこへ行く」
「警察本部だ」
「警察本部って……おい……!」
阿久津は立ち上がり、梢子を追いかけた。
「行ってどうする気だ! まさか警察に直訴でもする気か? お前はそんな馬鹿じゃないよな??」
「っ……じゃあ、どうするっていうんだよっ……!! こうしている青星は身勝手な理由で傷ついている……!! 私がどうにかしてやらないで、誰があいつを救うっていうんだよ……!!」
不条理な世界に、理不尽な大人たち。そんなもののせいで、子供は夢を持つ事も許されず、命を奪われないように、生きる事で精一杯な人生を送る。犠牲になるのは、いつだって子供たちだ。
「警察に行って、偉そうに正義ぶっているやつらに言ってやるんだよ……高いビルを造ったり、無駄な外交をする前に、今、目の前にいる命に目を向けろと……!!」
梢子は泣きながらその場にしゃがみこんだ。
いつもは強気で、冷静な梢子が取り乱す姿を、阿久津は初めて目の当たりにした。
「くそっ……くそっ……くそっ……!」
怒りで床を叩きたくとも、自分には両腕がない。大切な人が苦しんでいるのに、自分は何もしてやれない。不自由なこの体も、この時ばかりは笑いに変えられなかった。
「間宮。お前の気持ちは分かるが、まだそうだと決まったわけではない」
「そうに決まっている。じゃなきゃ……辻褄が合わない……」
阿久津は小さく溜息を漏らした。
「綺麗な顔も、台無しだな……」
阿久津は梢子の前にしゃがみ込みと、上着からハンカチを取り出し、雑に梢子の顔を拭いた。
「やるならもっと丁寧ににやれ……。だからお前はモテないんだよ……」
「そう言える元気があるんだったら、まだまだ大丈夫そうだな」
阿久津は梢子を立ち上がらせると、背を向け、どこかに電話をかけ始めた。
数分すると阿久津は電話を切り、梢子に向き直った。
「俺に考えがある」
煙草を一本だけ吸うと、阿久津は車に乗り込んだ。
「今日はホテルに泊まろう」
窓側に顔を向ける梢子に、阿久津は言った。
「はっ……お前とホテルなんて、死んだ方がマシだ」
憎まれ口を叩く梢子。その瞳は虚ろで、目の下にはクマができていた。
青星が一浪に連れ去られてから、既に三日が経った。あれから阿久津たちは血眼になって青星を探したが、見つける事はおろか、手掛かりは何一つ掴めていなかった。
真理愛の証言の元、青星が通う高校の近隣住民に聞き込みをした。しかし、誰も青星の姿は見ていなかった。奇妙な事だ。人通りの多い学校付近で拉致されたというのに、誰の目撃もないなんて。
理由は分からないが、一浪は異常なほどに青星に執着している。痛めつけられているとしても、青星が殺されていることはないだろう。
「部屋は別に取るんだからいいだろう。……そんな姿のお前と行動を共にする俺の身にもなれ」
星屑のような輝きがあった梢子の髪も、今ではもう、霊気を全て吸い取られたかのように、まっさらだ。青星を見つける前に、梢子の精神が持つかどうかも問題だった。
ホテルに着き、空きがあるかどうか調べてもらうついでに、フロントに一浪と青星の写真を見せ、ここを訪れていないかどうか訊いたが、首を横に振った。
どこをどう探しても、空振り。光は一筋も見えず、穴倉にでも落とされた気分だった。
「空きのお部屋なのですが、最上階でしたらお二人様用のお部屋をご用意させて頂けます」
「一緒の部屋という事ですか」
「はい」
一瞬、梢子の不満な顔が頭に浮かんだ阿久津だったが、また憎まれ口を聞くとして、その部屋のカードキーを受け取った。
予想通り、阿久津に悪態をついた梢子だったが、それは部屋へと続くエレベーターに乗り込むまでの事だった。部屋に入ると大人しくシャワーを浴び始め、上がってからはそそくさとベッドに身を投げた。
横を向けば見える、最上階からの景色は、今では滑稽に見える。今この瞬間、一人の少年が連れ去られ、暴行を受けているのかもしれないなんて、誰も思わないだろう。何も知らないで笑っている人間を憎く思ってしまう。
自分はもう一度、大切な存在を失ってしまうのだろうか。いつか失うと分かっていたのに、求めてしまった自分がいけなかったのだろうか。やっぱりあの時一人孤独に滅びる事を選択するべきだったのだろうか。何を考えても、頭の中の霧が晴れる事はない。
青星が居なくなってからの梢子は、絶望の檻の中に閉じ込められた、タテガミオオカミのようだ。オオカミの体に、狐の頭、鹿の脚。美しくユニークなその姿は、梢子そのもの。
飢えに飢え歩き回っていると言うのに、何度狩りをしても、その欲している存在を捉える事が出来ない。なんともいじらしい。
もしも、もう二度と青星に会う事が出来なかったら? 青星がまた辛い目に逢っているとしたら? そう考えると、梢子は夜も眠れなかった。
目の下のクマが酷かろうとも、肌がぼろぼろになり、口がかさつこうともそんな事はどうでもいい。どんな犠牲を払ってでも、梢子は青星を探し出す。
部屋の中には、阿久津がつけた、深夜のニュース番組が流れていた。最初は耳だけで聞いていた梢子だったが、やがて体を起こし、画面に目を向けた。
内容は暴力団組員に警察が関与しているというものだった。
日本の秩序を守る警察官が、反社会勢力に賄賂を渡し従わせていたなんてやり方があまりに合法ではない。
賄賂……警察……
その時、梢子の脳裏にある仮設が浮かんだ。
「阿久津。一つ聞くが、一浪は軍人時代、どの階級だった」
テレビの前のソファーに座る、阿久津の背中に梢子は問いかけた。
まさか、そんな事はないよな。日本はそこまで落ちぶれていないよな。と、梢子は心の中で呟いていた。
「は?……」
眉間に皺を寄せた阿久津がこちらを向いた。
「幹部だがそれが何か……?」
その瞬間、梢子の背筋は凍った。
「……もしも、警察組織との繋がりがあるとしたら……?」
「馬鹿な……いくら何でもそこまでは――」
そう言った阿久津の額から、冷や汗が流れた。
混乱を隠せない阿久津の瞳。
「いや……あり得るのかもしれない……」
一つもない目撃証言。あぶり出せない監禁場所。警察の官僚ともなる人物が一浪に秘密を握られ、協力をしているであれば……? 一浪がそこまで賢い男かどうかは分からないが、警察が犯罪者にただで尽力するとは考えにくい。何かメリットとなるものでゆすって………
「――そう言う事か……」
梢子は上着を肩に掛けるとドアに向かって歩き始めた。
「どこへ行く」
「警察本部だ」
「警察本部って……おい……!」
阿久津は立ち上がり、梢子を追いかけた。
「行ってどうする気だ! まさか警察に直訴でもする気か? お前はそんな馬鹿じゃないよな??」
「っ……じゃあ、どうするっていうんだよっ……!! こうしている青星は身勝手な理由で傷ついている……!! 私がどうにかしてやらないで、誰があいつを救うっていうんだよ……!!」
不条理な世界に、理不尽な大人たち。そんなもののせいで、子供は夢を持つ事も許されず、命を奪われないように、生きる事で精一杯な人生を送る。犠牲になるのは、いつだって子供たちだ。
「警察に行って、偉そうに正義ぶっているやつらに言ってやるんだよ……高いビルを造ったり、無駄な外交をする前に、今、目の前にいる命に目を向けろと……!!」
梢子は泣きながらその場にしゃがみこんだ。
いつもは強気で、冷静な梢子が取り乱す姿を、阿久津は初めて目の当たりにした。
「くそっ……くそっ……くそっ……!」
怒りで床を叩きたくとも、自分には両腕がない。大切な人が苦しんでいるのに、自分は何もしてやれない。不自由なこの体も、この時ばかりは笑いに変えられなかった。
「間宮。お前の気持ちは分かるが、まだそうだと決まったわけではない」
「そうに決まっている。じゃなきゃ……辻褄が合わない……」
阿久津は小さく溜息を漏らした。
「綺麗な顔も、台無しだな……」
阿久津は梢子の前にしゃがみ込みと、上着からハンカチを取り出し、雑に梢子の顔を拭いた。
「やるならもっと丁寧ににやれ……。だからお前はモテないんだよ……」
「そう言える元気があるんだったら、まだまだ大丈夫そうだな」
阿久津は梢子を立ち上がらせると、背を向け、どこかに電話をかけ始めた。
数分すると阿久津は電話を切り、梢子に向き直った。
「俺に考えがある」