不平等なこの世界に、希望などない。あるのは他者への強い憎しみと怒り、そして、孤独だ。
 人間関係で最も大切なものは何か。それは信頼出来るか出来ないかだ。俺は人を信用しない。人は平気で噓をつく。優しい人間は、一番恐ろしい人間の間違いだ。信じられるのは、自分のみ。
――青星(あおし)
 俺にそんな名前を付けた母親は、俺を捨てた。理由は分かっている。暴力を振るう父親から逃げるため。みんな結局は、自分が一番大事。母親は自分のために俺を犠牲(いけにえ)にした。それからの俺は父親の奴隷だ。どこにでもあるような幸せな家庭。いつもみんな笑顔の家族。それは俺にはなかった。みんなの言う当たり前は、存在しなかった。
 俺はこの世界を酷く恨んでいる。嫌いだ。でも一番嫌いなのは、こんな生き方しか出来ない自分だ。もっと、上手く生きられたら良かったのに。
「――青星、時間だ」
 今日も俺は自分を汚す。
 人間はみな貪欲な生き物だ。地位や名誉を持っている人間はもっと貪欲で、俺はそんな奴らのおもちゃ。そんな俺も、醜くい。ベッドの上、見たくもないやつの顔を拝む毎日。触れたくもない肌に触れる日々。感じたくもない体温を感じる日々。そして、最後は必ず、魂を削られたかのような虚ろさを覚える。
 でも、こんな俺にも長所が一つだけある。それは、失うものがない事。俺には、何もない。
 冷たいシーツの中。体を丸め、自分を抱きしめた。
 人の肌に触れようとも、俺はぬくもりなんて感じない。だからこうやって、自分を慰めるように自分で自分を抱きしめる。俺は、なんて寂しいやつなんだろうな。
「さみぃー……」
 ぬくもりを感じないのは、相手が自分を大切に想っていないから。俺に触れる人の手は、体は、凍えるほどに冷え切っている。でも最近では、自分が温かな人間ではないからとも思うようになった。
 次の客が来るまでまだ時間がある。休憩がてら、外の空気を吸いに行くため、無残に床に捨てられた自分の抜け殻を拾う。ベッドの横にある鏡に映った自分は、目の下にはクマが出来ていて、細く、やつれていた。
 こりゃ、スクラップ置き場で倒れてたりなんてしたら、死んでいると思われそうだ。ゾンビ映画にでも出られるかもな。
 裏口のドアを開けると、雪が降っていた。雪に当たらないように、屋根があるドアの前に立った。
 静かに、ゆっくりと、深々と降り積もっていく雪。明日はあたり一面、雪景色かもしれない。銀河のようなその景色を想像すると、自然と少しだけ、笑みがこぼれた。こんな自分でもまだ笑える。
 街は、無数の光で照らされていた。ぎゃははと笑う人の声。耳障りがするほどのうるさい音楽。きつい煙草の匂いと、ほのかに香る香水。そのどれもが気に食わない。いっそ、幻想でも見せられた方がましだ。
 現実逃避をしようと、お得意さんからくすねた煙草をズボンのポケットから出し、ゴミ捨て場で拾ったマッチに火をつける。炎は赤く燃え上がり、風に揺れていた。
 そこに置いてあるゴミ袋にこれを投げれば、この店は燃えて無くなるだろうか。そうなれば俺は、自由を手に入れられるのか。
――お前は一生、俺から逃げられない。
「……」
――今日から君は、俺たちの道具だ。
「くっ……!」
 唇を強く噛みしめすぎて血が流れたが、そんな事にも気づかないほどに、青星の中で負の感情が広がっていた。溜まった怒りを爆発させるように、青星は空に向かって叫んだ。
「まったく……クソくらえだこんな世界!!!!」
「――同感だな」
 え――。
 隣を見ると、髪の長い女が膝を抱えて座っていた。
 驚きのあまり硬直していると、女はおかしそうに「ぷっ」と笑った。
「まるで幽霊でも見たかのような顔をしているな」
 青星はすぐさま女から離れた。その反動で、持っていた火のついたマッチと、煙草が地面に落ちた。
「お前、誰だ……?」
 青星は上着の内ポケットに入れていた、護身用ナイフを取り出し女に向けた。
 いつからここにいた?? 足音なんて、一つもなかった。
「危ないなー」
 危ない? この状況でそれだけか? こいつには、恐怖心ってものが微塵もない。まるで、死を身近に感じた事があるような、そんな肝の座りようだ。
 恐ろしいほど冷静な女に、青星の不信感は深まった。
「いいから質問に答えろ」
「安心して、別に怪しいものじゃないから」
「怪しいやつは大抵そう言う」
「がはははっ! 確かにな!」
 女は、少年漫画にでも出てくるキャラクターのような、豪快な笑い方をした。
 青星が警戒したように女を睨みつけても、女は顔色を変えなかった。そして小さく溜息をつくと、ゆっくりと口を開いた。
「ここを通りかかったら、未成年と思われる君が、何やら法に手を染めようとしているように見えたから、ただ来ただけさ」
 女は、地面に落ちている火の消えたマッチと煙草に目をやりそう言った。
「警察にでも突き出すか」
「言っただろ、見えたから来ただけだと」
 つまり、別に俺がこの煙草を吸おうが吸わないが、関係ないと言っているのか。
 女は立ち上がると、横にある店を無言で見つめた。その目は鋭く、なぜか悲しげだった。
 なんだよその顔。こんなところで働いているなんて、可哀そうな奴だと、同情でもしているのか?
 数秒ほどすると、女の視線は青星に戻った。その表情は何か言いたげだったが、特に何も言ってこようとしない。
「思っていることがあるなら、ハッキリ言えよ」
 こんないかがわしい店で、ガキが何をやっているのかと言いたいのだろう。軽蔑しているのだろ。それともあれか、良い大人ぶって、これから俺を叱ってやろうと身構えているのか? なんにせよ、迷惑だ。大人は自分の都合のいいようにしか生きない。いつだって、自分を守るのに必死だ。
――青星、あなたは何も悪くない。悪いのは全部、母さんよ。
 だったら、なんで俺を捨てたんだよ……。
「あんた、知ってるか? この世界に自分を売らないと生きていけない子供がどれだけいるのか」
 あれ。俺、知らない女相手に、何言ってんだろ。てか……なんかもう、怒り通り越して、哀しくもなってきた。ははっ。俺ってほんと、どうしようもないな……。
「ふっ。知るわけもないよな」
 俺は完全にいかれちまっているな。だったらもう、どうにでもなれ。あ、もう、どうでもなってんのか。
「あんたみたく、何不自由なく育った、生まれながらに全てを持っているような奴には分かるはずもない……!」
 そうだ、誰にも俺の気持ちは分からない。
「もううんざりなんだよこんな世界……!!」
 青星の瞳は、憎しみと怒りの色で染まり、行き場のない感情を、一体どこにやればいいのかと分からず苦しんで、心が泣いていた。
 天に祈るような気持ちで空を見上げると、こんな日に限って、空は満天の星だった。
 ああ……ほんと……あんまりだ……叶うなら、生まれ変わって、違う人生を歩みたい。別にお金持ちなんかじゃなくていい。そりゃ、あるにこした事はないけど。でも、小さなアパートでもいいから、優しい両親がいて、温かいご飯を食べて、柔らかい布団で寝られればそれでいい。星に願っても叶わないことくらいは分かっている。それでも、こんな俺でも、望むことくらいは許されるだろう……?
「分からんな。確かにお前の気持ちは私には分からん」
「っだったら……!」
「なぜなら、私たちはみな他人で、それはお前だけの痛みだからだ」
 っ……うるさい……綺麗事をぬかしやがって……!! 
「でもな、お前の願い全て、私が叶えてやる事は出来る」
「……え?」
「行くところがないなら、うちに来るといい。ただし、きっちり体で払ってもらうぞ」
 うちに来いだと……? なんなんだよこの女は……てか今! っ……こいつも、あいつらと同じかよっ……!
「おい! おまえっ……!!」
 一言いってやろうと、青星は女の背に声を荒げた。しかし、
「――えっ」
 雲に隠れていた月光が顔を出し、女を照らした。
 女の姿に青星は言葉を失った。全身の神経が痺れるように皮膚がうずき、脈は大きく波打ち、鼓動が速まった。
 女には、当たり前にあるはずのものがなかった。
 女はくるりと体を回転させ、こちらを向いた。そして、月よりも麗しく、儚い笑みを浮かべた。
「私は間宮梢子。両腕のない、ちょっとばかり、風変わりな小説家だ」

 月の下で微笑む女。それは美しくも、残酷な世界だった――。