「本当に授かってしまった」
鈴が体の異変に気が付いたのは、祭りの夜から二月(ふたつき)ほどが経ってからだった。もうすぐ嫁ぐ身であるというのにどうしよう――と鈴は思い悩んだ。

ことの始まりはほんの三月(みつき)前のこと、鈴の住む山間の村は、町と町をつなぐ交通の要所として栄えていた。鈴の家は村でもひときわ大きな家であったが、鈴の母が亡くなった後、父が惚れ込んで再婚した隣町の若い女は、財産を食いつぶす勢いで贅の限りを尽していた。
「悦子、少し贅沢を控えないと、このままでは家を売ることになってしまう」
 父親が嘆くと、継母である悦子はある提案をした。
「鈴さんを隣町の庄屋さんに嫁がせたらいいんですよ。嫁の実家となれば、いくらか援助してもらえるでしょう。ほら、以前商談の話をしにうちに来た時に鈴さんのことをいたく褒めてくださっていたではありませんか」
「とんでもない、鈴とは親子ほども年が離れているじゃないか。奥様もいらっしゃるのだし」
「あんなに立派なお屋敷に住まれているのだから、妾の一人や二人いたっておかしくありませんよ。私とあなただって、親子とまではいかないまでも年の差がありますし、鈴さんだって、あの火傷の痕では嫁の貰い手も困るところですよ。嫁ぎ先が決まれば安心です」
悦子はそう上機嫌に言ってから新しい反物をうっとりとした目で見つめた。
「どうですこの生地、私に似合うと思いません? さぁ、そうと決まれば庄屋さんに話を付けてこなくてはいけませんね」
「待て、まだ鈴の意見を聞いていないだろう?」
「あら、鈴さんは喜んで嫁いでくれるはずですよ。聞くまでもありませんわ。今のように家事に追われることもなくなるのだし、結婚してしまえば火傷のせいで行き遅れだと後ろ指をさされることもありませんよ。鈴さんのためです。ああ、これで新しい使用人も雇えるようになりますね」
 そう聞くと、父親もそう悪くない話なのではないかと思い始めた。
「そうだな、鈴にも幸せになってもらいたいと思っていたところだ。私も病勝ちでいつまで働けるかわからない。庄屋さんは裕福だし、妾になればそれなりの贅沢をさせてもらえるだろう」
悦子は気性が荒く、失敗をした使用人の爪を剥ぐなど容赦がなかった。おかげで家にいた多くの使用人は一人辞め、二人辞め、ついには誰もいなくなってしまったのである。そもそも、人を雇う金などこの家には残っていなかった。
 両親の間でこのような会話がなされているなど、いなくなった使用人の代わりに家事に追われていた鈴は知る由もなかった。
 初めて鈴が自分の縁談の話を聞いたのは、すっかり継母が庄屋との話を付けた後のことである。家のことを思えば、鈴には断ることが出来なかった。火傷のこともある。鈴の右手には、酷い火傷の痕があった。幼い頃、火に巻かれた狐を助けた時に残ったものだったが、鈴はわけあって幼い頃の記憶をなくしていた。
 この火傷の痕のせいで、嫁の貰い手がないかもしれないと父がずっと気にかけていてくれたことも知っていた。

 今夜は村の祭りである。父は役割があって出かけて行き、悦子も友人らと連れ立って祭りへと遊びに行っていた。父が悦子と再婚してから、鈴と同年代の若者は悦子を怖がり鈴とも距離を置くようになっていた。一人で祭囃子を聞くのは何度目になるだろう。
 この祭囃子を聞くと、ひどい頭痛がするのだ。ちょうど、母を亡くしたのがこの祭の日だったからだろう。遠くで聞こえる楽しそうな声は、鈴には縁遠いものであった。
 鈴の失われた記憶の中に、幼い頃に亡き母と祭りへ出かけたものがあった。幼い鈴には、祭りの日の夜はどこか幻想なものに見えたのだ。まるで、別の世界に迷い込んだかのようだと思った。山には狐が住むという。いつだったか、火傷をした狐を助けたことがあった。どこから火がついたのか、全身にまとわりつく白い炎に水をかけ火傷に油を塗ってやると驚いたような目でこちらを見てから逃げて行った。
 母に話すと狐のあやかしであったのではないかというのだ。こんなにもひどい火傷になったのは、その火が狐火であったからではないかとー―。
満月の夜には、花嫁を探しに人間の世界をうろついているのだと、母が寝物語に話してくれた。
『夜に森へ出かけると、狐に食べられてしまいますよ。そうなるとあやかしになって人間の世界には戻れなくなるのです』
 ぼんやりと母の言葉が頭に浮かぶ。母はなぜそんな話をしたのか、狐のこともすっかり忘れていた鈴は首を傾げた。
 でも……。
「あやかしに食われるのだとしても、もしも、ここから逃げてしまえるのなら……」
 嫁ぎ先の庄屋の評判は鈴の耳にも届いていた。裕福だがひどく気性の荒い悪い男だと聞く。以前家に訪れた際も、鈴のことを値踏みするような目で見てくるのが嫌だった。その妻も意地の悪い女だと、よいうわさは聞かなかった。そんな庄屋に嫁ぐくらいなら、山に住むというあやかしにでも食われた方がましかもしれない。そんな思いが頭を過る。
 薄暗い家の中で一人留守をしていた鈴は祭囃子に混ざって不思議な声がすることに気が付いた。
『来い、来い、こちらへ来い』
 誰のものともしれない声がする。直接頭の中に語りかけてくる声は、不気味なものではなく、どこか心地よかった。心なしか声のおかげで頭痛も和らいだような気がする。
『早く来い、祭りが終わる前に』
 鈴はなにかに導かれるように家を出ると、祭りとは逆の山へと足を進めた。声に導かれるままたどり着いたのは、山の中にポツンと立てられた神社だった。母と、一度だけ訪れたことがある。あの時は昼間だったから、今とは様子がだいぶ違った。
「来たな、人間の娘」
 暗がりのなかに、ぼんやりとした明かりが現れた。その中に、一人の美しい男が立っている。真っ白な髪に真っ白な肌。艶やかな白髪から、二本の狐のような耳が生えている。鈴は思わずその容姿の美しさに見とれてから、ようやく言葉を紡いだ。
「あ、あなたは……」
 形の良い目が狐のように細められる。男は大きな手を伸ばし、鈴の頬に触れた。優しいぬくもりが伝わってくる。
「私はこの社の主に仕えていたあやかし。鈴、おまえに呼ばれてきてやったのだ」
 男の言葉に困惑していると、男はそのまま鈴の体を抱きしめ言葉をつづけた。
「悪いが説明をしている時間がない。おまえに私の一部を託してやる、相性が良ければその腹に私の子が宿るはずだ。そうなれば、おまえのことを現世(うつしよ)から奪い去ってやろう」
 耳障りの良い男の声がしたかと思うと光がはじけ、腹部に温かなものを感じた。
『運が良ければまた会おう、鈴』
 男の声が頭の中に響く。気が付くと、鈴は薄暗い部屋の中にいた。転寝でもしていたのだろう。祭りも終わったようで、辺りはすっかり静かになっていた。

 それから一月の時が過ぎた。継母からの躾で食事をろくに取らない日もままあるせいか、月のものが遅れることは一度や二度ではなかったが、それでもここまで遅くなることはなかった。気のせいかもしれないが吐き気もある。食欲も今まで以上に減退していた。
 更に二月が経つ頃には、疑惑は確信に変わっていた。
「本当に、あの人の子を身籠ってしまったのだ」
 鈴がそうつぶやいたときだ。
「鈴さん、今何と言いましたか」
 思わず口をついた言葉を運悪く継母に聞かれてしまっていた。般若のごとく目を吊り上げた悦子は、鈴の頬を激しく叩いた。
「白状なさい! いったいどこで悪さをしてきたの! どこの誰の子です!」
 悦子が鈴の腹を蹴り上げようとするので、鈴は必死になって腹部を守る。
「神社の、神様のお子です」
「嘘を仰い! 大人しい顔をしておいて、そのようなこと……ただでなくともあなたは痣のある傷物なのに、庄屋様に知られたらせっかくの縁談が破談になるでしょう! 医者に行くのよ、早く堕ろしなさい!」
 頭の中に、男の優しい笑みが浮かぶ。頬に触れた優しい手も――。
「嫌です」
「なんですって!」
「嫌です」
「私に口ごたえをするなんて、赦しませんよ!」
 もう一度悦子が手を振り上げたとき、パンとその手をはじく音がした。
「私の妻に手をあげるなど、この私が赦さない」
 頬に感じるであろう痛みに耐えるため、堅く目を閉じていた鈴は、聞き覚えのある声にゆっくりと目を開けた。鈴の体を、祭りの夜に出会った男が優しく抱き寄せている。
「ど、どこから入り込んできたのです! 人を呼びますよ」
 男の容姿に見とれていたのだろう。一瞬言葉を失っていた悦子は、はっとして金切り声をあげた。
「誰でも呼んでくるがいい。戻ってきたころには私も鈴もここにはいやしないがな。鈴、迎えに来るが遅くなってすまなかった」
「そ、その娘は隣町に嫁ぐことが決まっているのですよ!」
「だがもう私の子を身籠ってしまったようだ。鈴は私がもらい受ける。鈴を妻として迎え入れる代わりに相応の見返りを支払うことを約束しよう」
 男がそこまで言うと悦子は目の色を変えた。突如として余所行きの声になる。
「そ、それは大変! この子は大事な娘ですから、それはそれは多くの支度金を用意していただかないと……嫁ぎ先にも詫びの品も用意しなければいけませんし……」
「言い値で支払う。黒虎(こくこ)、話を聞いてやれ」
 男がそう言うと、どこからともなく若い男が姿を見せた。
「あとは任せたぞ」
 男はそう言うと、鈴の体をひょいと抱き上げ、現れた竜巻の中に吸い込まれていった。