女とは不思議なもので、ひと月も経つと丹華にもすっかり我が子を慈しむ気持ちが芽生えていた。
 自分の胎内にはいとけなき命がたしかにいて、自分はこの子を護らなければならない――。その感情は本能めいていて、ある種の使命感にも似ていた。

(亡くなったお母様も、わたしを身籠った時はこんな気持ちだったのかしら)

 まだ膨らむ気配すらない腹に手を当てると、なんとも言えない幸せとあたたかさが湧いてくる。
 だが同じ頃から、丹華は毎夜ある夢に悩まされるようになった。


 その夜も、丹華は夢を見ていた。いつものあの夢だ。
 天も地もすべてがただ真っ白な空間に、小さな光がひとつ、ぽつんと浮かんでいる。

 ――こわい。おそとがこわい。

 光はぶるぶると自身を小刻みに震わせ、何かに怯えているようだった。

「大丈夫、怖くないわ。こっちへおいで」

 丹華は光へ向かって両手を差し出し呼びかける。見るからに臆病そうなその光を驚かさないよう、できるだけ穏やかな声で。
 けれど光はじっとその場にとどまったまま、「おそとがこわい」と繰り返す。

「何をそんなに恐れているの?」

 ――おそとはいつも、だれかがないたりおこったりするこえがきこえてくるから。

 弱々しい声が悲鳴のような耳鳴りに変わる。 次の瞬間、丹華はハッとして跳び起きた。

 そこはいつもの香華宮の臥房。全身にびっしょりと汗をかいていて、それが外気に触れると途端に身体が冷えた。吐く息はほんのり白く、まだ夜は明けはじめたばかりだった。

「丹華さま、最近あまり寝ておられないのでは? ご体調もすぐれないようですし……」
「ええ、その、少し」

 結局、ふたたび寝付くことができないまま朝を迎えてしまった。
 夜着からの着替えを手伝う詩詩が、あたたかい布で身体を拭ってくれたおかげで少し気分が和らいだ。しかし顔を洗おうと覗き込んだ水盆に映る自分は、目の下に隈ができてしまっていた。ここのところ、食欲も落ちている。

「人間ならご誕生まで十月十日、予定日は初夏の頃になるんでしょうけど……。神さまの子っていうのは一体どれくらいで生まれるものなんですかねえ?」

 詩詩は物言いたげな表情でちら、と窓辺を見る。
 そこに立っているのは相変わらず毎日通ってくる煌炎だ。曇り空からにじみ出るわずかな陽光が、端正な横顔を輝かせていた。

「時が満ちれば生まれる」

 静かにひと言。あまりに抽象的な回答だったので詩詩は憤慨する。

「そんなふわっとした見込みでは困ります! 産婆の手配! 祈祷師による安産祈願! その他諸々の準備はどうするんです!? そもそもそれらすべては六局を通じて主上の裁可が必要です!」
「『時が満ちる』というのは、その子自身が生まれたいと願った時だ。今すぐと思えば明日にでも。そうでなければ――私にもわからない」

 煌炎の秀眉がわずかに歪んだ。この男がわからないと言うのだから、本当にわからないのだろう。

「ま、まさか五年や十年とは言わないですよね!? あまり長々と胎に居座られては丹華さまのお身体に障ります!」
「それは私も危惧している。神の力を宿せば丹華に負担となるのは間違いないのだから」
「だったらなおさら早く生まれてもらわないと――」
「――生まれたいと、思ってくれるでしょうか」

 ぽろりと漏れた丹華の言葉に、詩詩の口舌が止まった。一度口にしてしまうと、焦燥は堰を切ったようにあふれ出してくる。

「わたしと煌炎さまの子は、この地に生まれたいと望んでくれるでしょうか。だって、緋祥国は今、決してよい状態とは言えません……。ここ数年の不作で民は苦しんでいます。それなのに、わたしたち禁城に住まう者は民の声に耳を塞ぎ、贅沢な暮らしを続けているから……」

 ――おそとがこわい。

 毎夜、夢の中で丹華に不安げに訴えかけてくる声。それは、この身に宿る赤子のものなのではないか――。根拠などなかったが、丹華はそう確信していた。
 だから怖くなった。煌炎に愛されてのぼせるあまりに、この国の現状を忘れかけていたことに。民の助けになればと思った麦の件だって結局実現しないまま。こんな状況で、どうして胸を張って「安心して生まれておいで」とわが子に言えるだろう。

 丹華はおずおずと煌炎を見上げた。彼の神秘の瞳を見れば、不安や迷いはいつも払拭された。――しかし。

「そうだな」

 しかし、煌炎から返ってきたのは肯定の相づちで。突き放すような短い答えは、丹華に二重の衝撃をもたらした。
 煌炎が、この国の窮状を否定しなかったこと。そして、彼に「そんなことない」と慰められることを期待していた自分自身に。

 煌炎はいつになく深刻な面持ちで目を瞑る。そして少しの沈黙の後、こう言い放った。

「丹華。私はこの国を一度滅ぼそうと思っている」

 庭でさえずる小鳥たちの声が止まった。炎のごとく燃える煌炎の後ろ髪を、冬の風がざわりと揺らした。

「天子は民を顧みず、民は大地への祈りを忘れた。祈りなき者に神は恩恵を与えない。まあ、このままでは遠からず滅びを辿るだろうと思っていたが……。私の番とその子供にとって害となるなら、無駄に永らえさせる意味もない」
「ほろ……ぼす?」
「一度すべてを灰塵(かいじん)に還し、新たに国を興せばよいのではないか? そして丹華、お前が王となればいい」

 ひゅ、と丹華の呼吸が詰まった。
 この時はじめて、丹華は煌炎が「神」であり、人とは異なる高みに生きる存在なのだとはっきり知った。この国は失敗作で、上手くいかなかったからもう用済みだ――。そう宣告されたように感じた。

「そんな……煌炎さまがそんなことをおっしゃるはずがないわ! 煌炎さまは、鳳凰さまは慈悲深いかたで……、誰よりも人を愛していらっしゃるもの!」

 これまで丹華に注がれた煌炎の愛情。それは丹華をひとりの女として愛するものであると同時に、もっと深く、もっと大きな――人という種そのものへの愛だった。
 懇願めいた丹華の叫びに、煌炎は静かにひとつ頷く。

「そうだよ。私は人が好きだ。限られた生を懸命に生きる人の子の営みを愛しいと思っている」
「ならどうして――!」
「もうどれくらい昔のことだったか――。この国の祖である男は、私にこう言った。『誰も飢えることのない国を作りたい』と。私はその願いを叶え、この地に実りをもたらした。天子が誓いを違えず、人の子が祈りと共に生きる限り、枯れることのない恵みを」

 しかし今、この国の恵みは枯れつつあった。
 それは、人が煌炎との約束を忘れてしまったから。

「だから私は今のこの国の状態が――とても悲しい」

 煌炎の五色の瞳は、たしかに悲しみを帯びていた。彼の言葉はこの上なく誠実で、そこには一切の嘘がなかった。
 この神は人間を愛している。愛しているからこそ、失望しているのだ。

 丹華はひどく打ちのめされた。彼の苦しみは、人間である自分には到底推し量れないものなのだと知って。
 煌炎はゆっくりとした歩みでこちらへ近付き、今にも泣き出しそうな丹華の頬に触れる。その指先はいつものように慈愛に満ちて優しかった。

「丹華――私の悲しみを、お前が癒した。生まれ落ちた瞬間から今この時まで、汚れなく美しいお前の心を、私は愛した。だからお前を脅かす者を私は憎むし、私にとってはこの国のあらゆる命よりお前の命の方が重い」
「そ、それでも、滅ぼすだなんて……! 国とは民です。民のいない地に玉座を置いたとて、それになんの意味がありましょう!」
「丹華」

 煌炎が丹華の右手を取り、手中に何かを握らせた。それは以前、丹華が庭に埋めたはずのあの宝石。鳳凰の心臓であるという真紅の宝玉だった。

「愛しているよ。――少し考えさせてくれ」

 ふわりと羽根のような口付けが丹華の額に触れて――次の瞬間、煌炎は一羽の鳥(ピーちゃん)に姿を変えた。

 かつて丹華に恵みを運んだ赤い鳥は、そのまま香華宮の窓から薄曇りの空へ飛び去ってしまった。