◇
次の日の午後、丹華は李侍郎に会うため大蓮池に向かっていた。
この後宮は正門をくぐってすぐに巨大な池があり、池の中ほどにいくつか両岸から橋の架けられた小島がある。一部の人間はその小島まで立ち入ることができるので、そこで李侍郎と面会の約束をしていた。
李侍郎に見せるための麦穂の束を抱え詩詩を連れて歩いていると、途中できらびやかに装った妃嬪のひとりとすれ違う。
「あの女、なんで草を抱えてるのかしら」
「長公主は庭に植えられた木の根まで食すような悪食だそうですよ」
「ああいやだ……あまり近づくと嫁き遅れの呪いがうつるわよ」
年若い妃は侍女たちと目配せし合ってけらけら笑った。皇姉の丹華の方が序列は上であるのに、頭を下げることすらしない。どうせいつものことだ、と丹華はいちいち怒る気も起きなかった。
「丹華さまはちょっと好奇心が強くてなんでも煮て食べてみようとするだけで悪食ではありません!」
地団駄を踏む詩詩をどうにか落ち着かせ、先を急いだ。
池にかかる石橋を渡ると小島の中心に四阿がある。黄金の鳳凰像が飾られた屋根の下に、やや太り気味の男の背中が見えた。
「ごきげんよう、李侍郎」
声をかけると、李侍郎は鞠のように四阿から飛び出してきて文官の作法で拱手礼をした。大きなお腹がつかえているせいでなんだか苦しそうに見える。
「お待たせしてしまったかしら?」
「とんでもないことでございます。さあさあ、どうぞ中へおかけください。香りのよい蜜花茶を持ってまいりました」
麦の話は、と思ったけれど、せっかくの厚意を無下にするのも気が引けたので黙って座った。
李侍郎の丸々とした手で黄金色の茶が注がれ、梔子花のような甘い香りが辺りに漂う。白磁の茶杯が丹華の前に差し出されると、後ろに控えていた詩詩がそれを取り上げひとくち飲んだ。毒見である。
「お気を悪くなさらないでね。習慣みたいなものだから」
「長公主さまともあればお口に入れるものまで気を配られるのは当然です」
李侍郎は笑って同じ茶壺から淹れた茶を飲んだ。詩詩の確認を待ってから丹華も色と匂いを確かめ、口をつける。上等な蜜花茶らしくかなり甘みが強い。一杯飲み終えてようやく、丹華は本題を切り出した。
「李侍郎、文にも書いた通り今日こうしてあなたに来ていただいたのは――」
「そう焦らずにもう一杯どうぞ」
李侍郎は互いの杯にお代わりを注ぎ、それから声の調子を少し落とした。
「長公主、今回のお話は内政にも関わることです。できればふたりきりでお話したいのですが……」
「わかりました。詩詩、あなたは下がっていて」
「ですが……」
「ここは見通しがいいし、あちらの岸にある柳のあたりからならここがよく見えるわ」
この小島には視界を遮る木もないし、反対の岸には門を守る兵士がいる。詩詩もしぶしぶ納得して橋を戻っていった。
「ねえ、この穂をご覧になって。蔵書楼で調べたのだけど、この麦はうちの国で一般的なものとは種類が違うみたいで――」
机上に麦穂や地図やらを広げて、ふたりは話し合いはじめた。ところが長々と話し込んでいるうちに、次第に丹華の身体は奇妙な違和感を訴え出す。
「お顔が赤くなっておられます」
「ええ、ごめんなさい。なんだか少し、熱いわ……」
動悸がする。頭がくらくらする。熾火のような熱が身体の奥でくすぶり、思考が霞む。額にじっとり汗がにじんで、立ち上がろうとした丹華はふらついてしまった。
倒れかけた身体を李侍郎の両腕ががっちりと受け止めた。丹華がぼんやりした目線で見上げると、彼自身も額から汗を滴らせ、熱っぽい目でこちらを見ていた。
「大丈夫ですよ。ほんの少量の媚薬です」
「……まさか……お茶に……!?」
「遅効性のものですし、ひと口舐めただけの侍女のかたには影響しないはずです。三杯飲んだ私にはよく効いておりますが……ふひ」
生暖かい息が頬にかかって不快感に顔をしかめた瞬間、丹華は四阿の床に押し倒された。
「きゃっ! な、何を……っ」
小島には見通しを遮るものは何もないが、四阿は背もたれのある長椅子がぐるりと巡らされている。これでは丹華の姿が外からは見えないかもしれない。
「ふふひ、この細腕で私のためにあの情熱的な恋文をしたためていらしたのかと思うと、興奮で胸が張り裂けそうです」
(恋文? 何を言っているの……!?)
鼻息荒くのしかかられ、丹華は混乱した。
たしかに何度かこの男宛てに文は書いた。だが、その内容は今回の相談に関することだけで何も色っぽいところなどない。それが何をどうしてだか、彼の中で丹華と自分は相愛の仲であると認識されているようだった。
「尊き御身であるあなたと平民の私が夫婦となるためには、平素とは異なる順序でことを進める必要があるのです。――既成事実を先に作ってしまえば、主上も我々の仲を認めざるを得ない」
「!?」
この男が何をしようとしているのかを察して丹華は震え上がった。頭上で押さえつけられた左手が、母の形見である金細工の簪に触れた。
迷う暇などない。丹華は簪を頭から抜き取ると、渾身の力で李侍郎の腕に突き刺した。
「ぐあああっ!」
痛みで男がのけ反りひるんだ隙に、今度は思い切り急所を蹴り上げる。
李氏はうめき声すらあげられず、もんどり打って倒れた。丹華はなんとか震える足で立ち上がり、後宮側にかかる橋へと逃げ出した。
「詩詩……! 詩詩は……!?」
思い切り叫んだつもりなのに、喉から出たのはかすれ声。詩詩がいるはずの柳の岸辺を見るも、そこには誰の姿もなかった。まさか、詩詩の身にも何かあったのか――。
(だめ……何も、考えられない)
冷静な思考は媚薬の熱に阻まれる。あともう少し逃げ出すのが遅かったら、自ら望んで李侍郎に身を差し出していたかもしれない。
丹華は腿にまとわりつく裙の裾をたくし上げ、がむしゃらに走った。香華宮に逃げ帰ってはすぐに居場所が割れてしまう。この恐ろしい媚薬が身体から抜けきるまで、誰にも会うわけにはいかなかった。
もつれて何度も転びかけながら走って走って、木々をくぐり梧桐の落ち葉を踏み分けた末に、どうにかたどり着いたのは後宮の北のはずれ、棲鳳宮だった。
「身を、隠さなきゃ……」
息も切れ切れに、おぼつかない足取りで堂の軒下まで歩く丹華の後ろを、集まってきた小鳥たちが心配そうについてきた。
「お願い、開けて。お願い。中に入れて……!」
弱々しい吐息で神に哀訴し、ただ助かりたい一念で両開きの扉を叩いた。棲鳳宮は常に締めきられているので丹華は中に入ったことがない。それでももう、他に逃げ場がなかった。
『ようやく私の番になる覚悟ができたということか?』
その時突然、強烈な光が扉からあふれた。丹華はまぶしさに耐えきれず目を瞑る。
目蓋に焼きつくほどの光量が弱まって恐る恐る目を開けると、いつの間にか見知らぬ場所にいた。
どうやら室内らしい。朱塗りの高い格子天井から珊瑚の珠簾が幾重にも吊り下がり、床は鏡のように磨かれた大理石。ふと前を見れば、皇帝の玉座とも見紛う翡翠を彫り込んだ椅子に、ひとりの男が座っている。
長く豊かな金の髪。ゆるく束ねられた先だけが、炎のように赤く揺らめいている。五色の糸で唐花文を縫い取った、鮮やかな緋色の衣を纏っている。あまりに神々しく、あまりに美しい男だった。
男は長い脚を組んだまま、床に座り込んでいる丹華を極上の笑顔で見下ろした。
「うれしいよ丹華。この日を指折り数えて待ったかいがあったというものだ」
「ここは……? あなた、どなた……?」
丹華の反応に男は黄金のまつげをぱちくりさせたが、「ふむ? そういえばこの姿で言葉を交わしたことはなかったかもしれないな」と掛けていたから椅子から立ち上がる。孔雀の尾羽のように後方に垂らされた虹色の内裳の裾が、男の動きに合わせてしゃらりと音を立てた。
「ここは棲鳳宮。私は鳳凰――真の名を翺翔瑞君・煌炎という」
「鳳凰……煌炎、さま?」
「他ならぬお前だから許していたが、神鳥たる鳳凰に向かって『ピーちゃん』などという不敬な呼び名はどうかと思うぞ」
煌炎と名乗った男は、大袖をひるがえして丹華の前に片膝をついた。差し出された手を取ると、丹華の心臓はひときわ大きく跳ねる。まるで、歓喜にむせぶかのごとく。
「ひどく熱いな」
気遣うような声音で煌炎が頬を撫でた。触れられた箇所がカッと熱を持ち、同時に丹華の心に深い安堵を運んでくる。
(ああ、わたし、何度もこんな風に彼に触れられたことがあるわ……夢の中で)
脳髄に響く甘い声。優しく長い指。こちらを見つめる瞳の、夜光貝の螺鈿を思わせる遊色の光。そのどれもを、丹華の魂は知っていた。
「薬を、盛られたの。媚薬を……」
丹華は震える手で煌炎の交領の襟を掴んだ。大きな目を涙で潤ませ、いくつもの色が揺れて混じり合う彼の神秘の瞳を見た。
「ピーちゃん……煌炎、さま。おねがい、助けて……」
はしたない願いだとわかっていた。しかし不思議と迷いや不安はなく、こうなることが運命だったのだとすら思えた。
答えの代わりに返ってきたのは包み込むような抱擁。煌炎は丹華の前髪をかき上げ、露わになった額に唇で触れた。水鳥の羽毛にも似た、軽やかな口づけだった。
「案ずるな。優しく優しく抱いてやろう」
煌炎が微笑む。丹華を横抱きにしたまま、少しの重みも感じさせることなくふわりと立ち上がった。
あたたかく逞しい腕の中で雛鳥のように慈しまれて、丹華はその日、神の寵を得た。
次の日の午後、丹華は李侍郎に会うため大蓮池に向かっていた。
この後宮は正門をくぐってすぐに巨大な池があり、池の中ほどにいくつか両岸から橋の架けられた小島がある。一部の人間はその小島まで立ち入ることができるので、そこで李侍郎と面会の約束をしていた。
李侍郎に見せるための麦穂の束を抱え詩詩を連れて歩いていると、途中できらびやかに装った妃嬪のひとりとすれ違う。
「あの女、なんで草を抱えてるのかしら」
「長公主は庭に植えられた木の根まで食すような悪食だそうですよ」
「ああいやだ……あまり近づくと嫁き遅れの呪いがうつるわよ」
年若い妃は侍女たちと目配せし合ってけらけら笑った。皇姉の丹華の方が序列は上であるのに、頭を下げることすらしない。どうせいつものことだ、と丹華はいちいち怒る気も起きなかった。
「丹華さまはちょっと好奇心が強くてなんでも煮て食べてみようとするだけで悪食ではありません!」
地団駄を踏む詩詩をどうにか落ち着かせ、先を急いだ。
池にかかる石橋を渡ると小島の中心に四阿がある。黄金の鳳凰像が飾られた屋根の下に、やや太り気味の男の背中が見えた。
「ごきげんよう、李侍郎」
声をかけると、李侍郎は鞠のように四阿から飛び出してきて文官の作法で拱手礼をした。大きなお腹がつかえているせいでなんだか苦しそうに見える。
「お待たせしてしまったかしら?」
「とんでもないことでございます。さあさあ、どうぞ中へおかけください。香りのよい蜜花茶を持ってまいりました」
麦の話は、と思ったけれど、せっかくの厚意を無下にするのも気が引けたので黙って座った。
李侍郎の丸々とした手で黄金色の茶が注がれ、梔子花のような甘い香りが辺りに漂う。白磁の茶杯が丹華の前に差し出されると、後ろに控えていた詩詩がそれを取り上げひとくち飲んだ。毒見である。
「お気を悪くなさらないでね。習慣みたいなものだから」
「長公主さまともあればお口に入れるものまで気を配られるのは当然です」
李侍郎は笑って同じ茶壺から淹れた茶を飲んだ。詩詩の確認を待ってから丹華も色と匂いを確かめ、口をつける。上等な蜜花茶らしくかなり甘みが強い。一杯飲み終えてようやく、丹華は本題を切り出した。
「李侍郎、文にも書いた通り今日こうしてあなたに来ていただいたのは――」
「そう焦らずにもう一杯どうぞ」
李侍郎は互いの杯にお代わりを注ぎ、それから声の調子を少し落とした。
「長公主、今回のお話は内政にも関わることです。できればふたりきりでお話したいのですが……」
「わかりました。詩詩、あなたは下がっていて」
「ですが……」
「ここは見通しがいいし、あちらの岸にある柳のあたりからならここがよく見えるわ」
この小島には視界を遮る木もないし、反対の岸には門を守る兵士がいる。詩詩もしぶしぶ納得して橋を戻っていった。
「ねえ、この穂をご覧になって。蔵書楼で調べたのだけど、この麦はうちの国で一般的なものとは種類が違うみたいで――」
机上に麦穂や地図やらを広げて、ふたりは話し合いはじめた。ところが長々と話し込んでいるうちに、次第に丹華の身体は奇妙な違和感を訴え出す。
「お顔が赤くなっておられます」
「ええ、ごめんなさい。なんだか少し、熱いわ……」
動悸がする。頭がくらくらする。熾火のような熱が身体の奥でくすぶり、思考が霞む。額にじっとり汗がにじんで、立ち上がろうとした丹華はふらついてしまった。
倒れかけた身体を李侍郎の両腕ががっちりと受け止めた。丹華がぼんやりした目線で見上げると、彼自身も額から汗を滴らせ、熱っぽい目でこちらを見ていた。
「大丈夫ですよ。ほんの少量の媚薬です」
「……まさか……お茶に……!?」
「遅効性のものですし、ひと口舐めただけの侍女のかたには影響しないはずです。三杯飲んだ私にはよく効いておりますが……ふひ」
生暖かい息が頬にかかって不快感に顔をしかめた瞬間、丹華は四阿の床に押し倒された。
「きゃっ! な、何を……っ」
小島には見通しを遮るものは何もないが、四阿は背もたれのある長椅子がぐるりと巡らされている。これでは丹華の姿が外からは見えないかもしれない。
「ふふひ、この細腕で私のためにあの情熱的な恋文をしたためていらしたのかと思うと、興奮で胸が張り裂けそうです」
(恋文? 何を言っているの……!?)
鼻息荒くのしかかられ、丹華は混乱した。
たしかに何度かこの男宛てに文は書いた。だが、その内容は今回の相談に関することだけで何も色っぽいところなどない。それが何をどうしてだか、彼の中で丹華と自分は相愛の仲であると認識されているようだった。
「尊き御身であるあなたと平民の私が夫婦となるためには、平素とは異なる順序でことを進める必要があるのです。――既成事実を先に作ってしまえば、主上も我々の仲を認めざるを得ない」
「!?」
この男が何をしようとしているのかを察して丹華は震え上がった。頭上で押さえつけられた左手が、母の形見である金細工の簪に触れた。
迷う暇などない。丹華は簪を頭から抜き取ると、渾身の力で李侍郎の腕に突き刺した。
「ぐあああっ!」
痛みで男がのけ反りひるんだ隙に、今度は思い切り急所を蹴り上げる。
李氏はうめき声すらあげられず、もんどり打って倒れた。丹華はなんとか震える足で立ち上がり、後宮側にかかる橋へと逃げ出した。
「詩詩……! 詩詩は……!?」
思い切り叫んだつもりなのに、喉から出たのはかすれ声。詩詩がいるはずの柳の岸辺を見るも、そこには誰の姿もなかった。まさか、詩詩の身にも何かあったのか――。
(だめ……何も、考えられない)
冷静な思考は媚薬の熱に阻まれる。あともう少し逃げ出すのが遅かったら、自ら望んで李侍郎に身を差し出していたかもしれない。
丹華は腿にまとわりつく裙の裾をたくし上げ、がむしゃらに走った。香華宮に逃げ帰ってはすぐに居場所が割れてしまう。この恐ろしい媚薬が身体から抜けきるまで、誰にも会うわけにはいかなかった。
もつれて何度も転びかけながら走って走って、木々をくぐり梧桐の落ち葉を踏み分けた末に、どうにかたどり着いたのは後宮の北のはずれ、棲鳳宮だった。
「身を、隠さなきゃ……」
息も切れ切れに、おぼつかない足取りで堂の軒下まで歩く丹華の後ろを、集まってきた小鳥たちが心配そうについてきた。
「お願い、開けて。お願い。中に入れて……!」
弱々しい吐息で神に哀訴し、ただ助かりたい一念で両開きの扉を叩いた。棲鳳宮は常に締めきられているので丹華は中に入ったことがない。それでももう、他に逃げ場がなかった。
『ようやく私の番になる覚悟ができたということか?』
その時突然、強烈な光が扉からあふれた。丹華はまぶしさに耐えきれず目を瞑る。
目蓋に焼きつくほどの光量が弱まって恐る恐る目を開けると、いつの間にか見知らぬ場所にいた。
どうやら室内らしい。朱塗りの高い格子天井から珊瑚の珠簾が幾重にも吊り下がり、床は鏡のように磨かれた大理石。ふと前を見れば、皇帝の玉座とも見紛う翡翠を彫り込んだ椅子に、ひとりの男が座っている。
長く豊かな金の髪。ゆるく束ねられた先だけが、炎のように赤く揺らめいている。五色の糸で唐花文を縫い取った、鮮やかな緋色の衣を纏っている。あまりに神々しく、あまりに美しい男だった。
男は長い脚を組んだまま、床に座り込んでいる丹華を極上の笑顔で見下ろした。
「うれしいよ丹華。この日を指折り数えて待ったかいがあったというものだ」
「ここは……? あなた、どなた……?」
丹華の反応に男は黄金のまつげをぱちくりさせたが、「ふむ? そういえばこの姿で言葉を交わしたことはなかったかもしれないな」と掛けていたから椅子から立ち上がる。孔雀の尾羽のように後方に垂らされた虹色の内裳の裾が、男の動きに合わせてしゃらりと音を立てた。
「ここは棲鳳宮。私は鳳凰――真の名を翺翔瑞君・煌炎という」
「鳳凰……煌炎、さま?」
「他ならぬお前だから許していたが、神鳥たる鳳凰に向かって『ピーちゃん』などという不敬な呼び名はどうかと思うぞ」
煌炎と名乗った男は、大袖をひるがえして丹華の前に片膝をついた。差し出された手を取ると、丹華の心臓はひときわ大きく跳ねる。まるで、歓喜にむせぶかのごとく。
「ひどく熱いな」
気遣うような声音で煌炎が頬を撫でた。触れられた箇所がカッと熱を持ち、同時に丹華の心に深い安堵を運んでくる。
(ああ、わたし、何度もこんな風に彼に触れられたことがあるわ……夢の中で)
脳髄に響く甘い声。優しく長い指。こちらを見つめる瞳の、夜光貝の螺鈿を思わせる遊色の光。そのどれもを、丹華の魂は知っていた。
「薬を、盛られたの。媚薬を……」
丹華は震える手で煌炎の交領の襟を掴んだ。大きな目を涙で潤ませ、いくつもの色が揺れて混じり合う彼の神秘の瞳を見た。
「ピーちゃん……煌炎、さま。おねがい、助けて……」
はしたない願いだとわかっていた。しかし不思議と迷いや不安はなく、こうなることが運命だったのだとすら思えた。
答えの代わりに返ってきたのは包み込むような抱擁。煌炎は丹華の前髪をかき上げ、露わになった額に唇で触れた。水鳥の羽毛にも似た、軽やかな口づけだった。
「案ずるな。優しく優しく抱いてやろう」
煌炎が微笑む。丹華を横抱きにしたまま、少しの重みも感じさせることなくふわりと立ち上がった。
あたたかく逞しい腕の中で雛鳥のように慈しまれて、丹華はその日、神の寵を得た。