回想1
隣を歩く華奈は、今日も眠そうな目をしていた。疲れが溜まっているのだろう。それに、今日は模試の日だ。長時間の模試を初めて受ける華奈が疲労するのも無理はない。
駅からの帰り道、歩いている彼女の背中に夕陽が差し込み、彼女の髪が鮮やかに照らされる。
それを見ていた。見惚れていたのかもしれない。物事が起こる時に、予兆なんてない。
「東弥(とうや)はさ――」
振り返った彼女の声に相槌を打とうとした瞬間のことだった。
危ない、そう思った時には遅かった。彼女の数メートル先に、大きなトラックが迫ってきていた。
体が硬直し、足が動かなくなる。声を上げることもできなかった。
手を伸ばすが、その手が彼女に届くことはない。
大きなクラクションの音と、彼女の表情だけが記憶に残っている。
彼女はその日、僕の目の前で、信号無視をしたトラックに撥ねられた。
ーーーーー
現在2
何度も目をこすって凝視するが、目の前にいるのは華奈で間違いなかった。間違うはずがない。けど……信じられない。
だって、岬華奈はあの時死んだから。
「……かな」
もう一度、彼女の名前を呼ぶ。声がうまく出せなかった。喉の奥が詰まり、声が掠れる。華奈は、僕のことに気がつかない様子で空を眺めていた。
「華奈」
震える足で彼女に近づき、もう一度呼ぶ。反応なし。
「聞こえてないのか? なあ、華奈」
声を張り上げ、彼女の肩をつかもうとした瞬間。
目を疑う。伸ばした手のひらは、彼女の肩に触れることなく――彼女の体を突き抜けた。
「……は?」
僕は慌てて引き戻した自分の掌と華奈の姿を交互に見つめる。
一度深呼吸をし、もう一度、彼女の体に手を伸ばす。
当たらない。華奈の姿は見えているのに掴めない。雲に手を突っ込んだみたいに、彼女の体の中を通り抜ける。
何度やっても僕の手が華奈に触れることはかなわず、僕は震える手をゆっくりと引っ込めた。
「何……これ」
一度収まった冷や汗が、再度噴き出す。
立ち尽くす僕の前で、華奈が首を下ろす。こっちを振り向いて、話しかけてくれることを期待した。
が、彼女は目の前にいる僕に見向きもせず、そのまま。
幽霊のように僕の体をすり抜け立ち去った。
どうなっているのだろう。この体はどうしてしまったんだろう。
心音が身体中に響いている。ずっと動悸が収まらない。
目の前で人身事故が起こった。
気づけば地元の駅にいた。
華奈が生きていた。
華奈に触れられなかった。
分からない。自分に起こっている現象を理解できない。
とぼとぼと歩き、近くの公園に足を踏み入れる。日が落ちて、辺りは照明に照らされていた。
緑に囲まれた空間に、少しだけ心が弛緩する。
この静かな公園は、あの頃小説を読むための場所だった。
端にベンチが設置されている。そうだ、ここでいつも本を読んでいた。ここに座れば緊張から一気に解放されるだろうか、そう思いベンチに腰を下ろす、ことはできなかった。
「えっ」
足の力を緩め、重心を後ろに持っていった僕の体はそのまま地面に落ちていった。
驚きが全身を走り、声が出なかった。
急に椅子を引かれた時のような形で尻餅をつく。けど、椅子がなくなったわけじゃない。薄暗い中、僕の目の前にベンチの裏側が見えていた。
声にならない声を出し、僕は少し汚れた背もたれの裏を見つめる。
さっき華奈が体を通り抜けた時の感覚を思い出す。
華奈は、その場に僕がいることに全く気づかず、僕の体をすり抜けて行った。そこで違和感に気づく。華奈は制服を着ていた。あの時のまま。
いつものように少しだけ着崩した制服姿。
自分の姿を確認する。今朝着たスーツにビジネスバッグ。社会人の格好だ。
ここへ来るまでの間、考えていた。
華奈が幽霊かもしれないという可能性。けど。
僕を見下ろすように存在するベンチを見て思う。華奈が幽霊なのだとしたら、この状況はどう説明する。そうか。
僕の方か。おかしいのは僕なのか。
もし華奈がまだ、死んでいないのだとしたら。
もしこの場所が過去で、僕が何らかの影響でこの場所にいるのだとしたら。
頭の奥に微かな光が走る。何かを思い出しそうで、頭を抱える。なんだ。
僕がそれを思い出すより前に、その考えが正しいことを示す証拠を見せつけられる。
「……大丈夫ですか」
上から降り注ぐ声に、本日数度目になる体の硬直をおぼえた。
聞き覚えのある声。少し違和感はある。けど、人生で一番多く聞いているその声。
見上げると、僕が――高校の制服に身を包んだ吾妻東弥(あずまとうや)が、不可解な状況を見つめる目で僕のことを見下ろしていた。
「あ……はい……大丈夫です」
かろうじてそう返すと、トウヤは少し首を傾げ、奇妙な表情をしたままその場を後にした。
僕は彼の後ろ姿を目に収めながら、深いため息をついた。
「ほんと、なんなんだよ」
小さく漏れた嘆きは、闇に溶けていく。
トウヤがいなくなり、公園には僕一人。静寂が広がっていた。
起き上がろうと腕に力を入れた瞬間、体に異変を感じた。
急に体が軽くなった気がするのだ。体の粒子が細かくなって空気に溶けていくような感覚に包まれた。
徐々に意識が薄れていく。まどろみのような浮遊感を感じながら、僕は思う。
もしかして、この奇妙な時間が終わるのだろうか。
ーーーーー
過去2
僕が最初に岬華奈(みさきかな)を知った時、彼女は本屋近くのベンチに座って泣いていた。確か高校二年の春のことだった。彼女の細い足の上で眠っていた猫の背に、桜の花びらがついていたのを覚えている。
正確に言うと、一年の時も同じクラスだったから彼女のことを知ってはいたのだが、周りの人間にたいして興味を持っていなかった当時のぼくにとって、ただのクラスメイトとしてではない存在として彼女を知ったのはその瞬間だった。
それほど衝撃的な瞬間だった。
目を奪われた。涙に濡れた彼女の丸い瞳は、激情に溢れていた。何かを噛み殺しそうなその目。昔飼っていた犬の餌を横取りした時に見せた――悔しさと怒りが混ざったような感情が彼女の目から読み取れた。
心が縮こまるような恐怖を感じ、話しかけることはできなかった。
同時に、なんて綺麗な泣き顔だろうと思っている自分がいた。
しばらくの間その場に立ち止まり、不躾にも彼女の様子を眺めてしまっていた。
彼女が目元を拭い立ち上がるのを見て、僕は慌ててその場を後にした。
その日、自宅に帰って眠りにつくまで、彼女のその顔が頭にこびりついて離れなかった。
容姿が良いだけの変わり者という認識でしかなかった彼女のことを目で追うようになったのはその日からだ。
その頃の僕は部活動をすることもなく、放課後は友達と教室で時間を潰したり、帰り道にある本屋で好きな小説を買い、家の近くの公園で読書をするという生活を繰り返していた。
学校で課される勉強は人並みにこなし、クラスの友達とだべったり帰りに買い食いをして、帰宅後は自分の趣味の時間に活用する。そんな習慣化された日常は、面白みがないのと同時にある程度は心地良かった。
何かに夢中になることはなかった。それは、人に対してもそうだった。
僕は小中高と普通に生活をしてきて「尊敬する誰か」に出会ったことがなかった。
大人は自分ができない大抵のことは簡単にこなすし、クラスでも勉強やスポーツなど全てのことにおいて自分より優秀な人はたくさんいた。テレビで見る同世代の人間に、自分と比べ物にならない人は数えきれないくらいいた。
もちろん彼らのことをすごいと思うことはあったが、それでも敬ってはいなかった。
それどころか、クラスの優等生やテレビで何かに打ち込んでいる人を嫌悪し、馬鹿にしている節まであった。そんなふうに何かに夢中になったところで、全員が全員何かを為せる訳じゃないし、テレビは選ばれた人だけを取り上げるから、そんな人達がみんな成功しているのは当たり前だ。だから、自分はそんなふうに生きられないと思うと同時に、どうしてわざわざそんなにしんどい生き方をするのだろうと彼らを見下していた。
それはたぶん、自分の生き方が楽だと知っていたからだ。与えられたハードルをそれなりに超えていき、あとは何も考えないで生きる。そういう生き方をしている人が大半だし、その中に紛れ込んで過ごすのは簡単だった。
ただ、意識しなければいいだけなのに、嫌うということは、心の奥底では確かに自分の生活に物足りなさを感じていて、しんどい生き方をしている人たちを羨ましいと感じていたのだろう。
いつだって嫌悪と羨望は隣にある。
だからかもしれない。岬さんの泣き顔を見てから僕は、学校で無意識に彼女の姿を目で追っていた。普段なら寝ている授業でも、周りにばれないように彼女の方へと意識を向けていた。
背筋よく座っている岬さんは真っ直ぐに垂れた髪を耳にかけていて、その奥には鮮やかな茶色い瞳がのぞいていた。
美形、彼女を見た誰もがそういうだろう。実際、男子の中で彼女の容姿を好きだと言っている奴は何人もいた。
けど、教室内での彼女のイメージは、変わり者だった。
彼女は、他のクラスメイトとは少し違うポジションにいた。
僕の通っている学校では、グループの上下関係は顕著でなく、お互いがわざわざ関わらないという程度の関係性だったが一応縄張りがあった。そんな小さな社会で、彼女はどのグループにも属していなかった。
そのことは女子とあまり関わりのない僕から見ても明らかで、彼女はどのグループにも入っておらず、けど一方でどのグループの人ともある程度会話をするし、時に談笑することもあった。だが放課後、どこかのグループの子たちと一緒に遊んでいる様子もないし、授業が終われば物足りなそうな表情で即座に学校から帰っていた。
根っからの一匹狼とは少し違う。あえて周りの人と必要以上に関わらないようにしているみたいだった。
だが、見ているだけでそれ以外に新たな情報を得ることもできず、彼女が授業中ちゃんと先生の話に耳を傾ける人だとわかっただけだった。
そんな彼女と話をしたのは、それから二週間後のことだった。
その日の放課後、僕は本屋に向かっていた。
駅を通り過ぎ、ロータリーから続く陸橋を学校と反対方向に歩いていくと、そこに小さなショッピングモールがある。その施設の一階に本屋が入っていて、僕はよくこの場所を訪れていた。それほど大きな書店とは言えないが、家と学校の間にあったので都合がよかった。
自動ドアを抜けて奥へと進んでいくと、壁際に文庫本の棚がある。今日は僕の好きな小説家の新刊が発売される日だった。
目当ての小説を手にとり、その後特に目的もなく棚を眺めていく。色とりどりの表紙と、店員さんお手製のポップの位置が先週と変わっていることに気づく。
僕は本屋の空気感が好きだ。そこにいると、少しだけ日常を忘れられる。
ずっと本棚を眺めていたから、後ろから近づいてくる人物に気がつかなかった。
「吾妻くん」
自分の名前が背後から聞こえ、振り向くと――。
「岬さん……」
岬華奈が大きな瞳をこちらに向けて立っていた。
十分後。教室で見せるものより数段人懐こい表情で、岬さんは僕の顔を覗いていた。
本屋で彼女に会った後、彼女に誘われて喫茶店でお茶することになったのだ。二人で一緒にいるところを見られると面倒だと彼女も思ったのだろう。彼女の方から駅から少し離れた店を提案してきた。
間接照明の暖かい光に包まれた店内に入ると、静かなマスターが僕たちを迎えてくれた。彼女は顔見知りらしく、マスターと楽しそうに何か話していた。
静かな店内の窓際の席から店内を見渡すが、彼女の目論見通り同じ制服を着た人間はいない。
人懐こい表情で彼女が尋ねてくる。
「吾妻くん、本好きなんだ?」
嘘をつく必要もないので、僕は彼女の質問に頷く。
「岬さんも本好きなの?」
社交辞令というわけではないが僕も訊き返すと、彼女はしばらく考えたのち、噛み締めるように言った。
「……うん、本は大切なもの」
そのニュアンスに少し違和感を感じたが、そこには触れなかった。
彼女は注文していたアイスティーをストローで飲み「美味しい」と呟く。紅茶に濡れた彼女の艶やかな唇に、思わず目が吸い寄せられる。
「けど私、吾妻くんが学校で本読んでるの見たことない気がする」
「学校では読まないからね」
「なんで?」
少し返答に迷ったが、言っても大丈夫だろうと思った。少なくともここしばらく彼女の行動を見てきて、何かしら近しいものを感じていた。
「仲良い友達に本好きな人がいないから」
僕たち男子高校生が話すことなんて、テレビや人気女優の話ばかりだ。周りが興味を持っていないことを持ち出すメリットなんて何ひとつない。
「わざわざ学校で読む必要ないかなと思って」
「……そっか」
予想通り彼女は、僕の言葉に必要以上の反応を見せず、納得したように頷いた。
「そうだよね、そういうもんだよね」
「うん、そういうもん」
「そっか。でもまさか本屋でクラスメイトに会うとは思わなかった」
「僕も」
結構頻繁に本屋に通っているが、クラスメイトに会ったことはない――一度彼女の泣き姿を見たことがあるが、それは心の中に押し留めた。
「吾妻くんの友達もだけど、クラスで本好きな人ほとんどいないよね、多分」
クラスの面々を思い出して、僕は頷いた。
「まあ、家では読んでるかもしれないけどね」
僕の言葉に、岬さんは「確かに」と笑う。
この数分で、彼女のイメージが急速に変化していた。
教室でのイメージと今の様子がまるでかみ合わない。そもそも、彼女が僕のことをお茶に誘ってきたこと自体、予想外なのだ。
僕もマスターが持ってきてくれたクリームソーダを飲む。炭酸が喉を通り、爽やかな香りが鼻の奥に抜けていった。
「うま」
思わず出た僕の呟き。彼女がそれに反応し、顔を綻ばせる。
「でしょ! 私ね。喫茶ポワレ……あ、この店の名前ね。ここのアイスティー」
彼女は机の上のアイスティーをストローでかき混ぜる。静かな氷の音が響く。
「すごく好きなんだー」
「市販のとは違う?」
「全っ然、違うの」
全然、のところに力を込めて彼女が言う。
「んー、なんかね、透き通ってるの」
彼女はグラスを少し持ち上げ、それを覗くような仕草を見せる。窓から光が差し込んで、彼女とグラスに光を注ぐ。
赤褐色に輝く液体を甘い目で見つめる彼女。
窓から注がれる鮮やかな光を溜めるその瞳。血色のいい唇に、シャツから覗く真っ白な首筋。胸の膨らみ――と目線が動いてしまっていることに気づき、僕は慌てて顔を上げた。
彼女は不思議そうに微笑み、今度はグラスを揺らして氷を鳴らした。
「氷がいいからなのかな。不純物がない感じがする」
確かに、クリームソーダも、口触りが市販のものより良い気がした。気のせいかもしれないけど。
「滑らかなのに、パキッとしてる感じ。……何でなんだろうね」
「マスターに聞いたらわかるんじゃない」
仲良さそうだったよね、という気持ちを込めてそう言うと、
「それはだめだよ」
岬さんは力強く首を振る。
「どうして?」
「こういうのは、わからないところで考えているのが楽しいものでしょ」
岬さんのその感性が正しいのかは分からないけど、その考えは少し素敵だと思ったし、そうやって即答できるような思いが自分の中にあるというのは、単純に美しいと思った。
「……そうかもしれない」
僕が彼女の言葉を噛み砕いてからそう言うと、彼女は驚きと喜びが混じったような表情をして、なぜか前のめりになった。僕はちょっと後ずさる。
「ね、吾妻くん。もうちょっと訊いてもいい?」
「……いいけど」
「吾妻くんは普段どんな本を読むの?」
「青春小説、かな」
「例えば?」
「例えば……」
好きな小説なんていくらでもある。そう聞かれ、現物を持っていることを思い出す。
「あ、今読んでるのはこれ」
僕は横の席に置いてある鞄の中に手を突っ込み、中から文庫本を取り出した。さっき買ったものじゃなく、元々読んでいた文庫本。この本は美那咲香(みなさきか)という作家の本で、僕はこの作家の本が好きだった。今回の新刊も、引き込まれる物語だった。
書店のカバーを外し表紙を見せた途端、彼女の目が驚きに見開かれる。
「……それ、先月出た本だよね」
「え、知ってるの?」
著者の名前は知られているかもしれないけど、つい先日発売された本なので、まさか彼女が知っているとは思わなかった。
「知ってる。……それ、面白かった?」
その声にはなぜか緊張が混じっているように感じられた。彼女の感情の意味はわからなかったが、僕はその質問に答える。
「めちゃくちゃ面白い」
読んでいる最中の胸の高鳴りが再燃して、声に熱が籠る。その声を聞いた彼女の表情から緊張が退き、安堵の表情に変わる。
「そっかー、よかった」
「よかった?」
「嬉しい」
「嬉しい?」
岬さんの意図が分からず、鸚鵡返しのようになってしまう。
彼女は肩をすくめ「ふふ」と小さな笑いを漏らす。その笑いに、僕は思わず言ってしまう。
「岬さん、なんか教室での印象と違うよね」
「そうかもね。驚いた?」
「正直」
「まあ、私にもいろんな顔があるからね」
「そういうもんか」
「うん。吾妻くんと同じ」
「否めないね」
僕の言葉に彼女は笑みをこぼす。
みんな、表には見せない顔や考えを持っている。彼女もそう考える人であることを理解し、少し安心する。
「……じゃあ、驚かしついでにもう一つ。いいですか」
彼女は少しの逡巡と共にそう切り出す。いいも何も、なんのことか分からないので僕は首を縦にふる。すると、彼女は落ち着いた声で告げてきた。
「それ、私の本なの」
「……え?」
「これ」
言いながら、彼女は僕の手の中の小説を指差す。
「えっと……冗談?」
「いや、それが冗談じゃなくて……」
彼女が少し困った顔をする。
「ちょっと待って、え? いや……え? まじ?」
大切……って言い方はそういうこと?
「うん、マジなんです。ほら、美那咲香。みな、さきか」
み、な、さ、き、か。みさきかな。……うそ。
「……岬さんの?」
「うん」
「えっと……つまり……岬さんがその小説を書いたってこと?」
「そういうこと。だから面白いって言ってくれて嬉しい。ありがとう」
静かな店内で、僕は一人絶句した。
「じゃあ日直二人はノート回収して職員室に持ってきてくれ」
次の日の放課後、僕は担任である水澄(みすみ)の指示で職員室に向かっていた。
何の巡り合わせか、次の日の日直は僕と岬さんの組み合わせだった。
岬さんの隣を歩いていると、彼女が首をこちらに曲げる。
「昨日の話だけど、学校では言わないでね」
昨日、あの後すぐ岬さんのスマホに担当編集者から電話がかかってきて、解散となったのだ。
横を見ると、僕より少し身長の低い彼女の瞳が目に入る。
「いや、言わないけど……」
クラスメイトである僕が今までそのことを知らなかったということは、よっぽど仲の良い人にしか言っていないのだろう。
「ありがとう」
「いや、それはいいんだけど。逆にどうして僕に言うの……?」
正直な気持ちを口に出すと、彼女は手に持ったノートを揺らしながら「なんでだろうね」と首を傾げた。
僕が小説を好きなのを知ったから、という単純な理由であれば、ここで口を濁す必要もない。それとも、こういうのはわからないところで考えているからいいのだろうか。
職員室に着いて水澄にノートを渡すと「さんきゅう。吾妻も岬も、調子はどうだ」という言葉をもらった。
僕も岬さんも「ぼちぼちです」という曖昧な答えを返す。
「そうか、気をつけて帰れよ」と言ってくれる水澄に挨拶をして、僕たちは職員室を出た。
二人とも荷物を持ってきていたので、そのまま帰路につく。
駅を通り過ぎ、陸橋を渡る。歩いている時に聞くと、岬さんの家と僕の家は結構近いということが分かった。
「あ、猫!」
彼女がいきなり駆け出す。彼女が向かう方向を見ると、本屋の前に小さな猫がいた。以前彼女の膝に乗っていた猫だろうか。
彼女は猫に近づくと歩幅を狭め、屈みながら近づいていく。慣れている様子だった。彼女の細い手が猫を撫でると、猫は気持ち良さそうにあくびをしている。
「この子、たまにこの場所にいるんだー」
僕も腰を下ろしゆっくりと近づいていく。幸せそうに猫を愛でる彼女に尋ねる。
「猫好きなの?」
「うん。癒される。帰るときいつも覗くの」
「だからか」
「だから?」
「うん、岬さんの小説にも猫よく出てくるよね」
「えっ」
彼女はしゃがんだまま僕の方を勢いよく振り返る。
「えっ、え……読んでくれてるんだ」
「……まあ。好きだし」
彼女の本が、とも、小説が、ともとれる言い方をする。
「……びっくりした、ありがとう」
彼女の照れた様子に、僕もなんとなく気まずくなり話を変える。
「岬さんは休日とか放課後は何してるの?」
「うーん……基本は本書いたり……あ、最近は書店回りしてるかなあ」
聞いたことがある。作家が全国の書店をめぐってサイン本などを書いたりする、書店回り。
「小説家みたい」
「小説家だからねえ」
「じゃあ、放課後は?」
「放課後は本書いているかなあ」
そうだろうと思っていた。
「いつも? 結構すぐ帰ってるけど」
「そうだね」
そう呟く岬さんの表情からは何か強い意志が感じられた。
その表情を見て、僕は彼女が泣いていた日のことを思い出す。
あの強い感情のこもった目。目に焼き付いた彼女の瞳。
僕はその日初めて、尊敬する人を見つけたんだと思う。