今日は一日空は薄暗く、灰色の雲が浮かんでいた。ちょうど帰宅しようと靴を履いたときに小雨が降り出し、一気に激しいものに変わった。
よかった、と内心でほっと息を吐く。備えあれば憂いなし。鞄に忍ばせておいた折り畳み傘を取り出してパッと広げると、鮮やかな水縹色が目の前に広がった。透き通る半透明の水縹はとても綺麗で、雨だというのに少しだけ気分があがる。自然と口角が上がるのを抑えて、傘を差した。
そこでふと、となりに人の影を感じて振り向く。
「……わ、っ」
思わず声が出てしまったのは、となりに星野がいたからだ。黙って突っ立っている星野は雨具らしきものは何も持っておらず、ただ空を見上げて逡巡しているように見えた。もう一度空を見上げて空模様をうかがう。当分雨は止みそうになかった。
「……傘、ないの?」
小さく訊ねると、海の色をした綺麗な瞳が流れてわたしを捉える。トク、と鼓動が響いたような気がして、思わず傘の持ち手を握りしめた。無表情で佇んでいた星野は、少しだけ眉を下げて「ああ」と呟く。周りを見てみると、残っている生徒はもうほとんどおらず、見知った顔はいないようだった。
このまま置いて帰ってもいいのだろうか。いや、それはさすがに薄情すぎないか。一応、知り合い以上の関係なのだから。
ぐるぐると頭の中で自問自答を繰り返す。誘って断られたらどうしよう、と思ったけれど、やはり放っておくことはできなかった。
「……入る?」
もごもごと口を動かして、躊躇いがちに訊いてみる。星野はゆっくりと瞬きをし、こちらにスッと視線を流した。
「いいのか」
「だって、このままじゃ帰れないでしょ、星野」
とりあえず断られなかったことにどことなく安堵し、ふうっと小さく息を吐く。入って、と促すように少しだけ傘を傾けると、「悪い」と呟いた星野は傘に身体を滑り込ませた。
パラパラと傘に打ちつける細やかな雨の音。低いとは言えないわたしの背よりもはるかに高い星野が濡れてしまわないように、やや高めに傘を固定して歩く。星野の方に傾けているから左肩が若干濡れてしまっているけれど、身長差があるから仕方がない。すると、ちらとわたしに視線を向けた星野が、無言でわたしの手から傘をさらって、わたしの身体全体が入るように持ち直した。その流れるような動作と、ふいに触れ合った指先に、体温が上昇していくような感覚がする。
「……あ、ありがと」
「ん」
視線を彷徨わせてなんとかお礼を言う。たいして気にした様子もない星野は、ふと視線を上げて傘を見た。
「綺麗だな、この色」
「……え?」
まさか傘について褒められるとは思っていなかったので少々驚く。嬉しさと驚きとが混ざり合って、なんとも言えない感情に包まれながら、「星野もそう思う?」と呟いた。
「ああ。なんていう色?」
「水縹だよ。水色の古い言い方なんだって。空の色みたいですごく綺麗だから、わたしはこの色が好きなの。雨も、なんだか好きになれるような気がして」
「……ふうん」
いつも通り興味のなさそうな声で返事をする星野。そんな反応をするなら、わざわざ訊かなくてもいいのに、と、心の中で少しだけ文句を並べながら、星野のとなりを歩く。
通学路に生徒はいなくて、たまにすれ違うご婦人がにこやかに「いいわねえ」なんて言って通り過ぎていく。そのたびにわたしたちは黙って会釈をした。
なかには「お似合いねえ」なんて言葉を贈ってくる方もいて、内心、そんなんじゃないのに、と答えながらも笑顔を絶やさないでいた。同じ傘に入るだけで、やはり恋人とか、それに近しい関係に見えるのだと。俗に言う"相合傘"の威力は凄まじいなと感じながら、足元が濡れないように注意しながら歩く。
星野は道路に視線を落として、静かに歩いている。この前一緒に帰ったときとはまた違う雰囲気に、なんだかひどく落ち着かない。あの日は晴れ、今日は雨。空模様だけでこんなにも空気が違ってしまうのだと思いながら、しんみりした空気を打ち消すために、下を向く星野におもむろに声をかけた。
「前、向いて」
バッ────と。
急に視線を上げてわたしを見つめた星野は、こっちが驚いてしまうほどに目を丸くしていた。ピタリと星野の足が止まって、それにつられるようにしてわたしの足も止まる。
そこにあるのは、雨の音だけが響く、静寂。
「え……どうしたの、星野」
微動だにしない星野に、幾度かの瞬きを繰り返し、訊ねる。黙っていた星野は、「あ、いや」と彼らしくない焦ったような返事をして、再び前を向いた。
「……大丈夫?」
「ああ────ごめん」
余計に微妙な雰囲気になってしまって、なんとなく気まずくて視線を彷徨わせる。それからまた降りてきた沈黙。もうどうしようもなくて、ただひそめるように息をして、家までの道を歩いた。
「え、星野……?」
わたしの家の方向に向かう星野に首を傾げると「送るよ」と小さく告げた星野は、静かに前を見据えた。
「え、でも悪いし……」
「じゃあ、はい」
「え……?」
差し出された傘。迷うことなくわたしを見つめる星野をじっと見つめ返す。
「星野、濡れちゃうよ」
「これ、お前の傘だろ。ありがとな」
そこまで言われて気付いた。傘は一本しかなくて、当然ながら途中で別れたらどちらかは傘なしで帰らなければならない。わたしが送らなくていいと言えば、星野はここから傘なしで帰るつもりなのだ。
「だ、だめだよ星野。……分かった。送って?」
慌てて言うと、ふっと息を吐き出した星野は再び歩き出す。そのとなり、肩が触れ合うか触れ合わないかの距離に並んだ。
これはカップルの送る送られるなんかじゃなくて、ただ単に緊急事態なのだ。雨が降ってきて、傘がひとつしかなくて。星野が濡れてはいけないから、最善の策をとっただけ。何度も自分に言い聞かせる。けれど妙に落ち着かなくて、どこに向けたらいいか分からない視線を左右に揺らす。
となりから香るシトラスの香りと、すらりと高い背は、彼の存在を存分に主張していた。
安心感。形容するなら、きっとこれ。
となりに星野がいる。たったそれだけの事実にわたしはやはり弱いらしい。
「……こっち」
車の通りが多い場所に来ると、星野はわたしの腕を掴んで歩道側に引き寄せた。その途端、トクンと甘く奏でられる心音。異性慣れしていない鼓動はいつだって正直だ。
(いや、違う。勘違いしたらだめ)
さきほどの淡いトキメキこそが勘違いだと己に言い聞かせて、頭を振る。
────何度言ったら分かるんだ。過ちを繰り返してはならないと。
何度も何度も、その言葉を繰り返す。自分を騙して、全部を押しとどめるように。
それからふたりして黙々と歩き、家に到着する。
「えっと、その傘、貸すね……?」
というかそれしかないだろう、と、自分で言っておきながら自答してしまう。ここまで送ってもらって傘なしで帰れなんて、そんな鬼みたいなことできるはずがない。ようすをうかがうと、星野は「悪い」と言って少しだけ頭を下げた。
「乾いたら返すから。明日には返せないかもしれない」
こんなに雨が降っているのだ。そう簡単には乾かないだろう。目の前に立つ星野を見つめる。
特別な時間だった。あまりにも贅沢な時間だった。幸せで、悲しくて、苦しくて、それでもやっぱり嬉しい時間だった。
────もう一度を願うのは、わがままだろうか。誰かに怒られてしまうだろうか。
そんな考えが浮かんでしまったわたしはすでに手遅れだったのだろう。
「……次、急に雨が降ったとき」
「え?」
「今日みたいに急に雨が降って、わたしが困ってるとき、返しにきてよ」
気付いたら口走っていた。ほんの些細な、小さなことでいい。何か"繋がり"がほしかった。
「そんなの、お前が困るだろ。お前の傘なのに」
「……いいよ」
ほとんど無意識だった。それくらい必死だった。もう一度だけでいいから、彼とこうして一緒に帰りたかった。
「折り畳みだし、いつも使うわけじゃないから。それに、折り畳み傘は他にも持ってるから」
「だけど、お前」
「だから急な雨に降られて困ったとき……そのときは星野が迎えにきてくれない? 今日の借りを返してくれない、かな」
「いつになるか分からねえのに?」
「それでもいいよ……待ってるから」
言ってしまってから自分でも、何を言っているんだ、と恥ずかしくなる。
『急な雨に降られて、傘がなくて困ったときに迎えにきて』なんて、そんな曖昧であやふやなことを言っても星野を困らせてしまうだけだ。
恋愛ドラマの主人公になったつもりかと、自分を罵りたくなる。
それでももう一度、一緒に帰りたいと思ってしまった。彼が許してくれるのなら、もう一度だけでいいから、同じ時間を共有したかった。
こうして同じ傘に入って他愛もない話をしたかったと言ったら、彼はなんて言うだろうか。心の奥深くに眠るわたしは、いったいなんて言うのだろうか。
そこまで考えて、さすがにわがままの度がすぎると気付いて、慌てて取り消そうと口を開いたとき。
「分かった。だいぶ先になっても文句言うなよ」
小さく頷いた星野は、透き通る瞳でわたしを見つめた。透明な雨に紛れる星野の瞳は、とても綺麗だ、と純粋に思う。
出逢った時から。この人の目は、いつだってきれいだ。
「……約束」
小指を伸ばして、星野を見つめる。これは昔からの癖というか、約束事をするときの絶対的なマイルールだった。わずかに目を開いた星野は、それからひどくゆっくりと目を細めて、わたしの小指に長い指を絡める。
「約束、忘れないでね」
「ああ、分かってる」
キュッと力を込めて、それから指を解いた。彼ならわたしのわがままもなんだかんだ言ってきいてくれるんじゃないか、って。そんな自惚れたことを思ってしまう。
次の瞬間ふっと浮かべられた微笑みを見て、傘を持ってきていてよかったと心底思った。
「ありがとな、栞」
「こちらこそ、送ってくれてありがとう。気をつけてね」
「じゃあな」
くるっと背を向けた星野。
不思議だ。彼のことは苦手なはずなのに、わたしはいったい何をしているのだろう。
「……ほんと、どうかしてる」
小さく息を吐く。水縹が遠ざかっていく。その淡い光が小さくなって角に消えるまで、わたしはいつまでも見守っていた。
よかった、と内心でほっと息を吐く。備えあれば憂いなし。鞄に忍ばせておいた折り畳み傘を取り出してパッと広げると、鮮やかな水縹色が目の前に広がった。透き通る半透明の水縹はとても綺麗で、雨だというのに少しだけ気分があがる。自然と口角が上がるのを抑えて、傘を差した。
そこでふと、となりに人の影を感じて振り向く。
「……わ、っ」
思わず声が出てしまったのは、となりに星野がいたからだ。黙って突っ立っている星野は雨具らしきものは何も持っておらず、ただ空を見上げて逡巡しているように見えた。もう一度空を見上げて空模様をうかがう。当分雨は止みそうになかった。
「……傘、ないの?」
小さく訊ねると、海の色をした綺麗な瞳が流れてわたしを捉える。トク、と鼓動が響いたような気がして、思わず傘の持ち手を握りしめた。無表情で佇んでいた星野は、少しだけ眉を下げて「ああ」と呟く。周りを見てみると、残っている生徒はもうほとんどおらず、見知った顔はいないようだった。
このまま置いて帰ってもいいのだろうか。いや、それはさすがに薄情すぎないか。一応、知り合い以上の関係なのだから。
ぐるぐると頭の中で自問自答を繰り返す。誘って断られたらどうしよう、と思ったけれど、やはり放っておくことはできなかった。
「……入る?」
もごもごと口を動かして、躊躇いがちに訊いてみる。星野はゆっくりと瞬きをし、こちらにスッと視線を流した。
「いいのか」
「だって、このままじゃ帰れないでしょ、星野」
とりあえず断られなかったことにどことなく安堵し、ふうっと小さく息を吐く。入って、と促すように少しだけ傘を傾けると、「悪い」と呟いた星野は傘に身体を滑り込ませた。
パラパラと傘に打ちつける細やかな雨の音。低いとは言えないわたしの背よりもはるかに高い星野が濡れてしまわないように、やや高めに傘を固定して歩く。星野の方に傾けているから左肩が若干濡れてしまっているけれど、身長差があるから仕方がない。すると、ちらとわたしに視線を向けた星野が、無言でわたしの手から傘をさらって、わたしの身体全体が入るように持ち直した。その流れるような動作と、ふいに触れ合った指先に、体温が上昇していくような感覚がする。
「……あ、ありがと」
「ん」
視線を彷徨わせてなんとかお礼を言う。たいして気にした様子もない星野は、ふと視線を上げて傘を見た。
「綺麗だな、この色」
「……え?」
まさか傘について褒められるとは思っていなかったので少々驚く。嬉しさと驚きとが混ざり合って、なんとも言えない感情に包まれながら、「星野もそう思う?」と呟いた。
「ああ。なんていう色?」
「水縹だよ。水色の古い言い方なんだって。空の色みたいですごく綺麗だから、わたしはこの色が好きなの。雨も、なんだか好きになれるような気がして」
「……ふうん」
いつも通り興味のなさそうな声で返事をする星野。そんな反応をするなら、わざわざ訊かなくてもいいのに、と、心の中で少しだけ文句を並べながら、星野のとなりを歩く。
通学路に生徒はいなくて、たまにすれ違うご婦人がにこやかに「いいわねえ」なんて言って通り過ぎていく。そのたびにわたしたちは黙って会釈をした。
なかには「お似合いねえ」なんて言葉を贈ってくる方もいて、内心、そんなんじゃないのに、と答えながらも笑顔を絶やさないでいた。同じ傘に入るだけで、やはり恋人とか、それに近しい関係に見えるのだと。俗に言う"相合傘"の威力は凄まじいなと感じながら、足元が濡れないように注意しながら歩く。
星野は道路に視線を落として、静かに歩いている。この前一緒に帰ったときとはまた違う雰囲気に、なんだかひどく落ち着かない。あの日は晴れ、今日は雨。空模様だけでこんなにも空気が違ってしまうのだと思いながら、しんみりした空気を打ち消すために、下を向く星野におもむろに声をかけた。
「前、向いて」
バッ────と。
急に視線を上げてわたしを見つめた星野は、こっちが驚いてしまうほどに目を丸くしていた。ピタリと星野の足が止まって、それにつられるようにしてわたしの足も止まる。
そこにあるのは、雨の音だけが響く、静寂。
「え……どうしたの、星野」
微動だにしない星野に、幾度かの瞬きを繰り返し、訊ねる。黙っていた星野は、「あ、いや」と彼らしくない焦ったような返事をして、再び前を向いた。
「……大丈夫?」
「ああ────ごめん」
余計に微妙な雰囲気になってしまって、なんとなく気まずくて視線を彷徨わせる。それからまた降りてきた沈黙。もうどうしようもなくて、ただひそめるように息をして、家までの道を歩いた。
「え、星野……?」
わたしの家の方向に向かう星野に首を傾げると「送るよ」と小さく告げた星野は、静かに前を見据えた。
「え、でも悪いし……」
「じゃあ、はい」
「え……?」
差し出された傘。迷うことなくわたしを見つめる星野をじっと見つめ返す。
「星野、濡れちゃうよ」
「これ、お前の傘だろ。ありがとな」
そこまで言われて気付いた。傘は一本しかなくて、当然ながら途中で別れたらどちらかは傘なしで帰らなければならない。わたしが送らなくていいと言えば、星野はここから傘なしで帰るつもりなのだ。
「だ、だめだよ星野。……分かった。送って?」
慌てて言うと、ふっと息を吐き出した星野は再び歩き出す。そのとなり、肩が触れ合うか触れ合わないかの距離に並んだ。
これはカップルの送る送られるなんかじゃなくて、ただ単に緊急事態なのだ。雨が降ってきて、傘がひとつしかなくて。星野が濡れてはいけないから、最善の策をとっただけ。何度も自分に言い聞かせる。けれど妙に落ち着かなくて、どこに向けたらいいか分からない視線を左右に揺らす。
となりから香るシトラスの香りと、すらりと高い背は、彼の存在を存分に主張していた。
安心感。形容するなら、きっとこれ。
となりに星野がいる。たったそれだけの事実にわたしはやはり弱いらしい。
「……こっち」
車の通りが多い場所に来ると、星野はわたしの腕を掴んで歩道側に引き寄せた。その途端、トクンと甘く奏でられる心音。異性慣れしていない鼓動はいつだって正直だ。
(いや、違う。勘違いしたらだめ)
さきほどの淡いトキメキこそが勘違いだと己に言い聞かせて、頭を振る。
────何度言ったら分かるんだ。過ちを繰り返してはならないと。
何度も何度も、その言葉を繰り返す。自分を騙して、全部を押しとどめるように。
それからふたりして黙々と歩き、家に到着する。
「えっと、その傘、貸すね……?」
というかそれしかないだろう、と、自分で言っておきながら自答してしまう。ここまで送ってもらって傘なしで帰れなんて、そんな鬼みたいなことできるはずがない。ようすをうかがうと、星野は「悪い」と言って少しだけ頭を下げた。
「乾いたら返すから。明日には返せないかもしれない」
こんなに雨が降っているのだ。そう簡単には乾かないだろう。目の前に立つ星野を見つめる。
特別な時間だった。あまりにも贅沢な時間だった。幸せで、悲しくて、苦しくて、それでもやっぱり嬉しい時間だった。
────もう一度を願うのは、わがままだろうか。誰かに怒られてしまうだろうか。
そんな考えが浮かんでしまったわたしはすでに手遅れだったのだろう。
「……次、急に雨が降ったとき」
「え?」
「今日みたいに急に雨が降って、わたしが困ってるとき、返しにきてよ」
気付いたら口走っていた。ほんの些細な、小さなことでいい。何か"繋がり"がほしかった。
「そんなの、お前が困るだろ。お前の傘なのに」
「……いいよ」
ほとんど無意識だった。それくらい必死だった。もう一度だけでいいから、彼とこうして一緒に帰りたかった。
「折り畳みだし、いつも使うわけじゃないから。それに、折り畳み傘は他にも持ってるから」
「だけど、お前」
「だから急な雨に降られて困ったとき……そのときは星野が迎えにきてくれない? 今日の借りを返してくれない、かな」
「いつになるか分からねえのに?」
「それでもいいよ……待ってるから」
言ってしまってから自分でも、何を言っているんだ、と恥ずかしくなる。
『急な雨に降られて、傘がなくて困ったときに迎えにきて』なんて、そんな曖昧であやふやなことを言っても星野を困らせてしまうだけだ。
恋愛ドラマの主人公になったつもりかと、自分を罵りたくなる。
それでももう一度、一緒に帰りたいと思ってしまった。彼が許してくれるのなら、もう一度だけでいいから、同じ時間を共有したかった。
こうして同じ傘に入って他愛もない話をしたかったと言ったら、彼はなんて言うだろうか。心の奥深くに眠るわたしは、いったいなんて言うのだろうか。
そこまで考えて、さすがにわがままの度がすぎると気付いて、慌てて取り消そうと口を開いたとき。
「分かった。だいぶ先になっても文句言うなよ」
小さく頷いた星野は、透き通る瞳でわたしを見つめた。透明な雨に紛れる星野の瞳は、とても綺麗だ、と純粋に思う。
出逢った時から。この人の目は、いつだってきれいだ。
「……約束」
小指を伸ばして、星野を見つめる。これは昔からの癖というか、約束事をするときの絶対的なマイルールだった。わずかに目を開いた星野は、それからひどくゆっくりと目を細めて、わたしの小指に長い指を絡める。
「約束、忘れないでね」
「ああ、分かってる」
キュッと力を込めて、それから指を解いた。彼ならわたしのわがままもなんだかんだ言ってきいてくれるんじゃないか、って。そんな自惚れたことを思ってしまう。
次の瞬間ふっと浮かべられた微笑みを見て、傘を持ってきていてよかったと心底思った。
「ありがとな、栞」
「こちらこそ、送ってくれてありがとう。気をつけてね」
「じゃあな」
くるっと背を向けた星野。
不思議だ。彼のことは苦手なはずなのに、わたしはいったい何をしているのだろう。
「……ほんと、どうかしてる」
小さく息を吐く。水縹が遠ざかっていく。その淡い光が小さくなって角に消えるまで、わたしはいつまでも見守っていた。