【星野side】
気付いたのは、高校一年生の夏頃だった。俺と栞と小鞠。三人とも同じクラスで、栞と小鞠が仲が良い故に、小鞠とは少々交流があった。話すことはなくても同じ空間にいることがあり、すぐに気付いた。
小鞠は、栞のことが好きだと。
男性同士、女性同士の恋愛に関しては特に何も思わなかったし、むしろ男女どちらからも想われるほど魅力的なのだとどこか誇らしくもあったのだ。自分が惚れた女性は気高くて素晴らしい人なのだと。
「言っとくけど俺、ライバルには容赦ねえからな」
たまたま二人きりになったその年の秋の日。そんなことを言って鎌をかけてみれば、思った通り狼狽える小鞠。
「……っ、え?」
「あいつのこと好きなのばればれ」
目をまんまるくする彼女の顔が、ぶわっと赤くなる。白い肌だから赤くなると余計に目立つ。こんなんでよくバレてねえな、と思うと同時に、もしかすると気付いてないふりをしているだけかもしれないと思った。
……いや、さすがにないか。栞だし。
「ど、どうして気付いたんですか?」
「普通にしてりゃ分かるだろ。お前の目、すげー怖えし」
俺が栞に話しかけた時の彼女の形相はまるで鬼だ。割と可愛い顔をしているというのに、栞が絡むと般若が出てくる。
「そんなに分かりやすいですかね、私」
「ああ」
がっくりと肩を落とす彼女の顔があまりにもへこんでいるように見えたので「まあ、あいつにはバレてねえと思うけどな」と付け足しておいた。
それから栞のいないところでちょくちょく話すようになった。話は全て栞のことばっかりだったけれど、少し構うだけで赤くなったり青くなったりする彼女が確かに"学年一モテる"と謳われるのにも納得できた。一緒にいて飽きないのだ。なかなかの強敵だぞ、と自分自身に語りかける。
高校二年生、冬。
「あいつのどこが好きなんだよ」
偶然自主練が被った、二人だけの体育館。ボールの模様を指でなぞりながら問いかける。すると彼女は分かりやすく頬を赤らめて、口許を緩ませた。
「……似てるんです、すごく。まっすぐで、あったかくて、安心する目が、似てるんです」
「似てるって、誰に?」
「私の────命の恩人です」
遠い過去をそっとなぞるように、ぽつりぽつりと呟く彼女は、視線を移して俺をまっすぐに見つめた。すぐに壊れてしまいそうな脆い瞳の奥には、確かな強さがあって。絶対に渡さない、という決意を秘めて、俺を捉える瞳。
「でも、それだけじゃないです。格好良さも、強さも、何もかも私にはないものばかりだから。一緒にいればいるほど惹かれていって、だめだって分かっていても抗えないんです。どう頑張っても好きだから」
「だめ? 別に誰が誰を好きになろうが、だめも何もないだろ」
「……怖いんです。気持ち悪い、って思われるんじゃないかって。やっぱり"普通"じゃないから、この気持ちがバレたら、そばにいられなくなるんじゃないかって」
そう思うのも当然だ。周りと違う、一般論と違う、普通じゃない。人は周りより優れたいと願いながら、目立たないように社会に溶け込む生き物だ。何の根拠もない"普通"を目指して努力する生き物だからこそ、違いを主張するのには勇気がいるし、拒絶された時の無力感は大きい。
「あいつは、そんなやつじゃねえよ」
けれど小鞠と俺が好きになった成瀬栞という存在は、きっとそんなものをなんなく受け入れるのだろう。それだけははっきりと思うことができた。
「分かっています。栞ちゃんはそんな人じゃないって。だって、誰よりも優しい人だから」
伏し目がちに呟いた小鞠は「でも」と言葉を続ける。
「たまにはこうして弱音を吐いてもいいですか。その……一人の、ライバルとして」
「ああ」
そう返してやると、小鞠は顔を上げてまっすぐに俺を見た。先ほどまでの表情は消え、強い光をその瞳に宿している。
「絶対に、私が勝ち取ってみせます。星野くん、いざ尋常に勝負です」
「……上等だ。受けて立つ」
その目を見つめ返す。
負けるわけないだろ、俺が。どんな相手だって絶対に負かしてやる。あいつの手を引くのは、この世界で俺だけだ。
「私、本気で栞ちゃんが好きなんです。星野くんよりも好きです」
「んなわけねえだろ。俺があいつのこと、何年間好きだと思ってんだ」
ふっと笑みをこぼし、ゴールに向かって一直線に走っていく彼女は、随分と綺麗になったフォームでレイアップを放った。
……スパッ。
微かな音を立てて、ゴールネットが揺れる。
────入れやがった。生まれた焦りと不安で苛立ちが募る。
負けるわけにはいかない。俺はただまっすぐ、ゴールを見つめてボールを放つだけだ。どんなに遠くても、難しい状況でも、打たなければ入らない。スリーポイントラインに足を揃えて、す、と息を吸い込む。
一球に思いを込めて────放て。
指先を離れたボールは、リングにまっすぐに吸い込まれていった。
そして、修了式の翌日である今日。
話すようになってから、なんとなく流れで交換した連絡先。ほとんど使うことはなかったが、昨日メッセージが届いていたのだ。「会いたいです」と。
「私……告白したんです」
まっすぐに俺を見つめる彼女に、そ、と軽く返しながら内心どきりとした。俺はなかなかはっきりと伝えることができず、雨の日に伝えたはずなのに聞こえていなかったと言われてしまったその言葉を、彼女が伝えたと言ったから。先を越されてしまった悔しさと、結果への関心が同時に押し寄せてくる。
「振られました」
あっけらかんと言った彼女は、へらっと力なく笑った。
生まれたのは安堵と羨望。なかなかの強敵だと思っていたからこそ、断られたと聞いて少し安堵してしまった。そして、想いを伝えることができたことを羨ましく思ってしまった。彼女の努力の結果に過ぎないのに。
「そうか」
声は、震えていた。なんと言ってやれば良いか分からず、それきり口をつぐむ。
「……私の負けです」
へへ、と笑う彼女は、なんとも言えない儚さを纏っていた。
「負けとかじゃねえだろ。あんたはよくやったよ。……尊敬する」
本心だった。単純にすごいと思った。今まで築きあげてきた友情を壊すかもしれない恐怖と闘って、想いを告げたのだから。
「星野くんは言わないんですか。俺がずっと惚れてる女はお前だ、って。バスケを始めた理由はお前だよ、って」
ハッと息を呑む。どうしてそのことを知っているのか。
「栞ちゃんがお母さんの話をしてるとき、実は教室の戸のそばにいたんです私。だから、星野くんの話も聞いちゃったんですよね」
「……昔の話だからな。あいつは覚えてねえよ」
栞は、病院で会ったことなんて覚えていない。それは今までの言動でだいたい分かった。初めて言葉を交わしたのは入学式の屋上、彼女の記憶ではそうなっている。
すぐに分かった。大きくなっていても、名前を知らなくても、顔を合わせただけで記憶の子だと気付いた。
入学式の日、あんな強気な言葉を放ったのは、記憶の確認と気持ちの宣言。叶えたいことを口に出して、絶対に本当にしてみせると誓った。
「奇跡だったんだ。あいつと巡り会えたのは」
一度目も、二度目も。偶然も重なればきっと必然。
俺たちは出会うべくして出会ったのだと、そんな勘違いをしたっていいだろう。
けれど彼女は、かつて俺が好きだった、花が咲くような笑顔を見せなくなっていた。どこか翳りがあるような、引き攣るような笑顔で。大好きだったはずのバスケも、力を抜いて適当にこなしていて。
そして何より、自分の気持ちを言葉にしなくなっていた。海に行けないと泣き出すようになっていた。
あれほど言霊を信じて、夢を持っていた少女だったのに。俺に言霊を、信じることの大切さを教えてくれたのは彼女だったのに。
『────わたしのお母さんは、海で亡くなったの』
記憶の中の少女は母親のことが大好きだった。だから、これが彼女を狂わせたすべての始まりだったのだと分かったとき、この腕で抱きしめてやりたくなった。
海に行けなくなった理由は、自分が思っていたよりも遥かに残酷だった。海に行けないと泣き出した理由も、それでもなお憧れを抱く理由も、言葉にできなくなった理由も。何もかも分かってやることができていなかった。
『……わたし、蛙化現象、起こしちゃうの』
彼女が新たに抱える葛藤。
俺に想いを向けてくれていることは分かった。けれど、俺から彼女に想いを伝えることはできないと。
おそらく今この気持ちを伝えたら、彼女を困らせることになるだろう。
栞が俺を拒むのは、もし自分がまた蛙化現象を起こして、俺を傷付けたりしたくないからだろう。嫌われたくないからだろう。
無論、嫌うはずないけれど。
だって、どうしようもないくらい好きなのだ。簡単に嫌いになれるわけがない。栞にとっての『本当に好きな人』とやらが誰なのか、そんなことは到底分からないけれど、俺の可能性だって十分あるんじゃないのか。なんて、そんな言葉を軽く言えないのも、不器用な俺の性格だから仕方がない。
「栞ちゃん、天然なので。回りくどく言っても伝わりませんよ」
「いいんだよ今は。ゆっくり思い出せばいいんだ」
俺から昔のことを伝えようとは思わない。
またこうして巡り会えて、一緒にいられるだけで幸せなのだ。同じ時を共有して、綺麗なものを見て、そばにいられるだけでいい。成瀬栞という存在が、俺のそばで笑っていてくれたら、それだけで俺はもう十分幸せなのだ。
焦らずゆっくり年を重ねて、彼女の気持ちに向き合っていければそれでいい。そしていつか、俺が思っているような関係になれるかもしれないし、まったく違う形に落ち着くかもしれない。それでいいのだ。未来のことなんて誰にも分からないのだから。
「俺はあいつのすべてを受け入れてる。だから、何があってもそばにいる。……そばに、いたいんだ」
好きという感情が行き着く先は、すべてが付き合うことではない。俺たちのような関係性があってもいいだろう。
そばにいたい。あいつのとなりで、この世界を生きていきたい。
彼女と出会ったこの水縹色の空が広がる世界で、海の青が揺れる世界で、一緒に生きていきたい。
「だって俺、あいつのこと好きだから」
俺が幸せにしてやると決めている、大切な人。
もし仮に病院で出逢わなかったとしても、きっとどこかで巡り逢っている。そして、俺は彼女を好きになっているはずだ。なぜだかそんな確信があった。
小さい頃の出来事がなかったとしても、俺はずっと成瀬栞が好き。成瀬栞という存在に、たまらなく惹かれている。一緒にいればいるほど、どんどん好きになって、離れがたくて、愛しいとさえ思う。
『お前、俺のこと好きになるよ』
やっとたどり着けた、再び巡り逢うことができたあの日を俺は一生忘れない。
このまま時が止まればいいのに。
彼女と過ごす日々の中で、何度そう思ったことだろう。
どの日もすべてが輝いていて、言葉じゃ表せないほど嬉しかった。俺にとって、泣きたくなるほど大切なものだった。
「私……星野くんには敵わない気がします」
小鞠が笑いながら空を見上げた。春空に目を向ける小鞠の横顔はすっきりとしていた。
「当たり前だろ」
強気に返しておいた。澄み渡る青空はどこまでも広がっていて終わりがない。これほどまでに強力な恋敵がいたということは、生涯俺の誇りになるだろう。
「……ふふっ、星野くんらしい」
花信風に髪が揺れる。そんな小鞠の呟きは、澄み渡る青空に溶けて消えていった。
気付いたのは、高校一年生の夏頃だった。俺と栞と小鞠。三人とも同じクラスで、栞と小鞠が仲が良い故に、小鞠とは少々交流があった。話すことはなくても同じ空間にいることがあり、すぐに気付いた。
小鞠は、栞のことが好きだと。
男性同士、女性同士の恋愛に関しては特に何も思わなかったし、むしろ男女どちらからも想われるほど魅力的なのだとどこか誇らしくもあったのだ。自分が惚れた女性は気高くて素晴らしい人なのだと。
「言っとくけど俺、ライバルには容赦ねえからな」
たまたま二人きりになったその年の秋の日。そんなことを言って鎌をかけてみれば、思った通り狼狽える小鞠。
「……っ、え?」
「あいつのこと好きなのばればれ」
目をまんまるくする彼女の顔が、ぶわっと赤くなる。白い肌だから赤くなると余計に目立つ。こんなんでよくバレてねえな、と思うと同時に、もしかすると気付いてないふりをしているだけかもしれないと思った。
……いや、さすがにないか。栞だし。
「ど、どうして気付いたんですか?」
「普通にしてりゃ分かるだろ。お前の目、すげー怖えし」
俺が栞に話しかけた時の彼女の形相はまるで鬼だ。割と可愛い顔をしているというのに、栞が絡むと般若が出てくる。
「そんなに分かりやすいですかね、私」
「ああ」
がっくりと肩を落とす彼女の顔があまりにもへこんでいるように見えたので「まあ、あいつにはバレてねえと思うけどな」と付け足しておいた。
それから栞のいないところでちょくちょく話すようになった。話は全て栞のことばっかりだったけれど、少し構うだけで赤くなったり青くなったりする彼女が確かに"学年一モテる"と謳われるのにも納得できた。一緒にいて飽きないのだ。なかなかの強敵だぞ、と自分自身に語りかける。
高校二年生、冬。
「あいつのどこが好きなんだよ」
偶然自主練が被った、二人だけの体育館。ボールの模様を指でなぞりながら問いかける。すると彼女は分かりやすく頬を赤らめて、口許を緩ませた。
「……似てるんです、すごく。まっすぐで、あったかくて、安心する目が、似てるんです」
「似てるって、誰に?」
「私の────命の恩人です」
遠い過去をそっとなぞるように、ぽつりぽつりと呟く彼女は、視線を移して俺をまっすぐに見つめた。すぐに壊れてしまいそうな脆い瞳の奥には、確かな強さがあって。絶対に渡さない、という決意を秘めて、俺を捉える瞳。
「でも、それだけじゃないです。格好良さも、強さも、何もかも私にはないものばかりだから。一緒にいればいるほど惹かれていって、だめだって分かっていても抗えないんです。どう頑張っても好きだから」
「だめ? 別に誰が誰を好きになろうが、だめも何もないだろ」
「……怖いんです。気持ち悪い、って思われるんじゃないかって。やっぱり"普通"じゃないから、この気持ちがバレたら、そばにいられなくなるんじゃないかって」
そう思うのも当然だ。周りと違う、一般論と違う、普通じゃない。人は周りより優れたいと願いながら、目立たないように社会に溶け込む生き物だ。何の根拠もない"普通"を目指して努力する生き物だからこそ、違いを主張するのには勇気がいるし、拒絶された時の無力感は大きい。
「あいつは、そんなやつじゃねえよ」
けれど小鞠と俺が好きになった成瀬栞という存在は、きっとそんなものをなんなく受け入れるのだろう。それだけははっきりと思うことができた。
「分かっています。栞ちゃんはそんな人じゃないって。だって、誰よりも優しい人だから」
伏し目がちに呟いた小鞠は「でも」と言葉を続ける。
「たまにはこうして弱音を吐いてもいいですか。その……一人の、ライバルとして」
「ああ」
そう返してやると、小鞠は顔を上げてまっすぐに俺を見た。先ほどまでの表情は消え、強い光をその瞳に宿している。
「絶対に、私が勝ち取ってみせます。星野くん、いざ尋常に勝負です」
「……上等だ。受けて立つ」
その目を見つめ返す。
負けるわけないだろ、俺が。どんな相手だって絶対に負かしてやる。あいつの手を引くのは、この世界で俺だけだ。
「私、本気で栞ちゃんが好きなんです。星野くんよりも好きです」
「んなわけねえだろ。俺があいつのこと、何年間好きだと思ってんだ」
ふっと笑みをこぼし、ゴールに向かって一直線に走っていく彼女は、随分と綺麗になったフォームでレイアップを放った。
……スパッ。
微かな音を立てて、ゴールネットが揺れる。
────入れやがった。生まれた焦りと不安で苛立ちが募る。
負けるわけにはいかない。俺はただまっすぐ、ゴールを見つめてボールを放つだけだ。どんなに遠くても、難しい状況でも、打たなければ入らない。スリーポイントラインに足を揃えて、す、と息を吸い込む。
一球に思いを込めて────放て。
指先を離れたボールは、リングにまっすぐに吸い込まれていった。
そして、修了式の翌日である今日。
話すようになってから、なんとなく流れで交換した連絡先。ほとんど使うことはなかったが、昨日メッセージが届いていたのだ。「会いたいです」と。
「私……告白したんです」
まっすぐに俺を見つめる彼女に、そ、と軽く返しながら内心どきりとした。俺はなかなかはっきりと伝えることができず、雨の日に伝えたはずなのに聞こえていなかったと言われてしまったその言葉を、彼女が伝えたと言ったから。先を越されてしまった悔しさと、結果への関心が同時に押し寄せてくる。
「振られました」
あっけらかんと言った彼女は、へらっと力なく笑った。
生まれたのは安堵と羨望。なかなかの強敵だと思っていたからこそ、断られたと聞いて少し安堵してしまった。そして、想いを伝えることができたことを羨ましく思ってしまった。彼女の努力の結果に過ぎないのに。
「そうか」
声は、震えていた。なんと言ってやれば良いか分からず、それきり口をつぐむ。
「……私の負けです」
へへ、と笑う彼女は、なんとも言えない儚さを纏っていた。
「負けとかじゃねえだろ。あんたはよくやったよ。……尊敬する」
本心だった。単純にすごいと思った。今まで築きあげてきた友情を壊すかもしれない恐怖と闘って、想いを告げたのだから。
「星野くんは言わないんですか。俺がずっと惚れてる女はお前だ、って。バスケを始めた理由はお前だよ、って」
ハッと息を呑む。どうしてそのことを知っているのか。
「栞ちゃんがお母さんの話をしてるとき、実は教室の戸のそばにいたんです私。だから、星野くんの話も聞いちゃったんですよね」
「……昔の話だからな。あいつは覚えてねえよ」
栞は、病院で会ったことなんて覚えていない。それは今までの言動でだいたい分かった。初めて言葉を交わしたのは入学式の屋上、彼女の記憶ではそうなっている。
すぐに分かった。大きくなっていても、名前を知らなくても、顔を合わせただけで記憶の子だと気付いた。
入学式の日、あんな強気な言葉を放ったのは、記憶の確認と気持ちの宣言。叶えたいことを口に出して、絶対に本当にしてみせると誓った。
「奇跡だったんだ。あいつと巡り会えたのは」
一度目も、二度目も。偶然も重なればきっと必然。
俺たちは出会うべくして出会ったのだと、そんな勘違いをしたっていいだろう。
けれど彼女は、かつて俺が好きだった、花が咲くような笑顔を見せなくなっていた。どこか翳りがあるような、引き攣るような笑顔で。大好きだったはずのバスケも、力を抜いて適当にこなしていて。
そして何より、自分の気持ちを言葉にしなくなっていた。海に行けないと泣き出すようになっていた。
あれほど言霊を信じて、夢を持っていた少女だったのに。俺に言霊を、信じることの大切さを教えてくれたのは彼女だったのに。
『────わたしのお母さんは、海で亡くなったの』
記憶の中の少女は母親のことが大好きだった。だから、これが彼女を狂わせたすべての始まりだったのだと分かったとき、この腕で抱きしめてやりたくなった。
海に行けなくなった理由は、自分が思っていたよりも遥かに残酷だった。海に行けないと泣き出した理由も、それでもなお憧れを抱く理由も、言葉にできなくなった理由も。何もかも分かってやることができていなかった。
『……わたし、蛙化現象、起こしちゃうの』
彼女が新たに抱える葛藤。
俺に想いを向けてくれていることは分かった。けれど、俺から彼女に想いを伝えることはできないと。
おそらく今この気持ちを伝えたら、彼女を困らせることになるだろう。
栞が俺を拒むのは、もし自分がまた蛙化現象を起こして、俺を傷付けたりしたくないからだろう。嫌われたくないからだろう。
無論、嫌うはずないけれど。
だって、どうしようもないくらい好きなのだ。簡単に嫌いになれるわけがない。栞にとっての『本当に好きな人』とやらが誰なのか、そんなことは到底分からないけれど、俺の可能性だって十分あるんじゃないのか。なんて、そんな言葉を軽く言えないのも、不器用な俺の性格だから仕方がない。
「栞ちゃん、天然なので。回りくどく言っても伝わりませんよ」
「いいんだよ今は。ゆっくり思い出せばいいんだ」
俺から昔のことを伝えようとは思わない。
またこうして巡り会えて、一緒にいられるだけで幸せなのだ。同じ時を共有して、綺麗なものを見て、そばにいられるだけでいい。成瀬栞という存在が、俺のそばで笑っていてくれたら、それだけで俺はもう十分幸せなのだ。
焦らずゆっくり年を重ねて、彼女の気持ちに向き合っていければそれでいい。そしていつか、俺が思っているような関係になれるかもしれないし、まったく違う形に落ち着くかもしれない。それでいいのだ。未来のことなんて誰にも分からないのだから。
「俺はあいつのすべてを受け入れてる。だから、何があってもそばにいる。……そばに、いたいんだ」
好きという感情が行き着く先は、すべてが付き合うことではない。俺たちのような関係性があってもいいだろう。
そばにいたい。あいつのとなりで、この世界を生きていきたい。
彼女と出会ったこの水縹色の空が広がる世界で、海の青が揺れる世界で、一緒に生きていきたい。
「だって俺、あいつのこと好きだから」
俺が幸せにしてやると決めている、大切な人。
もし仮に病院で出逢わなかったとしても、きっとどこかで巡り逢っている。そして、俺は彼女を好きになっているはずだ。なぜだかそんな確信があった。
小さい頃の出来事がなかったとしても、俺はずっと成瀬栞が好き。成瀬栞という存在に、たまらなく惹かれている。一緒にいればいるほど、どんどん好きになって、離れがたくて、愛しいとさえ思う。
『お前、俺のこと好きになるよ』
やっとたどり着けた、再び巡り逢うことができたあの日を俺は一生忘れない。
このまま時が止まればいいのに。
彼女と過ごす日々の中で、何度そう思ったことだろう。
どの日もすべてが輝いていて、言葉じゃ表せないほど嬉しかった。俺にとって、泣きたくなるほど大切なものだった。
「私……星野くんには敵わない気がします」
小鞠が笑いながら空を見上げた。春空に目を向ける小鞠の横顔はすっきりとしていた。
「当たり前だろ」
強気に返しておいた。澄み渡る青空はどこまでも広がっていて終わりがない。これほどまでに強力な恋敵がいたということは、生涯俺の誇りになるだろう。
「……ふふっ、星野くんらしい」
花信風に髪が揺れる。そんな小鞠の呟きは、澄み渡る青空に溶けて消えていった。