◇
「それではよい春休みを」
そんな担任の言葉を聞いて、クラスが喧騒に包まれる。修了式を終え、やっと終わった、と安堵すると同時に、こうしてはいられないとすぐさま立ち上がり、教室から出て行こうとする存在に手を伸ばして細い腕を掴む。
「……っ!」
顔を向けないまま息を呑む彼女。
「話があるの。お願いだから、逃げないで……」
避けられるのは、つらい。大切な人だから、余計に苦しくて悲しい。
弱々しい呟きに、彼女が小さな肩を震わせる。それから静かに息を吐き出して、くるっと振り返った。久しぶりに視線が絡み合って、ただそれだけのことなのに、無性に涙が出そうになった。
「……可奈」
やっと、こっちを向いてくれた。言葉にできない感動が心を震わせ、唇を噛みしめて溢れそうになる涙を堪える。
「ここじゃ話せないから、場所を変────」
「栞ちゃん」
名前を呼ばれ、ハッと可奈を見る。彼女はしばらく目を瞑っていたけれど、意を決したように目を開いてわたしをまっすぐに見つめた。
「栞ちゃんの家に行きたい。私も、話さないといけないことがあるの」
***
「ただいま」
返事がないことは分かっているけれど、ぽつりと呟いて家に入る。
「あ……どうぞ、入って」
「お邪魔します」
ゆっくりと靴を脱いだ可奈は、姿勢を正してわたしを見た。
「今日は家には?」
「お父さんがいる。お母さんは……いない」
それしか言えなかった。片親であるということを、わたしは未だ親友に言えていない。それはすべてわたしの弱さだ。告げることを怖がるような相手ではないのに、上手く言葉にできなくてこれまで何度も諦めてきた。
(だけど、いつかは)
そう思いながら、身を翻したとき。
「誰だ」
リビングからのそのそと現れたお父さんが、訝しげに可奈を見た。明らかに不機嫌なようすを隠せておらず、ひやりとこめかみに汗が滲む。
「……わたしの友達だよ、お父さん」
「初めまして。小鞠可奈です」
どこか緊張した面持ちの可奈は、お父さんをまっすぐに見つめた。その瞳には強い光を宿していて、何か大変なことが起こるような予感がする。
「何をしにきた。人をよんではだめだと言っていただろう。今すぐ帰れ」
「……っ、お父さん! そんな言い方しないでよ!」
まるで動物を追い払うかのように手で帰るよう促すお父さん。ああ、いつからこの人は、人としての態度すらおかしくなってしまったのだろう。
(いくらなんでも、可奈にその態度は、ない)
ブチッ、とわたしの中で何かが切れるような音がした。衝動的に言葉を発する。
「お父さ────」
「今日は、ご挨拶に来たんです。謝罪をしに、参りました」
わたしの言葉に被せるように言う可奈に首を傾げる。
挨拶、謝罪。
いったい何のことを言っているのだろうと可奈を見ると、可奈はリビングをまっすぐに見ていた。
正確には────仏壇のある方を。
「栞ちゃん」
「えっ」
わたしに向き直った可奈は、鞄の中から小さな"何か"を取り出した。暗目でも光を放つそれは。かつて、わたしが。
「そんな……どうして」
目を見開くわたしの腕につけられたのは。母の。
「ずっと私が持ってて、ごめんなさい」
────海色の、ブレスレットだった。
「これって、お母さんの……でも、可奈がどうして」
鼓動が速くなっていくのが分かる。嫌な感覚がして、呼吸が浅くなっていく。可奈はわたしとお父さんを交互に見て、それから口を開いた。
「私は……一回死んだの。死ぬはず、だったんです」
一瞬、耳を疑った。
今のは本当に可奈の口から出た言葉なのか、もしそうだとしたらいったいどういう意味なのか。
え、と声が洩れる。目を見張るわたしを見つめ返した可奈は、静かに目を伏せた。長い睫毛が影をつくる。音を出すのを迷うように、その唇は震えていた。次の瞬間、きらりと光る透明な粒が、可奈の目から零れ落ちた。
可奈は意を決したように息を吸って、言葉を紡ぎ出す。
「……昔、私は海で溺れて」
ひやりと背中を汗が伝う。この先を聞きたいような、聞きたくないような、聞かなければならないような、そんな気持ちが混ざり合う。だんだん呼吸が浅くなって、心音が速くなっていくのが分かった。思わず胸に手を当てて、まっすぐに可奈を見つめる。
「そのとき……助けてもらったんです。一人の、女性に」
記憶を辿る可奈は、ゆっくりと話しだした。
◇
【可奈side】
ドボン。
そんな音がしたときには、身体を海水が包み込んでいた。口の中に水が入ってきて、ボコボコと泡だけが海面にのぼっていく。
あれだけ海の近くには行くなと言われていたのに、どうして近づいたりしたのだろう。そんな後悔はあとからあとから生まれてくるもので。
……助けて。
そんなこと、思ってはいけない。これは自業自得なのだから。そう分かっていても、無意識に手は救いを求めて。遠くなってゆく水面は光を受けて煌めき、泣きたくなるほどに綺麗だった。
ドボンッと二度目の音がしたとき。強い力で引かれて、一瞬顔が空気に触れた。勢いよく酸素を吸い込んだその瞬間、私の腕を掴んでくれた女性の顔が視界に映る。
若い女性だった。私のお母さんと同じ歳くらいの、綺麗な女の人。
「……ごめ……ね、し……お、り」
海水が女性の身を包む寸前、小さく放たれた言葉。口の中に水が入るのも構わず、顔を歪めながら。目で光ったのは、海水か否か。朦朧とする意識、脱力していく身体。
そんな私の手にやや強引に握らせられた────海色のブレスレット。
次の瞬間、女性は私の身体を力強く押した。掴まれていた手が離れるその刹那。ぼやける視界の中、私が捉えたのは。
安心したようにゆるりと緩んだ頬。自分の命がなくなってしまいそうな状況にも関わらず、柔らかな眼差し。凪のような、あたたかさ。
……生きて。
声は、聞こえていなかったと思う。けれど、そのわずかな口の動きが、私が見た最後のものだった。
気がついたら私は助かっていて。訊けば、その女性は未だ見つかっていないということだった。私の手には海の色をしたブレスレットが握られていた。
「可奈!」
「本当によかった…!」
顔面蒼白で飛んできた両親がぎゅっと私の身体を抱きしめる。私の無事を喜んでくれる人がいるように、あの女性の帰りを待つ人たちだっている。それなのに、私のせいで悲しい思いをする人たちがいるかもしれない。
大きな罪悪感で潰れそうだった。いっそ死んでしまおうか、私は人を殺してしまったかもしれない。そう何度も間違った道を進もうとした。
けれど。
……生きて。
あの人に守ってもらった命は無駄にするわけにはいかない。その一心で、ここまで生きてきた。いつかまたその女性に会えることを信じて。
◇
「……そうか、君が」
お父さんが震える唇で言葉を紡ぎながら、可奈の肩を掴んだ。
「……はい。私が、栞ちゃんのお母さんに助けていただいた人間です。私がっ、栞ちゃんのお母さんを殺した、人間です……っ」
涙声のまま、可奈が一息で告げる。
可奈が、お母さんに救われた子だった。お母さんが救った子供は、可奈だった。その事実がなかなか上手く結びついてくれなくて、わたしはただ呆然と二人を見ているしかなかった。お父さんは何も言わず、ただまっすぐに可奈を見つめた。
「許してくださいなんて、そんな都合のいいことは言いません。何度謝っても許してもらえないほどの重い罪だってことは分かっています。本当に、本当にすみませんでした……!!」
可奈の声は震えていた。それは、お父さんとわたしの反応が怖いからだろう。足が震えていて、よほど恐怖を感じているのだ、と気がつく。
「私は……栞ちゃんが好きです。友達としてじゃなくて、恋愛として好きなんです。好きで好きでたまらないんです。栞ちゃんのことを思うと胸がギュッとして、どうしていいか分からなくなります。栞ちゃんを失うと思うと、怖いです。想像できないくらい、悲しくて、苦しいです」
ヒュッ、と小さく息を吸って、可奈は続ける。
「あなたにとってどんなに大切な人を奪ってしまったんだろうって、ずっとずっと考えてきました。後悔なんて言葉で片付けられないほど、罪悪感なんてものじゃないくらい、苦しくて。正直、何度も死のうと思いました。生きてる価値なんて私にはないなって、思ったんです」
お父さんの目が見開かれる。その瞳をじっと見つめ返して、可奈はその先を続けた。
「でも、こんな私を助けてくれた女性のために、私は生きていかなきゃいけない。どんなにつらくても、私一人の生命じゃないから。そう思って、ずっとずっと生きてきました。そして、高校生になって栞ちゃんに出会いました。出会った日に────好きになりました」
「……」
「一緒にいるうちにどんどん好きになっていって、いつからか自分は栞ちゃんとともにある、って思うようになりました。栞ちゃんがいないとだめだって、思うようになったんです。栞ちゃんがいないと生きていけないって思うようになりました。そこで改めて自分が犯した罪の重さに気付きました。私は誰かが死ぬほど愛する存在を、奪ってしまったんだって」
涙を零す可奈は、まっすぐにわたしを見つめた。迷いのない瞳にはわたしが映っている。それからゆっくりとお父さんに瞳を流し、小さく息を吸ってその先を続けた。
「栞ちゃんが悲しい思いをするのは嫌なんです。あなたが私を恨むのも、殺したいと思うのも、仕方のないことだと思います。でも栞ちゃんのことは、栞ちゃんのことだけは!!」
可奈の声とは思えない大きな声で、お父さんに可奈が強く言葉を発した。それから泣き出すような口調に変わる。
「……お願いだから、大切にしてあげてください。孤独にしないであげてください。もう、悲しそうにしている栞ちゃんを見るのは嫌なんです」
見破られていた。孤独な部分は隠せていたと思っていたのに。詳細ははっきりと分からなくても、可奈は違和感を覚えていたのだ。
「お願いします。私にこんなこと言う資格なんてないですけど、私なんかにお願いされても嫌でしょうけど、それでもお願いします。私にはこれしかできないんです。どうか、また家族に戻ってください。栞ちゃんのお母さんもそれを望んでいるはずです。お願いします。栞ちゃんを救えるのは、栞ちゃんのお父さん、あなたしかいないんです……」
零れる涙は留まることを知らない。可奈の悲痛な叫びが廊下に響く。
それから、しばらくの静寂が降りた後。
「……凪海は」
ぽつりと。お父さんが俯いたままくぐもった声で呟く。
「子供が、大好きだった。仕事であまり家にいられない俺の代わりに、こいつの面倒を見ていた。こいつの名前も……凪海がつけたんだ」
初めて聞く話だった。一言一句聞き逃さないように、耳に意識を集める。
「とにかく子供を見るたびに顔を綻ばせるような女性だった。だから、君を助けられて嬉しく思っているだろう。君が負い目を感じることは何もないよ、小鞠さん」
お父さんは震える可奈を見つめたまま続ける。
「勇気を出して来てくれたんだろう。話しに来てくれたんだろう。そのことが何よりも嬉しいんだ」
「えっ」
目を見開いた可奈を見つめ返し、お父さんはその瞳を和らげた。
「決して後悔はしていないと思う。そういう女性だ、凪海は。そんな彼女だから、俺は好きになったんだ」
可奈の視線とお父さんの視線が絡み合う。お父さんの瞳に怒りの色はまったくなかった。
「君が生きていてくれるだけで嬉しい。凪海は君を守ることができた。それは彼女にとって本望だと思う。本当にありがとう」
呟いたお父さんは静かに、消えてしまいそうな微笑みを浮かべる。そして、ゆっくりとリビングに戻っていった。
「私には……お礼を言われる、資格なんて」
へなへなと脱力する可奈は細く息を吐いて、それから一粒の涙を零した。
「可奈……外に、出よう」
ブレスレットにそっと触れて、可奈を促す。静かに頷いた可奈はよろよろと立ち上がり、涙に濡れた顔のままわたしを追うように外に出た。
*
「前に栞ちゃんが星野くんと話している時、たまたま聞いちゃったの。だから気付いた。私を助けてくれたあの女性は、栞ちゃんのお母さんだって」
フェンスに寄りかかりながら可奈が呟く。目の前に広がる街と溶けそうな空を眺めながら、その話に耳を傾ける。
「その話を聞いたら私、なんてことしたんだろうって思った。告白の返事を聞く前に、ちゃんと伝えなくちゃって思った」
春めいた風が優しく頬を撫でる。広がる空は、薄青色に暗色が混ざる夕暮れの色。地平線に沈む太陽が鮮烈な紅を放ちながら、街を染め上げている。
「正直、怖かった。栞ちゃんのお母さんを奪ったのは私だって伝えたら間違いなく嫌われてしまうって思ったら、つらくて」
わたしに向き直った可奈が深く頭を下げる。わたしは何も言えずにただそのようすを見つめているしかなかった。
「本当にごめんなさい。私は許されないことをした。これは事実なの」
わたしはお父さんとは違う。大好きなお母さんが亡くなるきっかけとなった可奈を前にしてなんとも思わないかと言われたら、完全に首肯することはできない。可奈が溺れなければお母さんは亡くならなかったかもしれない。今もわたしのとなりで笑っていたのかもしれない。
そんなありえない世界線を思い浮かべてしまうと、どうしても複雑な気持ちになってしまう。
それでも、可奈がこれまでわたしにしてくれたことを思うと、善悪の判断など到底できなかった。可奈の話が本当なら、お母さんのことを知ったのは最近のことで、それまでは一人の友達としてあんなにも優しくしてくれていたということだ。罪滅ぼしや罪悪感からの行為ではないということだ。頭を下げたまま可奈は言葉を続ける。
「それでも、自分の気持ちを曲げたりはしない。私は栞ちゃんのことが好き。これは変わらない、揺るぎない気持ちだから」
どこまでもまっすぐで、ストレートな言葉だった。ストンと胸に届く。
「できることなら、私を受け入れてほしい。私が栞ちゃんを好きなように、私のことも好きになってほしい。友達としてじゃなくて、恋愛の意味で」
顔を上げた可奈は、まっすぐにわたしを見つめて、すうっと息を吸った。
「栞ちゃん、好きです。私と付き合ってください」
回りくどさも嘘もない。ただまっすぐな想い。
どうして結ばれない想いがあるのだろう。成就しない恋があるのだろう。同じ心を返してあげることができないのだろう。なんで愛の強さと返される想いは比例しないのだろう。
「……ごめん。可奈のことは友達として好きだけど、気持ちに応えることはできない。お母さんのことは関係なく、他に理由があるから」
はっきりと告げた。可奈に揺るがないものがあるように、わたしにも決して揺るがない気持ちがある。だんだん形になってゆくそれは、いつか彼に届くだろうか。
「恋人にはなれないけど……でも、すごく嬉しかった。ありがとう」
「……そっか。分かった」
「これまでと変わらず、は無理かもしれないけど、それでもわたしは可奈とずっと一緒にいたい」
どうしても見えない隔たりはできてしまって、想いを知った分、知られた分、互いに思うところは変わってくるかもしれない。けれど、そばにいたいという気持ちだけは、これまでもこれからも変わらない。
ふわっ、と笑った可奈は「私も」と呟いた。彼女を抱きしめようとして、ふと動きを止める。
もしかすると、無意識のうちにしていた動作のひとつひとつに、毎度可奈はドキドキしていたのかもしれない。仲がいい故に近かった距離。思い返してみれば、可奈の動作がぎこちなく感じられることが多々あった。
「栞ちゃん、大好きっ」
わたしが抱きしめるより先に可奈が勢いよく抱きついてきた。
「わっ……」
「世界でいちばん大好きだよ!」
今まではどこか遠慮があるような、妙によそよそしかった可奈。ようやく何かが吹っ切れたようだった。
「わたしも可奈のこと大好き。誰よりも大切に思ってるよ」
そっと告げると、可奈は少し切なそうに、それでも嬉しそうに笑った。
「それではよい春休みを」
そんな担任の言葉を聞いて、クラスが喧騒に包まれる。修了式を終え、やっと終わった、と安堵すると同時に、こうしてはいられないとすぐさま立ち上がり、教室から出て行こうとする存在に手を伸ばして細い腕を掴む。
「……っ!」
顔を向けないまま息を呑む彼女。
「話があるの。お願いだから、逃げないで……」
避けられるのは、つらい。大切な人だから、余計に苦しくて悲しい。
弱々しい呟きに、彼女が小さな肩を震わせる。それから静かに息を吐き出して、くるっと振り返った。久しぶりに視線が絡み合って、ただそれだけのことなのに、無性に涙が出そうになった。
「……可奈」
やっと、こっちを向いてくれた。言葉にできない感動が心を震わせ、唇を噛みしめて溢れそうになる涙を堪える。
「ここじゃ話せないから、場所を変────」
「栞ちゃん」
名前を呼ばれ、ハッと可奈を見る。彼女はしばらく目を瞑っていたけれど、意を決したように目を開いてわたしをまっすぐに見つめた。
「栞ちゃんの家に行きたい。私も、話さないといけないことがあるの」
***
「ただいま」
返事がないことは分かっているけれど、ぽつりと呟いて家に入る。
「あ……どうぞ、入って」
「お邪魔します」
ゆっくりと靴を脱いだ可奈は、姿勢を正してわたしを見た。
「今日は家には?」
「お父さんがいる。お母さんは……いない」
それしか言えなかった。片親であるということを、わたしは未だ親友に言えていない。それはすべてわたしの弱さだ。告げることを怖がるような相手ではないのに、上手く言葉にできなくてこれまで何度も諦めてきた。
(だけど、いつかは)
そう思いながら、身を翻したとき。
「誰だ」
リビングからのそのそと現れたお父さんが、訝しげに可奈を見た。明らかに不機嫌なようすを隠せておらず、ひやりとこめかみに汗が滲む。
「……わたしの友達だよ、お父さん」
「初めまして。小鞠可奈です」
どこか緊張した面持ちの可奈は、お父さんをまっすぐに見つめた。その瞳には強い光を宿していて、何か大変なことが起こるような予感がする。
「何をしにきた。人をよんではだめだと言っていただろう。今すぐ帰れ」
「……っ、お父さん! そんな言い方しないでよ!」
まるで動物を追い払うかのように手で帰るよう促すお父さん。ああ、いつからこの人は、人としての態度すらおかしくなってしまったのだろう。
(いくらなんでも、可奈にその態度は、ない)
ブチッ、とわたしの中で何かが切れるような音がした。衝動的に言葉を発する。
「お父さ────」
「今日は、ご挨拶に来たんです。謝罪をしに、参りました」
わたしの言葉に被せるように言う可奈に首を傾げる。
挨拶、謝罪。
いったい何のことを言っているのだろうと可奈を見ると、可奈はリビングをまっすぐに見ていた。
正確には────仏壇のある方を。
「栞ちゃん」
「えっ」
わたしに向き直った可奈は、鞄の中から小さな"何か"を取り出した。暗目でも光を放つそれは。かつて、わたしが。
「そんな……どうして」
目を見開くわたしの腕につけられたのは。母の。
「ずっと私が持ってて、ごめんなさい」
────海色の、ブレスレットだった。
「これって、お母さんの……でも、可奈がどうして」
鼓動が速くなっていくのが分かる。嫌な感覚がして、呼吸が浅くなっていく。可奈はわたしとお父さんを交互に見て、それから口を開いた。
「私は……一回死んだの。死ぬはず、だったんです」
一瞬、耳を疑った。
今のは本当に可奈の口から出た言葉なのか、もしそうだとしたらいったいどういう意味なのか。
え、と声が洩れる。目を見張るわたしを見つめ返した可奈は、静かに目を伏せた。長い睫毛が影をつくる。音を出すのを迷うように、その唇は震えていた。次の瞬間、きらりと光る透明な粒が、可奈の目から零れ落ちた。
可奈は意を決したように息を吸って、言葉を紡ぎ出す。
「……昔、私は海で溺れて」
ひやりと背中を汗が伝う。この先を聞きたいような、聞きたくないような、聞かなければならないような、そんな気持ちが混ざり合う。だんだん呼吸が浅くなって、心音が速くなっていくのが分かった。思わず胸に手を当てて、まっすぐに可奈を見つめる。
「そのとき……助けてもらったんです。一人の、女性に」
記憶を辿る可奈は、ゆっくりと話しだした。
◇
【可奈side】
ドボン。
そんな音がしたときには、身体を海水が包み込んでいた。口の中に水が入ってきて、ボコボコと泡だけが海面にのぼっていく。
あれだけ海の近くには行くなと言われていたのに、どうして近づいたりしたのだろう。そんな後悔はあとからあとから生まれてくるもので。
……助けて。
そんなこと、思ってはいけない。これは自業自得なのだから。そう分かっていても、無意識に手は救いを求めて。遠くなってゆく水面は光を受けて煌めき、泣きたくなるほどに綺麗だった。
ドボンッと二度目の音がしたとき。強い力で引かれて、一瞬顔が空気に触れた。勢いよく酸素を吸い込んだその瞬間、私の腕を掴んでくれた女性の顔が視界に映る。
若い女性だった。私のお母さんと同じ歳くらいの、綺麗な女の人。
「……ごめ……ね、し……お、り」
海水が女性の身を包む寸前、小さく放たれた言葉。口の中に水が入るのも構わず、顔を歪めながら。目で光ったのは、海水か否か。朦朧とする意識、脱力していく身体。
そんな私の手にやや強引に握らせられた────海色のブレスレット。
次の瞬間、女性は私の身体を力強く押した。掴まれていた手が離れるその刹那。ぼやける視界の中、私が捉えたのは。
安心したようにゆるりと緩んだ頬。自分の命がなくなってしまいそうな状況にも関わらず、柔らかな眼差し。凪のような、あたたかさ。
……生きて。
声は、聞こえていなかったと思う。けれど、そのわずかな口の動きが、私が見た最後のものだった。
気がついたら私は助かっていて。訊けば、その女性は未だ見つかっていないということだった。私の手には海の色をしたブレスレットが握られていた。
「可奈!」
「本当によかった…!」
顔面蒼白で飛んできた両親がぎゅっと私の身体を抱きしめる。私の無事を喜んでくれる人がいるように、あの女性の帰りを待つ人たちだっている。それなのに、私のせいで悲しい思いをする人たちがいるかもしれない。
大きな罪悪感で潰れそうだった。いっそ死んでしまおうか、私は人を殺してしまったかもしれない。そう何度も間違った道を進もうとした。
けれど。
……生きて。
あの人に守ってもらった命は無駄にするわけにはいかない。その一心で、ここまで生きてきた。いつかまたその女性に会えることを信じて。
◇
「……そうか、君が」
お父さんが震える唇で言葉を紡ぎながら、可奈の肩を掴んだ。
「……はい。私が、栞ちゃんのお母さんに助けていただいた人間です。私がっ、栞ちゃんのお母さんを殺した、人間です……っ」
涙声のまま、可奈が一息で告げる。
可奈が、お母さんに救われた子だった。お母さんが救った子供は、可奈だった。その事実がなかなか上手く結びついてくれなくて、わたしはただ呆然と二人を見ているしかなかった。お父さんは何も言わず、ただまっすぐに可奈を見つめた。
「許してくださいなんて、そんな都合のいいことは言いません。何度謝っても許してもらえないほどの重い罪だってことは分かっています。本当に、本当にすみませんでした……!!」
可奈の声は震えていた。それは、お父さんとわたしの反応が怖いからだろう。足が震えていて、よほど恐怖を感じているのだ、と気がつく。
「私は……栞ちゃんが好きです。友達としてじゃなくて、恋愛として好きなんです。好きで好きでたまらないんです。栞ちゃんのことを思うと胸がギュッとして、どうしていいか分からなくなります。栞ちゃんを失うと思うと、怖いです。想像できないくらい、悲しくて、苦しいです」
ヒュッ、と小さく息を吸って、可奈は続ける。
「あなたにとってどんなに大切な人を奪ってしまったんだろうって、ずっとずっと考えてきました。後悔なんて言葉で片付けられないほど、罪悪感なんてものじゃないくらい、苦しくて。正直、何度も死のうと思いました。生きてる価値なんて私にはないなって、思ったんです」
お父さんの目が見開かれる。その瞳をじっと見つめ返して、可奈はその先を続けた。
「でも、こんな私を助けてくれた女性のために、私は生きていかなきゃいけない。どんなにつらくても、私一人の生命じゃないから。そう思って、ずっとずっと生きてきました。そして、高校生になって栞ちゃんに出会いました。出会った日に────好きになりました」
「……」
「一緒にいるうちにどんどん好きになっていって、いつからか自分は栞ちゃんとともにある、って思うようになりました。栞ちゃんがいないとだめだって、思うようになったんです。栞ちゃんがいないと生きていけないって思うようになりました。そこで改めて自分が犯した罪の重さに気付きました。私は誰かが死ぬほど愛する存在を、奪ってしまったんだって」
涙を零す可奈は、まっすぐにわたしを見つめた。迷いのない瞳にはわたしが映っている。それからゆっくりとお父さんに瞳を流し、小さく息を吸ってその先を続けた。
「栞ちゃんが悲しい思いをするのは嫌なんです。あなたが私を恨むのも、殺したいと思うのも、仕方のないことだと思います。でも栞ちゃんのことは、栞ちゃんのことだけは!!」
可奈の声とは思えない大きな声で、お父さんに可奈が強く言葉を発した。それから泣き出すような口調に変わる。
「……お願いだから、大切にしてあげてください。孤独にしないであげてください。もう、悲しそうにしている栞ちゃんを見るのは嫌なんです」
見破られていた。孤独な部分は隠せていたと思っていたのに。詳細ははっきりと分からなくても、可奈は違和感を覚えていたのだ。
「お願いします。私にこんなこと言う資格なんてないですけど、私なんかにお願いされても嫌でしょうけど、それでもお願いします。私にはこれしかできないんです。どうか、また家族に戻ってください。栞ちゃんのお母さんもそれを望んでいるはずです。お願いします。栞ちゃんを救えるのは、栞ちゃんのお父さん、あなたしかいないんです……」
零れる涙は留まることを知らない。可奈の悲痛な叫びが廊下に響く。
それから、しばらくの静寂が降りた後。
「……凪海は」
ぽつりと。お父さんが俯いたままくぐもった声で呟く。
「子供が、大好きだった。仕事であまり家にいられない俺の代わりに、こいつの面倒を見ていた。こいつの名前も……凪海がつけたんだ」
初めて聞く話だった。一言一句聞き逃さないように、耳に意識を集める。
「とにかく子供を見るたびに顔を綻ばせるような女性だった。だから、君を助けられて嬉しく思っているだろう。君が負い目を感じることは何もないよ、小鞠さん」
お父さんは震える可奈を見つめたまま続ける。
「勇気を出して来てくれたんだろう。話しに来てくれたんだろう。そのことが何よりも嬉しいんだ」
「えっ」
目を見開いた可奈を見つめ返し、お父さんはその瞳を和らげた。
「決して後悔はしていないと思う。そういう女性だ、凪海は。そんな彼女だから、俺は好きになったんだ」
可奈の視線とお父さんの視線が絡み合う。お父さんの瞳に怒りの色はまったくなかった。
「君が生きていてくれるだけで嬉しい。凪海は君を守ることができた。それは彼女にとって本望だと思う。本当にありがとう」
呟いたお父さんは静かに、消えてしまいそうな微笑みを浮かべる。そして、ゆっくりとリビングに戻っていった。
「私には……お礼を言われる、資格なんて」
へなへなと脱力する可奈は細く息を吐いて、それから一粒の涙を零した。
「可奈……外に、出よう」
ブレスレットにそっと触れて、可奈を促す。静かに頷いた可奈はよろよろと立ち上がり、涙に濡れた顔のままわたしを追うように外に出た。
*
「前に栞ちゃんが星野くんと話している時、たまたま聞いちゃったの。だから気付いた。私を助けてくれたあの女性は、栞ちゃんのお母さんだって」
フェンスに寄りかかりながら可奈が呟く。目の前に広がる街と溶けそうな空を眺めながら、その話に耳を傾ける。
「その話を聞いたら私、なんてことしたんだろうって思った。告白の返事を聞く前に、ちゃんと伝えなくちゃって思った」
春めいた風が優しく頬を撫でる。広がる空は、薄青色に暗色が混ざる夕暮れの色。地平線に沈む太陽が鮮烈な紅を放ちながら、街を染め上げている。
「正直、怖かった。栞ちゃんのお母さんを奪ったのは私だって伝えたら間違いなく嫌われてしまうって思ったら、つらくて」
わたしに向き直った可奈が深く頭を下げる。わたしは何も言えずにただそのようすを見つめているしかなかった。
「本当にごめんなさい。私は許されないことをした。これは事実なの」
わたしはお父さんとは違う。大好きなお母さんが亡くなるきっかけとなった可奈を前にしてなんとも思わないかと言われたら、完全に首肯することはできない。可奈が溺れなければお母さんは亡くならなかったかもしれない。今もわたしのとなりで笑っていたのかもしれない。
そんなありえない世界線を思い浮かべてしまうと、どうしても複雑な気持ちになってしまう。
それでも、可奈がこれまでわたしにしてくれたことを思うと、善悪の判断など到底できなかった。可奈の話が本当なら、お母さんのことを知ったのは最近のことで、それまでは一人の友達としてあんなにも優しくしてくれていたということだ。罪滅ぼしや罪悪感からの行為ではないということだ。頭を下げたまま可奈は言葉を続ける。
「それでも、自分の気持ちを曲げたりはしない。私は栞ちゃんのことが好き。これは変わらない、揺るぎない気持ちだから」
どこまでもまっすぐで、ストレートな言葉だった。ストンと胸に届く。
「できることなら、私を受け入れてほしい。私が栞ちゃんを好きなように、私のことも好きになってほしい。友達としてじゃなくて、恋愛の意味で」
顔を上げた可奈は、まっすぐにわたしを見つめて、すうっと息を吸った。
「栞ちゃん、好きです。私と付き合ってください」
回りくどさも嘘もない。ただまっすぐな想い。
どうして結ばれない想いがあるのだろう。成就しない恋があるのだろう。同じ心を返してあげることができないのだろう。なんで愛の強さと返される想いは比例しないのだろう。
「……ごめん。可奈のことは友達として好きだけど、気持ちに応えることはできない。お母さんのことは関係なく、他に理由があるから」
はっきりと告げた。可奈に揺るがないものがあるように、わたしにも決して揺るがない気持ちがある。だんだん形になってゆくそれは、いつか彼に届くだろうか。
「恋人にはなれないけど……でも、すごく嬉しかった。ありがとう」
「……そっか。分かった」
「これまでと変わらず、は無理かもしれないけど、それでもわたしは可奈とずっと一緒にいたい」
どうしても見えない隔たりはできてしまって、想いを知った分、知られた分、互いに思うところは変わってくるかもしれない。けれど、そばにいたいという気持ちだけは、これまでもこれからも変わらない。
ふわっ、と笑った可奈は「私も」と呟いた。彼女を抱きしめようとして、ふと動きを止める。
もしかすると、無意識のうちにしていた動作のひとつひとつに、毎度可奈はドキドキしていたのかもしれない。仲がいい故に近かった距離。思い返してみれば、可奈の動作がぎこちなく感じられることが多々あった。
「栞ちゃん、大好きっ」
わたしが抱きしめるより先に可奈が勢いよく抱きついてきた。
「わっ……」
「世界でいちばん大好きだよ!」
今まではどこか遠慮があるような、妙によそよそしかった可奈。ようやく何かが吹っ切れたようだった。
「わたしも可奈のこと大好き。誰よりも大切に思ってるよ」
そっと告げると、可奈は少し切なそうに、それでも嬉しそうに笑った。