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 差し込む光が星野の横顔を照らす。窓の外から入ってきた風が彼の艶やかな黒髪を揺らし、まるで映画のワンシーンのようだ、と思う。

「……なんだよ、話って」

 まだどこかぎこちない星野。それほど一昨日の出来事が強烈だったのだろう。できることなら、一昨日の出来事はなかったことにして、これまでと同じ関係でいたい。そう思っているのに、どうしても星野とギクシャクしてしまうから、ちゃんと伝えるしかないと思った。

「実はあの雨の日……星野が最後に言ったこと、ちゃんと聞こえてなかったの」

 その瞬間、は?と星野が目を丸くする。

「だから、もしそのことを気にしてるんだったとしたら、聞こえてないから安心してほしい、っていうか……」

 星野は静かに目を伏せ、嘆息する。けれどそれは安堵だけではなさそうなものだった。
 まだ修復できていない、切れてしまったネックレスを胸の前で握りしめる。すると星野はガラスドームを一瞥し、おもむろに口を開いた。

「海、好きなのか」
「好き。だけど……嫌い」

 包み隠していた部分。目を背けていた部分。思い出したくない記憶。
 星野には、星野になら、話せるような気がした。

 彼に聞いてほしい。彼に伝えたい。この思いを、苦しみを、彼になら。

────きっと吐き出せる。

「星野にね……聞いてほしい話があるの。聞いてくれる?」

 窓の外を見る星野のとなりに並ぶ。彼はまっすぐに空を見上げていた。だんだん夕方に近づき、わずかに紫がかる空が、星野の瞳に映っている。表情ひとつ変えない星野にちらりと視線をやって、それからわたしはゆっくりと、どこまでも広がる空を見上げた。

「────わたしのお母さんは、海で亡くなったの」

 どうしたって、言葉にすると唇は震えてしまう。その瞬間、星野の目がわずかに見開かれた。わたしは、星野の長い睫毛が微かに震えるのを見ながら続ける。

「溺れた子供を助けて、死んじゃった。正義感が強い人だったから、すぐに納得できた。お母さんなら迷わず助けるんだろうなって……助けたんだろうなって思ったから」

 強くて、優しくて、格好いい人だから。自分の身を投げてでも、迷わず飛び込むような人だから。

「……大好きだったんだ。お母さんのこと」

 事故当時、わたしは小学五年生で。
 お父さんがいて、お母さんがいる。朝はおはようを言い合って、いってきます、いってらっしゃいの挨拶をして、ただいまと言えばおかえりが返ってきて、おやすみを言って眠りにつく。そんな、ありふれた生活が、ずっと続くと思っていた。これからも続いていくのだと信じて疑わなかった。

「でも、その日の朝、たまたま喧嘩しちゃって」

 原因は、わたしの夜更かしだった。それを注意されただけの、ほんの些細な出来事。ただ、夜更かししていたのには訳があって。毎夜、お母さんの誕生日プレゼントを作っていたのだ。

 白くて細い腕に似合う、海色のブレスレット。
 海が大好きな母に渡せば、喜んでくれると思ったから。作り方を調べて材料を買って。学校に行っている時には作ることができないから、家に帰って夕食と入浴を済ませてから、夜な夜な作って。

「『早く寝なさい』って怒られた時、『お母さんのために頑張ってるのに』って思っちゃったんだよね」

 サプライズにするつもりだったからブレスレットのことは言えず。

「わたし、言っちゃったの。心にも思ってなかったのに、絶対に言っちゃ駄目だったのに」

 冷酷で、心無い言葉。大好きな親に向けるには鋭すぎる、許されない言葉。ちょっと感情が高ぶってしまったあの一瞬、とくに深い意味なんてなかった。本当にそうなればいいなんて思っていなかった。本当になるなんて、思いもしなかった。

『お母さんなんか、いなくなっちゃえばいいんだ!』

 その日は、恨めしいくらいに晴天で。そんな言葉をぶつけて、初めて挨拶をせずに家を出た。喧嘩をしてから一度も顔を合わせないまま、家を飛び出した。一番言わなければならなかったことも、言わないまま。

 お誕生日おめでとう。

 言葉にしなかったあの日のわたしを、今でもわたしは許したことは一度もない。言葉にしてはいけないことだけを口にして、肝心なことは言わないで。お母さんの仕事服のポケットに、そっとブレスレットを忍ばせて。

 帰ってから伝えればいいか、なんて。通学路を歩きながら、ちゃんと謝ればよかった、顔を見ておめでとうを言ってくればよかった、なんて。後悔に襲われながら、それでも根拠のない明日を信じて、何もしなかったのだ。
 あのとき引き返していれば。ちゃんと、ごめんなさいとおめでとうを伝えることができていたのなら、結末は、変わっていたのだろうか。わたしの大切なものは、すべて手の届かないところに消えてしまう。

「結局、お母さんの身体は見つからなかった。まあ、海の事故だから仕方ないのかもしれないんだけど、ね」

 わたしはまだ、お母さんに会えていない。あれから、声をかけるどころか、姿すらこの目に映すことができていない。

「ねえ、星野」

 窓の外を見ながら続ける。星野はただ黙って話を聞いてくれている。

「……お母さん、生きてるよね?」

 分かっている。
 そんな奇跡のようなことが起こるはずないって、十分すぎるほど理解している。だからこそ。

────生きてる。

 そんな偽りの励ましをくれるような人じゃないって分かっているからこそ、星野に弱音を吐いてしまった。星野なら、流してくれるだろうと思っていたから。わたしの精一杯の強がりを、受け止めてくれる人だって知っているから。

「たまに……思うんだ。お母さんは死んでなんかなくて、どこかで生きてるんじゃないかって。ひょっこり『栞!』なんてわたしの名前を呼んで、家に帰ってくるんじゃないかって」

 世界は広い。果てしない。だから、この世界のどこかに、いるんじゃないかって。
 そんなありえない希望を抱いてしまうほど、あまりにもあっけない別れだったから。突然のさよならだったから。

 もしこの世界のどこかで生きていたら……きっと海を見て笑っているんだろうな。だってお母さんは、海が大好きな人だから。真剣な眼差しでこちらを見ている星野を見つめ返して、無理やり口角を上げた。

「馬鹿だよね、わたし。そんなことをずっと思って生きてるの」

 お母さん。いなくなっちゃえばいいだなんて、わたし、本当はそんなこと思ってなかったんだよ。本当に思っていなかったからこそ、あんなに軽々と酷い言葉を言ってしまったの。
 お母さんはいつも優しすぎるから。その存在に甘えて。大好きなぬくもりを感じていられることが、当たり前だと疑いもせず。

「哀しい。それなのに、涙が出ないの。一度も、出ないの」

 わたしはまだ、お母さんを思って泣けていない。涙が出ないのだ。心にぽっかりと穴が空いてしまったようで、ひどく虚無感にかられても、涙が出ることはなかった。こんな娘、お母さんは許してくれないだろう。

『しおり。"ことだま"って知ってる?』
『ことだま……?』
『そう。言葉に宿る力のこと……って言っても、しおりにはまだはやいか』

 微笑むお母さんは、「でも、教えちゃう」と言って幼きわたしと視線を合わせた。

 まっすぐで、あたたかくて、柔らかい瞳。大きな木々で隠れてしまうわたしにそっと光を渡してくれるような、木漏れ日のような人。

『しおりが強く願って言葉にしたことは、いつか叶うの。想いが言葉にこもるのよ』
『想い……?』
『そう。だから、叶えたいことは口に出しなさい。強く願って努力すれば、必ずそれは叶うから』

 ふふ、と笑ったお母さんは、わたしを頭をゆっくりと撫でた。それから、『でも』と言い聞かせるように続ける。

『悪い言葉は口にしてはいけないの。それが本当になってしまったら嫌でしょう?』
『うん。それは、いやだ』
『だからねしおり。良い言葉を遣いなさい。これは、お母さんとの約束』

 うん、と頷いたわたしの頭を撫でながら、お母さんはゆっくりと目を細めた。何度も何度も優しく頭を撫でてくれる。あたたかくて、幸せで。わたしは確かに愛されていた。

「それなのに、わたしは約束を破った。お母さんとの唯一の約束だったのに、それさえも守れなかったの」

 海に行くのが、怖い。お母さんに連れられて行く海が大好きだったはずなのに。大好きな人が愛する海を、わたしも愛していたはずなのに。

 海は青い。
 そんな端的な事実でしか、記憶することができていない。思い出そうとしても、海の色はなくて。どこまでも無色で。だからわたしは、海に行くことができない。わたしは強くないから。お母さんに会いにいく資格なんて、ないから。
 自分の思いを口にするのも、だめだ。何か小さなことがきっかけで、言葉に思いがこもってしまったら困るから。もう二度と、周りの人を巻き込むわけにはいかない。だから、必死に抑えて、おさえて。

「前に……どうしてバスケをしているのかって話、したでしょ?」
「ああ」
「せめてもの罪滅ぼし、っていうのかな。わたしのお母さんはバスケットが大好きだったから、続けていればまた戻ってきてくれるのかな、なんて。最初は怖くてボールすら(さわ)れなくてね、だから部活も茶道部に入って、バスケとは縁のない生活をしてた。でも、兼部をお願いされたとき、神様からの思し召しなのかなって思って、始めたの」

 身長が味方をしてくれたのか、生まれながらの運動神経が味方をしてくれたのか、徐々にチームから必要とされるようになって。好きとか嫌いとか、そういうことが分からなくなっても母のために続けていた。

「俺は、さ」

 ふいに口を開いた星野を見つめる。彼はどこか遠くを見ながら、記憶を辿るようにぽつぽつと話しだした。

「────惚れた女を探すために、始めたんだ」

 意外すぎる理由に目を丸くすると、「笑うなよ」と釘を刺した星野は黙ってわたしを見つめ返した。コクコクと頷くと、星野は黄昏の空に視線を流す。

「昔一度だけ会った女が、バスケをやるんだって意気込んでた。俺を救ってくれた女だったんだ。そいつにもう一度会うために、俺はバスケをやってる」

 星野の抱える大きなものが、少しだけ見えたような気がした。たとえ星野という存在の片鱗に過ぎなくても、少しずつ星野を知っていきたいと思った。

「ふふっ」
「笑うなっつっただろ」
「だって、星野も意外と単純だなって。一度しかあったことのない女の人なのに、巡り会うためにバスケを続けてるんでしょ? バスケットの選手なんてたくさんいるし、同じ県に住んでいるかも分からないのに」
「女っつか……女の子、だな」
「じゃあ星野の初恋の人、なんだ」

 声を上げて笑うと、コツンとやや弱めに頭を小突かれる。

「馬鹿にすんなよ」
「ごめんごめん。でもちょっとだけ……可愛いなって。一途なんだね、星野って」
「言っとけ。……これでも成功してんだよ、一応」
「え?」
「なんでもねえよ」

 ぼそっと呟かれたことは上手く聞き取ることができなかった。また今度訊いてみよう。時間はたくさんあるのだから。小さく息を吸って、居心地の悪そうな顔をする星野に向き直る。

「この際だから、星野に全部言う。わたしが思っていることを口にできないのは……言霊が怖いからなの。またお母さんに言ったようなことを口走って、それが本当になってしまったら怖いから」
「言霊、ねえ……」

 ゆっくりと目を伏せた星野の薄い唇が、その言葉を紡ぐ。彼の髪が光に溶けて、淡く輝いている。

「だからできるだけ自分の気持ちを口にしないようにしてた。でも、結局溢れちゃうことが多かったんだけどね」

 言葉は刃物になる。それはときに、人の人生を変えるほどに強いものとなる。
 正しく使えば人を救うことだってできる。けれどわたしは、それすら怖くなって逃げてしまった。そんな怖いものだったら、最初から使わないほうがいい。そうすれば、いいことは起きなくても悪いことも起きないと思っていたから。

 でも、彼に出会って、少し変わった。いつだって正直に思いを言葉にのせて、まっすぐに向かってくる星野のそばにいたら、何かが変わるような気がした。

「星野、聞いてくれてありがとう。ほんと……すっきりした」

 人は誰かに聞いてもらうだけで、たとえ改善策や打開策、解決法が得られなかったとしても、こんなにも楽になるのだと。『話すだけで楽になることもある』なんて言葉が、うわべだけの言葉ではなかったのだと実感する。光に溶けてしまいそうな彼を目に焼き付けて、話を切り上げようとしたその時だった。

「嘘つけ」
「え……?」

 あっという間の出来事だった。くいっと腕を引かれ、ふわりと淡いシトラスの香りが鼻腔をくすぐる。

 気付けばわたしは彼の腕の中にいた。ふわり、とカーテンが揺れて、わたしたちの存在を隠すように重なる。

「……え、ほし────」
「まだ泣いてねえだろ」

 少しだけ掠れた低い声が、耳のすぐ横で響いている。ドク、ドクという鼓動の音が外に聞こえていないか心配になる。

「我慢すんなよ」

 その声が、あまりにも優しくて。抱きしめられたぬくもりが、あたたかくて。

「……っ」

 鼻の奥がツンとして、涙がじわりと滲んだ。

 どうして、この人は。なによりも欲しい言葉を、いつもわたしにくれるのだろう。

「大好きな母さんだったんだろ。誰だって普通に悲しいだろうが」
「……っ」
「海、誘ってごめんな。……無神経だった」

 違うよ、と言おうとした言葉は、より込められた腕の力によって止められる。

 今まで、泣いてはいけないと思っていた。お母さんは、わたしが殺してしまったようなものだから。そんなやつがいくら嘆いて泣いたところで、お母さんはもう戻ってこないから。
 それに泣いてしまったら、お母さんがもうこの世にいないということをはっきりと認めなくてはいけない気がして。二度と会えないんだって、決まってしまいそうで。だから怖くて涙が出なかった。

「……っ、う。うう……ああっ……」

 お母さん。お母さん、おかあさん。
 はやく、かえってきてよ。どこで何をしているの。

 わたしはあなたがいないと、だめなのに。あなたがいない世界で生きていくことが、こんなにも辛いなんて。

「ごめんなさい、お母さんっ……。わたしがあんなこと言ったから、死んじゃったの……? お願いだから戻ってきて、お願い、お願い……」

 会いたい。大好きだよ。
 帰ってきてくれたら、毎日そんな言葉を贈るから。止まってしまった砂時計をなおせるのは、お母さんだけなんだよ。わたしのものも、お父さんのものも。


 愛する人と、生涯を誓った大好きな人と二度と会えなくなるなんて、どんなに辛いことだろう。苦しくて、悲しくて、絶望することだろう。わたしに全てを理解することはできないけど、大切な人、特別な人ができた今なら想像することはできる。

 ふたりを失うと思うと……怖い。会えないだけで、言葉を交わせないだけでこんなにも辛いのに。苦しいのに。
 大切に、特別になればなるほど、離れがたくて、ずっと一緒にいたい。一生会えないなんて、そんなの耐えられるはずないんだ。

 人間は脆い。その脆さを寄り添って、与え合って、惹かれあって生きていくのに。その相手を突然失うなんて、だったらどうやって生きていけばいいのだろう。無理だ、そんなの。

「わたしは……幸せになっちゃだめなんだよ」

 好きな人に好きだと伝えられないのは、言葉にしてはいけないのは。幸せになってはいけないからだ。間違っても結ばれてはいけないからだ。涙が次から次から溢れて、止まらない。

「俺の好きなやつは……馬鹿で、くそ真面目で、なんかよく分かんねえことで泣くし、無理ばっかするし、すぐ変な顔するけど」

 星野の顔を見上げる。涙で前がよく見えなくても、相変わらず彼の瞳だけは美しくわたしの視界に映る。

「────笑ってる顔だけは、すげえ可愛いやつなんだよ。今も……昔も」

 ふわっ、と。
 星野の瞳が優しくなって、愛しさを含んだようなものに変わった。それだけで、彼にとってその子がどれほど大切なのか分かる。

「可奈とは昔からの、付き合いなの……?」

 涙声のまま訊ねると、星野は目を丸くした。それから小さく息を吐いて、ゆっくりとわたしの目を見つめる。

「言っとくけど、俺の好きなやつは小鞠じゃないからな」
「え……っ」

 星野は可奈のことが好きで、可奈も星野のことが好きだと思っていた。ふたりは両想いで、とても素敵なカップルになるのだと思っていた。けれど心のどこかで嫌だと思っている自分もいて。そんな自分自身の気持ちが、わからない。

「鈍いよな、ほんと」
「……え?」
「まあ、そのほうがいいのか」

 小さく呟かれた言葉を耳が拾う前に、星野はわたしの目を見つめ返す。

「だから……幸せになっちゃだめなやつなんて、この世に存在しねえよ」
「……どういう、こと」
「──── 今は分からなくていいよ。とにかく、俺はそいつのことを幸せにしてやれる。だから幸せになっちゃいけない人なんて、想いを拒絶する必要があるやつなんて、この世にひとりもいねえんだよ」

 耳元で、強く。それでいて、優しさを含んだ声で告げられた。

 窓から入ってくるのはあたたかな春風。
 わたしと彼が出会った季節だ。忘れられない、春。何度だって繰り返す、出会いの春。
 そんなあたたかい春に包まれて、そっと目を閉じた。


(このまま時が止まればいいのに)


 彼と一緒に、このまま。ずっとこの関係のままでいたい。
 それがたとえ甘えだと笑われてしまったとしても。きっと思うだけなら、許される。

 一瞬だけでいいんだ。この一瞬が、永遠に続いてくれればいい。
 揺れたカーテンが、重なる影を隠すように舞う。

「……っ」

 教室の戸のそば、聞こえた声すら。わずかに震える存在すら、隠すように。