目を開けると、そこは何もない世界だった。
「……っ」
否。何もないわけではなかった。
目に飛び込んできたのは、淡くグラデーションになっている空。少し触れれば溶けてなくなってしまいそうなくらい、柔らかそうな雲。はっきりと存在を主張する緑と、息を呑むほどの美しさを秘めた深紅の花々。
……ここはまるで。
かつてわたしが夢見た、どこかの世界。時間にとらわれない世界みたいだ。
「は……っ」
深く深く息を吐き出す。肩を揺らして、大きな呼吸をする。一歩、一歩と足を進めると、そのたびに足がとられるような感覚がする。まるで柔らかい毛布の上を歩いているような、そんな感覚。
疲れなんて溜まらないから、このままどこまでも歩いていけるような気がした。小さく首を動かして、空を見上げる。
紺青色、瑠璃色、茜色、浅葱色、水縹色。
複雑に混ざり合った空の色。今は朝か、昼か、はたまた夜か。
暁、真昼、黄昏、宵、小夜、深夜。
不思議なことに、どれをとっても頷ける世界だった。さまざまな時間帯の色が混ざり、判別が難しい空の色。
眺めながら、時間がないならその区切りすらないのだろう、と思い直す。冷たさと生ぬるさを含んだ風が、頬を撫でて通り過ぎていく。ふわりと微かに潮の香りがした。
「……あ」
一定のテンポを刻んでいた足が止まる。遠い遠い、遥か彼方に。
海が、見えた。思わず息を呑んで手を伸ばす。届かないのに、届くはずがないのに、ひたすら夢中で。
「何、やってるんだろう……」
ここはいったいどこなんだろう。現実の世界なのだろうか。
────いや、きっと夢の中なのだろう。そうじゃないと、こんな奇跡起きるはずない。
「……浸っていたいな、ここに」
夢ならどうか、醒めないで。ずっといたいよ、ここに。
何にも縛られない、頑張ることも、歯を食いしばることも、嫌な思いをすることもないこの世界は、わたしが憧れた世界だ。
絶望することもない、落胆することもない、逆に期待はずれだと思われる必要もない。周りの目、注目、そんなものをいっさい受けない、自由な場所。
ここにいられたら、どんなに楽でいられるだろう。
『────成瀬』
頭に直接響くように、わたしを呼ぶ声が聞こえてくる。
低くて芯があるのに、誰よりも柔らかくてあたたかみのある声。それは、鋭くも優しくもなってしまう魔法の力を持った声。わたしを何度も何度も救ってくれた声。
その声で形づくられる言葉に嬉しくなったり、悲しくなったり。怒ったこともあったし、ドキドキさせられることだってたくさんあった。
(ああ、わたし)
いつからこんなにも弱くなっていたのだろう。ここは、わたし自身が強く望んだ世界のはずなのに。広大な自然に囲まれて、わたしを叱る人なんて誰もいない。疲れることもないし、きっとお腹が空くこともないのだろう。それなのに、どうして。
寂しい、と。そんなことを、思ってしまうのだろう。
「────来い、成瀬」
ふと、近くから声が聞こえたような気がした。え、と思う暇もなく、素早く左手がとられる。戸惑うわたしをよそに、走り出す彼は。光に溶けてしまいそうな髪を揺らして、強く、あたたかく、手を引いてくれる彼は。
「戻ってこい」
繋いだ手に力を込めて、目を見張るわたしに、振り向くことなく告げた────。
*
「……っ!」
意識が浮上する。身体にはびっしょりと汗をかいていた。ドクドクとやけに速い心臓の鼓動が耳の奥で響いている。身体がだるい。頭痛と、喉の痛みと、わずかに吐き気がする。
完全に風邪をひいてしまった。その理由をぼんやりと考えて、昨日、馬鹿みたいに雨に打たれたことを思い出す。
「……そりゃ、風邪ひくよね」
なんともアホらしいことをしてしまった。そう思うのに、何故か満足している自分がいる。この風邪が昨日の代償なら、なかなか悪くないと思った。
「ふふっ」
笑いが込み上げてきた。寝転んだまま、感情に任せて笑みをこぼす。幸せな夢だった。それでいて、切ない夢だった。
あれからどうやって家に帰ったのだろう。断片的な記憶しかなくて、頭の中で繋いでみようと試みるけれど、おぼろげすぎてできなかった。
もしかすると、あれすらも夢なのかもしれない。
そんなことを思うけれど、寝ている自分がぎゅっと何かを握りしめていることに気付いて視線を落とす。そこには、切れてしまったガラスドームのネックレスがあった。
「夢じゃ……ない」
雨に打たれてネックレスを探したことも、星野が迎えにきてくれたことも、交わした言葉も。好きだと伝えたことも。すべて本当で、現実の話。
今日は学校に行けそうにない。お父さんに頼めそうになかったので、自分で欠席の連絡を入れた。
それから再びごろんと布団に横になる。ぼんやりと天井を見つめているとまた睡魔が襲ってきて、抗うことなく身を委ねた。
翌日。
一日中寝ていたためかすっかり体調が戻り、学校に行けるまで回復した。教室に入った瞬間、パッと可奈と視線が合う。けれどその次の瞬間、すっと逸らされてしまった。
……やっぱりまだだめか。
いつもそばにいてくれた彼女から避けられるというのは自分にとって相当心を抉られるらしく、落ち込んだ気分のまま、自分の席に座る。
「──あ」
引き出しの中に入っている何枚かのルーズリーフを見つけ、取り出す。そこには見慣れた達筆で休んだ分の授業の板書がされていた。この、字は。
そのとき、爽やかな柑橘系の香りとともに、黒髪の彼が目の前を通り過ぎた。ちらとわたしを一瞥して、それから何事もなかったかのように視線を戻して着席する。いつものことだけれど、それでも今日は少し気にかけられているような気がしたのは、わたしの勝手な勘違いだろうか。そう思いながら、ルーズリーフをファイルにしまう。
風邪、引かなかったんだ。まあ確かに身体、丈夫そうではあるけれど。
もう一度星野を見遣る。いつも通り、特別変わったようすもない星野だけれど、それでも。一昨日の出来事がリフレインし、ぶわっと頬が熱くなる。あれは星野だったけど、紛れもなく星野だったけれど、でも星野じゃなかった。
あんな表情が、あんな瞳ができるなんて、知らなかった。あんな星野、知らない。
ホームルームが終わり、教室が賑やかになったころ、わたしは意を決して星野の席に寄った。一昨日のことはどうせ星野にとってなかったことになっているだろうけれど、ルーズリーフのお礼を言わないのは違うと思ったからだ。
「星野」
名前を呼ぶと、流れた瞳がわたしを捉える。一昨日と変わらない海の色をした瞳。それでも今日はどこか不安げに揺れていて、こっちまで緊張してしまう。
「あの……ルーズリーフ、ありがとう」
「……馬鹿は風邪ひかないんじゃなかったのか」
「ばっ、馬鹿じゃないもん。星野、それって風邪ひかなかった自分のことを馬鹿って言ってるのと同じことだよ」
「そうか」
どうも会話がぎこちない。テンポが遅いというか、反応が薄いというか。完全に噛み合っていない。
好きだと伝えてしまったのだから、当たり前だ。蛙化現象のことを打ち明けてしまったから、当然だ。
今までどおりなかったことになんてできやしない。
どういう距離感で、どういう話をしていたんだっけ。色々なことがありすぎて、正しい彼との距離を思い出せなくなってしまった。
「あのね星野」
ガタン、と音を立てて立ち上がった星野を呼び止める。星野は静かにわたしを見つめた。じわりと汗が額に滲むのを感じながら、震える唇で言葉を紡ぐ。
「今日の放課後……話したいことがあるの」
「……っ」
否。何もないわけではなかった。
目に飛び込んできたのは、淡くグラデーションになっている空。少し触れれば溶けてなくなってしまいそうなくらい、柔らかそうな雲。はっきりと存在を主張する緑と、息を呑むほどの美しさを秘めた深紅の花々。
……ここはまるで。
かつてわたしが夢見た、どこかの世界。時間にとらわれない世界みたいだ。
「は……っ」
深く深く息を吐き出す。肩を揺らして、大きな呼吸をする。一歩、一歩と足を進めると、そのたびに足がとられるような感覚がする。まるで柔らかい毛布の上を歩いているような、そんな感覚。
疲れなんて溜まらないから、このままどこまでも歩いていけるような気がした。小さく首を動かして、空を見上げる。
紺青色、瑠璃色、茜色、浅葱色、水縹色。
複雑に混ざり合った空の色。今は朝か、昼か、はたまた夜か。
暁、真昼、黄昏、宵、小夜、深夜。
不思議なことに、どれをとっても頷ける世界だった。さまざまな時間帯の色が混ざり、判別が難しい空の色。
眺めながら、時間がないならその区切りすらないのだろう、と思い直す。冷たさと生ぬるさを含んだ風が、頬を撫でて通り過ぎていく。ふわりと微かに潮の香りがした。
「……あ」
一定のテンポを刻んでいた足が止まる。遠い遠い、遥か彼方に。
海が、見えた。思わず息を呑んで手を伸ばす。届かないのに、届くはずがないのに、ひたすら夢中で。
「何、やってるんだろう……」
ここはいったいどこなんだろう。現実の世界なのだろうか。
────いや、きっと夢の中なのだろう。そうじゃないと、こんな奇跡起きるはずない。
「……浸っていたいな、ここに」
夢ならどうか、醒めないで。ずっといたいよ、ここに。
何にも縛られない、頑張ることも、歯を食いしばることも、嫌な思いをすることもないこの世界は、わたしが憧れた世界だ。
絶望することもない、落胆することもない、逆に期待はずれだと思われる必要もない。周りの目、注目、そんなものをいっさい受けない、自由な場所。
ここにいられたら、どんなに楽でいられるだろう。
『────成瀬』
頭に直接響くように、わたしを呼ぶ声が聞こえてくる。
低くて芯があるのに、誰よりも柔らかくてあたたかみのある声。それは、鋭くも優しくもなってしまう魔法の力を持った声。わたしを何度も何度も救ってくれた声。
その声で形づくられる言葉に嬉しくなったり、悲しくなったり。怒ったこともあったし、ドキドキさせられることだってたくさんあった。
(ああ、わたし)
いつからこんなにも弱くなっていたのだろう。ここは、わたし自身が強く望んだ世界のはずなのに。広大な自然に囲まれて、わたしを叱る人なんて誰もいない。疲れることもないし、きっとお腹が空くこともないのだろう。それなのに、どうして。
寂しい、と。そんなことを、思ってしまうのだろう。
「────来い、成瀬」
ふと、近くから声が聞こえたような気がした。え、と思う暇もなく、素早く左手がとられる。戸惑うわたしをよそに、走り出す彼は。光に溶けてしまいそうな髪を揺らして、強く、あたたかく、手を引いてくれる彼は。
「戻ってこい」
繋いだ手に力を込めて、目を見張るわたしに、振り向くことなく告げた────。
*
「……っ!」
意識が浮上する。身体にはびっしょりと汗をかいていた。ドクドクとやけに速い心臓の鼓動が耳の奥で響いている。身体がだるい。頭痛と、喉の痛みと、わずかに吐き気がする。
完全に風邪をひいてしまった。その理由をぼんやりと考えて、昨日、馬鹿みたいに雨に打たれたことを思い出す。
「……そりゃ、風邪ひくよね」
なんともアホらしいことをしてしまった。そう思うのに、何故か満足している自分がいる。この風邪が昨日の代償なら、なかなか悪くないと思った。
「ふふっ」
笑いが込み上げてきた。寝転んだまま、感情に任せて笑みをこぼす。幸せな夢だった。それでいて、切ない夢だった。
あれからどうやって家に帰ったのだろう。断片的な記憶しかなくて、頭の中で繋いでみようと試みるけれど、おぼろげすぎてできなかった。
もしかすると、あれすらも夢なのかもしれない。
そんなことを思うけれど、寝ている自分がぎゅっと何かを握りしめていることに気付いて視線を落とす。そこには、切れてしまったガラスドームのネックレスがあった。
「夢じゃ……ない」
雨に打たれてネックレスを探したことも、星野が迎えにきてくれたことも、交わした言葉も。好きだと伝えたことも。すべて本当で、現実の話。
今日は学校に行けそうにない。お父さんに頼めそうになかったので、自分で欠席の連絡を入れた。
それから再びごろんと布団に横になる。ぼんやりと天井を見つめているとまた睡魔が襲ってきて、抗うことなく身を委ねた。
翌日。
一日中寝ていたためかすっかり体調が戻り、学校に行けるまで回復した。教室に入った瞬間、パッと可奈と視線が合う。けれどその次の瞬間、すっと逸らされてしまった。
……やっぱりまだだめか。
いつもそばにいてくれた彼女から避けられるというのは自分にとって相当心を抉られるらしく、落ち込んだ気分のまま、自分の席に座る。
「──あ」
引き出しの中に入っている何枚かのルーズリーフを見つけ、取り出す。そこには見慣れた達筆で休んだ分の授業の板書がされていた。この、字は。
そのとき、爽やかな柑橘系の香りとともに、黒髪の彼が目の前を通り過ぎた。ちらとわたしを一瞥して、それから何事もなかったかのように視線を戻して着席する。いつものことだけれど、それでも今日は少し気にかけられているような気がしたのは、わたしの勝手な勘違いだろうか。そう思いながら、ルーズリーフをファイルにしまう。
風邪、引かなかったんだ。まあ確かに身体、丈夫そうではあるけれど。
もう一度星野を見遣る。いつも通り、特別変わったようすもない星野だけれど、それでも。一昨日の出来事がリフレインし、ぶわっと頬が熱くなる。あれは星野だったけど、紛れもなく星野だったけれど、でも星野じゃなかった。
あんな表情が、あんな瞳ができるなんて、知らなかった。あんな星野、知らない。
ホームルームが終わり、教室が賑やかになったころ、わたしは意を決して星野の席に寄った。一昨日のことはどうせ星野にとってなかったことになっているだろうけれど、ルーズリーフのお礼を言わないのは違うと思ったからだ。
「星野」
名前を呼ぶと、流れた瞳がわたしを捉える。一昨日と変わらない海の色をした瞳。それでも今日はどこか不安げに揺れていて、こっちまで緊張してしまう。
「あの……ルーズリーフ、ありがとう」
「……馬鹿は風邪ひかないんじゃなかったのか」
「ばっ、馬鹿じゃないもん。星野、それって風邪ひかなかった自分のことを馬鹿って言ってるのと同じことだよ」
「そうか」
どうも会話がぎこちない。テンポが遅いというか、反応が薄いというか。完全に噛み合っていない。
好きだと伝えてしまったのだから、当たり前だ。蛙化現象のことを打ち明けてしまったから、当然だ。
今までどおりなかったことになんてできやしない。
どういう距離感で、どういう話をしていたんだっけ。色々なことがありすぎて、正しい彼との距離を思い出せなくなってしまった。
「あのね星野」
ガタン、と音を立てて立ち上がった星野を呼び止める。星野は静かにわたしを見つめた。じわりと汗が額に滲むのを感じながら、震える唇で言葉を紡ぐ。
「今日の放課後……話したいことがあるの」