星野side

 身体が悲鳴を上げている。心も悲鳴を上げている。
 いや、心は悲鳴を上げていなかった。上げることすらできないほどに、弱りきって廃れて、もう心が心ではなくなっていた。

 小学一年生、春。本来であれば、笑顔いっぱいで入学式をして、たくさん友達をつくって一緒に勉強して、身体をめいっぱい動かして。そんな、出会いの春。

(……どうせ、死ぬんだろうな)

 子供ながらに、漠然と考えていた。
 近いうちに、この命は尽きてしまうのだろうと。大人になることなどできないまま、寂しく可哀想な子供として死んでいくのだろうと。

 ─────急性リンパ性白血病。

 のちに聞いたところによると、俺の病気はそう言うらしい。小児がんとしては多くあげられるもののひとつで、血液が正常に働かなくなってしまうゆえに治療が困難で苦しいものであること。両親は当時病気について、細かいことはまったく教えてくれなかった。俺が抱えきれるものではないと判断したのだろうけれど、それでも俺はちゃんと言って欲しかった。何度も何度も問い詰めて、「血液の病気」ということだけは教えてもらうことができた。そして、何を根拠にか全く分からないが、「大丈夫。あなたは治るから」と口を揃えて俺に語りかけてきた。
 医療の進歩で昔は治らなかった病気も"治る病気"に変わりつつある今。それでも、この世界に絶対なんかない。そんなのは、ここに入院してから何度だって目にしてきた。誰もが死を感じさせないように強がって生きて、それでも最後には死に怯えて命を散らす。仲良くなった友達だって、何人も涙を流しながら空にのぼってしまった。俺もきっとひとり孤独に、外の世界を知らないまま死んでゆくのだろう。

 俺は淡々と、そんなふうに自分の未来を予測していた。希望を失う、というより、そもそも希望の持ち方を知らなかったのだ。

 俺の場合、割と初期の段階で病気が見つかったらしく、すぐに治療がスタートした。先行きの見えない不安、何をされるのか分からない不安、もし仮にこの病気が治ったとして、俺は今までのように普通の生活ができるのか。
 そもそも、普通ってなんだ?

 大きな闇に呑み込まれてしまいそうになって、何度も自分を強く持とうと頑張った。それでも、俺が抱えるにはやっぱり重すぎるもので。いや、誰が抱えたって重すぎるものだ。

 廊下の窓からぼんやりと外を眺める。広がっているのは、水縹色の空。どこまでも青くて、澄んでいて、美しい。この向こうには、いったいどんな世界があるのだろう。物心ついたときからここにいるから、小さい時の記憶なんてない。外を走った記憶も、太陽の下で遊んだ記憶も、何もない。
 うつむいて、つま先を見つめる。今は自分の足で立って、こうして歩くことができているのに。これから先、それすらできなくなってしまうのだろうか。
 希望は何ひとつとして持てないのに、絶望に伏すことだけはいくらでもできる。

 こわい。そんなことになってしまえば、きっともう終わりだ。

「ねえ」

 突然降ってきた声に、顔を上げる。そこには、にっこりと笑みを浮かべる一人の少女がいた。年は、自分と同じくらい。それでもお姉さんのようにも年下のようにも見えてしまう、不思議な雰囲気の子。小説や漫画のように形容するなら、花のような子だ、と思った。彼女の周りだけがふわふわとあたたかく、柔らかい空気に包まれているような気がした。優しげにこちらを見つめる瞳は慈愛に満ちていて、まるで自分とは正反対だ、と少しだけ恨めしく思ってしまう。
 黙って見つめていると、ふっくらとした彼女の唇がわずかに動く。

「海って、青いんだよ」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。

────海って、青いんだよ。

 だから、なんだって言うんだ。俺の病気が治らないことを知って、こんなことを言っているのだろうか。一生海を見ることなく死んでいく俺を可哀想だとでも思ったのだろうか。それならせめて、言葉で伝えてあげようと。そんな半端な優しさなんていらない。こいつも周りの人と同じ、俺に対して腫れ物を扱うように話しかけてくるのだと落胆すると同時に、そりゃそうかとどこか諦めのような気持ちもあって。

「だから……なに」

 そんな可愛げもない言葉が口をついた。それでも彼女は気分を害したようすもなく、にっこりと笑って告げた。

「いつか病気が治って元気になったら、一緒に海を見にいこう」

 何を言っているんだ。そんなの、できるわけないじゃないか。
 ふいに口から出そうになった言葉を飲み込む。あまりにもまっすぐな光を見ていると、自分の中の何かが狂ってしまうような気がした。"もしかしたら"なんて、そんなふざけたことを一瞬でも思いそうになった自分が情けない。
 うつむいたまま、事実だけを述べる。

「……治らないよ、俺の病気は」
「そんなことない! 絶対治るよ!」

 無邪気に笑うその少女は、自らの胸に手を当ててまっすぐに俺を見据えた。

「『ことだま』ってあるんだよ。信じれば、いつか本当になる」
「……ことだま?」

 お母さんが言ってたの!と笑うその顔は、今まで見た誰よりも輝いていた。眩しすぎるその笑顔に、ドク、と鼓動が何かを知らせるように、一度だけ跳ねた。

「わたしのお母さんはね、すっごいんだよ。海でお仕事をしててね、すっごくかっこいいんだあ」

 母親のことが大好きなんだろうな、と思った。それくらい、母のことが好きだという気持ちが彼女の身体中から溢れ出していたから。

『なんでこんな身体に産んだんだよ! 母さんのバカっ』

 いつかの日、そんな言葉を吐き捨ててしまったことがある。母さんははっと目を開いて、それから悲しげに瞳を伏せて肩を震わせて、

『……ごめんね』

 ただ、ひと言。そう呟いて、泣いた。

 違う。違うんだよ、母さん。本当はこんなこと言いたいんじゃないんだ。俺のために一生懸命頑張って、毎日寝不足の中俺の世話をしてくれているのを知っている。分かってるのに。
 だから、母親を大好きだとこんなにも胸を張って言える彼女が羨ましかった。俺とは正反対で、自分が惨めで仕方がなくて。

「わたし、バスケット部に入るって決めてるの」
「……ふぅん」
「わたしのお母さんはね、バスケが大好きなんだよ! だからね、わたしも、バスケがだーいすき!」

 屈託ない笑顔を向ける彼女は、とても幸せそうだった。大好きな母がいて、やりたいことがあって。俺とはまったく違うと思った。美しく飾られた世界を生きていると思った。

 いったい俺が何をしたっていうんだ。悪いことでもしたのか。辛い治療を受けなければならないほどに、命の危機に毎日怯えて過ごさなければならないほどに、悪いことを何かしたのか。
 どうして俺だったんだ。この子みたいに、俺だって毎日笑って過ごしたかったよ。母さんにあんな言葉を投げつけたかったわけじゃない。それなのに、どうして。

「────前、向いて」

 突如、あたたかい手で包み込まれた頬。その言葉と同時に、くいっと優しく上に持ち上げられる。

「……っ」

 至近距離で目が合った。ふわりと甘い香りが鼻をかすめる。優しい彼女にぴったりだと思った。

「下ばっかり向いてちゃだめだよ。前向いて」

 優しい瞳の中に、情けないほど惨めな顔の俺がいた。離れようとするけれど、彼女はそれよりも強い力で、俺の頬を掴んで離さない。

「君は強い。だから大丈夫だよ」

……大丈夫、だいじょうぶ。

 周りの人から何度言われても、まるで意味のない薄っぺらい言葉だったのに、彼女に言われたこの瞬間俺の中で何よりも強い言葉になったように、輪郭を持って耳に届いた。

「約束しよう。元気になったら、一緒に海を見にいくって」
「……っ」

 スッと迷いなく差し出された小指。触れたら折れてしまうんじゃないかって不安になるほど、細くて繊細な指だった。自然と、無意識のうちに指を伸ばしていた。キュッと絡められた小指、花が咲くような笑顔。

 ひとりの少年が恋に落ちるのには、十分すぎた。

「あ、もう行かなきゃ。じゃあ、また会おうねっ!」

 たたたっと走り去っていく少女の背中を見つめていると、彼女はふいにくるっと振り返って、またふわっと花のような笑みを浮かべる。

「海の約束、忘れちゃだめだからね! 君は強いよ!」

 それだけ言って満足そうにばいばい、と手を振る彼女は、最後の最後まで笑顔だった。廊下の角に小さな背中が消える。その瞬間まで、俺は目を離すことができなかった。

 『また』会おうね、か。ふっ、と自然と笑みが溢れる。

……大丈夫。俺は、強い。きっと、いや、絶対に。

「俺の病気は……治る。絶対に、治す」

 声に出して、強く心の中で思う。

『信じれば、いつか本当になる』

 もしかすると、もう二度と会えないかもしれない。俺の人生に舞い降りたひとりの天使だったのかもしれない。それでも。

「会いたい。いつか、もう一度」

 そのときは、一緒に海を見にいくんだ。今日交わした約束を果たすんだ。名前も知らない、どこに住んでいるのかも分からない、何歳かすら知らない。そんな女の子なのに。

 また会える。

 そんな絶対的な確信があった。
 病気が治って、奇跡的に再会できたとして、彼女が俺のことなんてすっかり忘れていたとしても。絶対に振り向かせてみせるし、一緒に海に行こうと誘う。言霊を信じて、俺は進むよ。どこまで続いているか分からない闇の中でも、懸命に前を向くから。叶ってほしいことは口にだして、心から願うから。
 だからもしこの願いが叶うなら────ずっと、君のそばにいたい。


 そして俺は九年後、水縹色の空の下で、再びその花と巡り合った。そっと触れるだけで折れそうなその花を、今度は俺が、空へ向かせてやろうと。強く、強く、そう思った。
 ゆっくりと息を吸って、その存在へと静かに告げる。


『お前────俺のこと好きになるよ』