雪が溶け、それでもまだ寒さは残る三月初旬。

 雨、降りそうだな。
 どんよりとした雲に覆われている空を見上げながら、重い足を前に進める。春に近付いているとはいえ、まだ寒さが和らぐわけではない。かといってマフラーをするのもなんだか気が引けて、首元には何も巻かない状態で風を感じながら歩を進める。

「……っ」
「あ、すんません」

 ドンッ、という衝撃が肩に走って、思わず顔を歪める。ぶつかってきたのはよく知らない男子だった。すらりとしているのにがっちりした肩まわりや、ガラス玉みたいな透明な瞳や、くっと引き結ばれた唇が、どことなく星野に似ている……ような気がした。一度小さく頭を下げて去っていく彼に悪気はまったくなさそうだったので、特に何も言うことなく会釈だけしておいた。


「……やっぱ、さみしいな」


 つい心の声が洩れてしまう。いつもとなりにいてくれる存在が、最近わたしのそばにはない。"あの日"から、可奈はわたしを避けるようになった。まだ何も言っていないのに、"言えていない"のに、強く拒絶されていて目を合わせることすらできていない。

 気を遣っているのだろうか。わたしが可奈のことを嫌いになったとでも思っているのだろうか。

 冷たい空気に、ほうっとあたたかい息を吐き出す。暗い空は街ごと包み隠してしまうように広がっている。

「……会いたい」

 怖いよね。嫌だよね。
 可奈がわたしを避ける理由のいちばんはきっとこれだ。わたしの口から、拒絶の言葉を聞くのが怖い。しかも相手は同性で、親友なのだから。可奈が抱える怖さは、わたしでは到底理解しきることはできない。
 それは、"告白する側"に立った者でないと、わかることなどできないのだろう。

 それでもわたしは、可奈に会いたい。可奈にとっていい返事をしてあげられてもあげられなくても、今のままでいたい、そばにいたいだなんて。
 そんなのは、わたしの勝手なわがままだろうか。


──
────
───────


「あれ……あれ、ないっ」

 異変に気付いたのは、日が沈んで少し経ったときのことだった。通学路を歩いて下校し、家に帰って首の周りに手をやったとき。あるものが"ない"ことに気付いたわたしは、必死に記憶を巡らせる。

……ないのだ。海色のガラスドームのネックレスが。

 いつも制服の下に隠して身につけていたネックレスがなくなってしまっている。

 どこかで落とした?
 今日の体育の授業のときも部活のときも、着替えるときにきちんと取り外したのを覚えている。着け忘れた……なんてことはないはず。ということは、失くしたのは通学路のどこかだ。
 もしかして、さっき男子とぶつかったときに切れてしまったのだろうか。けれど、ネックレスは何もしなくても切れるときは切れるって言うし……。
 そんなことをうだうだと考えている間にも、辺りは暗さを増していく。

「……探しにいこう」

 部活のジャージ姿のまま、家を飛び出す。暗い世界はいつだって、孤独の闇でわたしを包み込もうとしてくる。それでも。

「お願い、見つかって……」

 祈るような気持ちで呟きながら、ただ一筋の光を必死に探す。暗い道を、走って、走って。がむしゃらに、無我夢中で走る。

 それでも何も見つからないまま、学校のそばまで来てしまった。学校の門は固く閉ざされていて、わたしのかすかな希望でさえも一刀両断するようにどっしりと構えている。
これでは、中に入れない。

「あ……」

 ポツポツと空から粒が降ってくる。やがてそれは、一瞬にして激しいものに変わった。打ちつける雨が、わたしの髪やジャージを容赦なく濡らしていく。慌てて飛び出したため、傘を持っていなかった。

「どうしよ……」

 門から一歩後ずさる。
 これ以上は進めない。門が閉じているということは、そういうことだ。この先に進んではならない。もし進めば、見つかり次第先生に怒られてしまう。だから、だめだ。

 くるりと踵を返して、来た道を歩きだす。これでいいんだ。仕方ないじゃないか。天候も、時間も、なにひとつ味方してくれなかった。ネックレスだって、きっと明日探せば見つかる。通学路のどこかにあるのは確実なのだから、晴れた日にゆっくりと探した方がいい。
 たとえ見つからなくたって────。

「……っ」

 足が、止まった。止めようと思ったわけではないのに、地面に足が縫い付けられてしまったようにピタリと止まって動かなかった。身体が、心が、ここから離れることを拒絶している。

 だめでしょう、戻りなさい。

 そんな声が頭の中で響くような感覚がした。その声は、いったい誰のものなのか。自分のものじゃない。優しくて、懐かしくて、あたたかいその声は。間違った道を進もうとするわたしに、正しい道を教え諭すような、そんな響きをしていた。

『────また、なくすの?』

 柔らかく、それでもたしかな強さを秘めて。

 違うでしょう、間違っているでしょう、栞。

 雨音に紛れるようにして、それでもわたしの耳にはっきりと届いた声は、昔と変わらず穏やかで、強くて、落ち着いている。

『……進みなさい、栞』

 トンッ、と。
 わたしの背中を優しく押してくれた彼女(・・)は。

「……ありがとう」


 わたしがなくしてしまった────大好きな人。



 わたしの無駄な運動神経は、この日のために用意されていたのかな……なんて。大きく高いと思っていた門は、案外簡単に越えることができた。雨で濡れていたとしても、滑ることなく無事に敷地に入ることができて、幾分安堵する。
 生徒はもういない。先生は……どうだろう。数人残っているかもしれないけれど、これだけ暗いからきっと外のようすなんて見えやしないはずだ。

 男子とぶつかった場所まで、下を向きながら歩く。アスファルトは雨で黒く染まり、あたりいったい全て黒色の世界だ。
 空も黒、地面も黒、着ている部活の服も雨に濡れて黒、そんな中で降り注ぐ雨だけは透明なはずなのに、それでも空の色を通して黒く見えてしまうから。

「……まっくろ」

 そんな呟きすら雨に消されてしまう。

「なんか、わたしの世界みたい」

 どこにいっても、どんなときでも光なんて見えなくて。一度消えてしまったら、あかりは再びともることはない。そしてそのあかりを消してしまったのは、正真正銘、自分自身だ。
 もしもこの世に神様がいるのなら、どうか力を貸してください。
 あのガラスドームだけは、"なくしちゃいけないもの"なんです。
 今までなくしたものたちも、本当はすべて守りたかった。……けれどできなかった。

(わたしはもう二度と、同じ失敗を繰り返すわけにはいかない)

 だから、どうか、どうか。

「……あ」

 暗闇の中で、きらりと光ったものは海色。わたしの大好きな人を奪ったのも海色。わたしに愛を与えてくれたのも海色。わたしが恐れるものも海色。

 大切なものは、いつだって海色だった。

 近付いて、その"海色"を拾い上げようと屈む。けれど安堵からか、ガクンと膝から力が抜けてしまって。力なくその場に膝をついて降り注ぐ雨に打たれながら、そのガラスドームを握りしめる。濡れるとか、汚れるとか、そんなのはもうどうでもよかった。見つかるとか、怒られるとか、そんなこともどうでもいい。

 わたしがずっと恐れてきたもの、殻をかぶって守り続けてきた縛りは、これをなくすことに比べたらちっとも怖くない。そう思えてしまう圧倒的な存在に、きっとわたしは出逢ってしまった。

「……よかった、あった……」

 暗い世界。真っ黒な世界。どこまでいっても永遠と続く闇のような世界。
 ただ、そんな世界の中に唯一光るものがあったとすれば。消えてしまったあかりを、再びともしてくれる存在がいるとするならば。



「……何してんだよ、こんなとこで」



 それをわたしはきっと────特別、と呼ぶのだろう。