「栞!」
名前を呼ばれて、ドリブルしていた手を止める。胸の前で構えたボールを勢いよく押し出すと、ボールはまっすぐにキャプテンの手へと渡った。
「リバウンド!」
キャプテンがシュートを放った瞬間、体育館に響き渡る大きな声。
まだシュートが外れると決まったわけではないのに、"入らなかった"ときのために、選手たちは激しく身体をぶつけてポジションを競い合う。
……どうせ、入るのに。なんて無意味なことなんだろう。
こんなことを思っている中途半端な自分は、ここに立つのにふさわしくない。そう分かっていても、心の中で生まれる気持ちはどうしようもなかった。ぼんやりしていると、わたしの肩に相手の選手がぶつかってきた。
……痛い。本当にやめてほしい。
自分勝手な思考に堕ちていく。相手の選手はもちろん悪意など全くなく、額に汗をかきながら一生懸命わたしの身体をおさえようとしている。
小柄なのに、すごいな。
バスケが好きなのか、嫌いなのか。はたまたどちらでもないのか。
分かりきっているはずの答えを、その表情から読み取ろうとしてしまう。
くだらないことを考えているうちに、ボールは綺麗な弧を描いて、ゴールに吸い込まれていく。ナイシュー、とベンチから声が上がった。そしてまた地獄のディフェンスがやってくる。狭いコートの中を往復するのに加えて、ボールを扱わないといけないなんて。
走りながら、オレンジ色のゴールを見遣る。
あの小さな籠の中に、この球を入れる。たったそれだけのために、血が滲むような努力と練習を積む。
それなのに、一度も試合に出ることなく引退を迎える選手は山ほどいるのだ。
(なんて理不尽な世界なんだろう)
自分が「そっち側」ではないことに感謝しなければならないのかもしれない。
それでも。
……いったい何が楽しいんだか。
そう思わずにはいられなかった。
「おつかれ、栞ちゃん。ナイスアシストだったよ!」
「あ……うん。ありがと」
試合終了後。差し出されたドリンクを受け取ると、にこっと眩しい笑顔が向けられた。
彼女の名前は小鞠可奈。
わたしの親友である彼女は、わたしと同じバスケ部員で、試合後はこうしてサポートにまわってくれる。ベンチメンバーであるにも関わらず、試合に出ているわたしに嫌な顔をひとつもせず、話しかけにきてくれる。
「今日の相手はすごく強いところなのに、勝っちゃうなんて。このままいくと、今年は全国大会出場できちゃうかも」
ふわりと花が咲いたように、嬉しそうに笑う可奈。本当にバスケが好きなんだな、と心から思った。
「……いけたらいいね」
唇を震わせ、そう言うのが精一杯だった。可奈はこんなにも純粋に、わたしのことを応援してくれているのに。
なのに、わたしは。
「あ、男子はまだやってるよ」
可奈の声を受けて、ふと床に落としていた視線を上げる。可奈の視線を追うと、男子側のコートは、まだ試合の途中だった。目を凝らすと、点差は二点差でうちの学校が負けている。
「残り時間二十秒ってことは、ラストプレーじゃんっ」
きゃあっと可奈が声をあげた。接戦ということもあってか、ギャラリーからも他コートからも、多くの注目を浴びている。
ボールを持っているのはうちの学校だった。キャプテンがなにやら手で指示を出している。二十秒あれば、じゅうぶん攻める時間はある。確実に二点をとるか、あるいは。
(まさか、ね)
浮かびそうになった可能性を慌てて否定する。
さすがに無理だ。そんなことをできる選手なんていない。
……ただ一人を除けば、だけど。
タイマーの数字がどんどん小さくなっていく。
しばらくドリブルをついて様子を見ていたキャプテンが動き出すのと同時に、各場所に散らばっていた選手も動き出した。
残り、五秒、四秒、三秒。
キャプテンが中に切り込んでいく。
……やっぱり、二ポイントか。そりゃそうだ。
相手の学校はスタメンが継続して出ている。
つまり、相手のチームは体力がものすごく削られているということだ。
それに引き換えうちのチームは、同じ実力の選手を交代させながら使っていたため、バテるなんてことはないだろう。
一か八かにかけるより、延長戦に持ち込んだほうが良い。妥当な判断だ。
そう思った時だった。
キャプテンはレイアップのために上げていた右手を突然下げ、後ろにボールを飛ばした。
……え。
会場の空気がざわりと揺れるのと同時に、"彼"がそのボールを受け取る。
彼は────スリーポイントラインの外側にいた。
中からの攻撃を阻止すべくディフェンスが集まった隙をついての策だった。
……まさか。
ふと頭をよぎった策を確かめている時間なんてない、瞬きほどの一瞬に、彼は迷いなくシュート体勢をつくる。お手本のような、伸びやかで美しいシュート体勢だった。タイマーが0に変わる直前に、彼はシュートを放つ。
彼の手から離れたボールは美しい弧を描き、まっすぐゴールに吸い込まれていった。
そして、ブザーが鳴る。
会場全体から声が上がり、プレーをしていた選手もベンチにいた選手も全員が彼の元へ駆け寄った。彼は揉みくちゃにされながら、笑顔を浮かべるでもなく嫌そうな顔をするでもなく、無表情のままでいる。それでもハイタッチには素直に応じたり、先輩に声をかけられた時には礼儀正しく礼をしていて、周りの気分を害すようなことは何一つしていない。
「やっぱりエースだよねえ、星野くん」
輪の中心にいる彼を恍惚と見つめる可奈の声で、自分がしばらく彼を見つめていたことに気がついた。慌てて視線を戻して可奈を見ると、そこにはとろけそうな笑顔が咲いている。
「はあ……本当にかっこいい。いつかあんなふうになりたいなあ」
「別に……あの局面で普通スリー打つ? 無茶にもほどがあるでしょ」
先に口をつくのは非難の言葉。
心の中ではすごいと思っているのに、それを口に出すのはものすごく苦手だ。
……あの局面でスリーを打てる度胸があるのも、ちゃんと決める実力を兼ね備えているのも、本当はすごいと思うし尊敬している。
練習しているからこそ生まれる自信だということも、理解している。
「でもちゃんと決めきるんだもん。すごいなあ」
「まあ……うん」
曖昧に頷くのが精一杯な自分自身に嫌気が差す。
星野のことになると、わたしはなかなか素直になれない。
そんなことはいけないと、分かっているのに。
暗澹たる思いに陥っていると、となりで男子チームを眺めていた可奈が、「あっ、星野くんこっちくる!」と小さく声を上げた。声のトーンが上がり、可愛らしい声にさらに甘さが増す。
ぞろぞろと歩いてきた男子たちは、タオルで汗を拭きながら、アリーナを出ていくところだった。
その中に、星野もいる。
星野は試合終わりだというのに涼しい顔のまま、ユニフォームで汗を拭っていた。
「うわっ、腹チラとかご褒美じゃん。ねえ、栞ちゃん」
汗を拭ったせいで持ち上がったユニフォームとズボンの間から、割れた腹筋が一瞬、わずかにのぞいた。それを見た可奈が振り向いてわたしに同意を求めてくる。
男子の────しかも星野の腹を見て、いったい何がいいんだか。
わたしには到底理解できない、と思いつつ、曖昧に笑って誤魔化しておく。空気を悪くするようなことを言って、可奈との友情を壊したくはない。
星野がアリーナから出ていく瞬間、こちらに視線を向けた。
一瞬、目が合う。
周りの喧騒が消えて、何も聞こえなくなった。
まるで時間が止まったようなその数秒の後、どちらからともなく視線を逸らす。となりでは可奈が「今絶対こっち見たよね!?」と騒いでいる。
……ああ、何もかもが憂鬱だ。
きっと、いや、絶対に勘付かれている。力を抜いてプレーしたことを、絶対に気付かれてしまっている。
なんとなくそんな気がして、沈む気持ちを堪えるように、深く息を吐き出した。