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 ヒュー、と小さな音が聞こえた次の瞬間。

────ドンッ。

 視界いっぱいに、大きな花がひろがった。その迫力に、思わず息を呑む。呼吸が、止まったかと思った。あまりに美しくて、言葉が出なかった。目を見開いて、満開の花によって彩られている夜空を見つめる。

……こんなに、綺麗だったんだ。

 心臓の音と花火の音が、同じくらい大きく響いている。心が震えるほど感動したとき、声は声にならないのだと認識させられた。魂を抜き取られたように呆然としながら、空を瞳に映す。
 次々とあがる花火が、夜空を彩っていく。色鮮やかな世界が目の前に広がった。

「綺麗だね……」

 夜空を見上げながら、感嘆の声を洩らす可奈。その声を聞きながら、わたしは夜空から目を離せないでいた。

 花火なんて、小さい頃から何度も見ていた。花火を見たのは、決してこれが初めてではない。それなのに、どうしてこんなにも心が動かされるような気持ちになるのだろう。

 心にぽっかりと空いた隙間をあの一瞬で埋めてしまうような、そんな圧倒的な力。泣きたくなるくらい、綺麗で、美しくて。

 わたしの右には可奈、そして左には星野がいる。何にも代え難い二人が、ここにいる。
 そのことが、わたしの心をこんなにもあたたかくさせるのだ。二人がどんな顔をしているのかは分からないけれど、思っていることはきっと同じ。

────綺麗。

 それはわたしたちだけではなく、ここにいる人たちみんなが、同じように思っているはずだ。
 年齢や性別、歩んできた人生と、これから歩む人生。そんなものは別々で、まったく知らない人たちなのに。この瞬間だけは、同じものをみんなで見上げて、綺麗なものを共有している。同じ心の動きを体験して、誰もがこの景色を目に焼き付けている。

(それって、すごいこと)

 決して交わらない運命で、関わることのない人たちであったとしても、同じ時間を共有している。そんな連鎖の中で、わたしたちは生きている。

 このまま時が止まればいいのに。この幸せな一瞬が、永遠に続けばいい。

 そんな叶いもしないことを願いながら、わたしはただひたすら、夜空に溶ける大輪の(しずく)を見つめ続けていた。



「送ってくよ」

 そんな言葉が可奈にかかったのは、花火が終わり、ぞろぞろと人の波が流れだした頃だった。

「一人で帰るんでしょ、小鞠さん」
「え……あ、うん。まあ……」
「だったら暗くて危ないし。送っていくよ」

 歯切れの悪い返事をする可奈は、ちらりとわたしに視線を遣った。そんな可奈に小さく首を振って、気にしないで、と伝える。
 わたしと可奈の家は、この祭りの場所からは互いに反対の場所にあるから、必然的に一人で帰ることになってしまうのだ。辺りはもう暗くて、たしかに可奈を一人で帰させることに多少の不安はあった。香山くんが名乗り出てくれるのであれば、可奈も一人で帰るよりは安心だろう。

「じゃあ、お願いしようかな」

 可奈の言葉に香山くんはぱあっと顔を明るくして「任せて」と意気込んだ。

「じゃあな、星野。あと、成瀬さん」
「あ……うん。ばいばい、可奈」

 小さく頭を下げただけの星野とわたしに向けて、香山くんが手を振る。けれどわたしは可奈のことで頭がいっぱいだった。どこか暗い彼女の名前を呼んで、手を振る。返ってきたのは弱々しい笑顔だけだった。

「気をつけて……」

 可奈の背中が小さくなっていくのを見送る。
 田舎の夜道は人通りが少なくて心配だけど、香山くんがそばにいるなら大丈夫だろう。ひょろっとしていて、お世辞にも屈強とは言い難い彼だけれど、それでもれっきとした男の子だ。自分から送ると言いだしたのだから、きっと何かあれば可奈のことを全力で守ってくれるだろう。
 ただひとつ気になることがあるとすれば、さっきの可奈の憂いを帯びた表情だけ。


「────帰るぞ」

 二人の背中が夜の闇に消えたところで、星野が言った。ずんずんと歩き出す背中を見つめていると、くるりと振り返った星野が「何してんだよ」と訝しげに眉を寄せる。

「え?」
「帰るっつってんだろ。来いよ」

 彼の言葉は喧騒にかき消されることなく聞こえているけれど、頭の中でその意味を上手く理解できない。パチパチと瞬きを繰り返していると、「チッ」と苛立たしげに舌打ちした彼はつかつかとわたしのもとへ戻ってきて、立ち尽くすわたしの手を強引に掴んだ。

「行くぞ」

 そのまま手を引かれて、歩きだす。突然のことに頭が真っ白になった。

 ……どうして。

 目の前でさらりと揺れる黒髪を見つめながら、心の中で問いかける。繋がれた手にすべての意識が引っ張られて、まともにこの状況を理解することができなかった。灯りのない薄暗い道を、星野に手を引かれたまま歩く。

 ドク、ドクと鼓動の音が鳴り響いて、星野に聞こえていないだろうか、と心配になった。
 会話を交わすこともなく、独り言を言うでもなく、ひたすら無言のまま歩く。気を張り詰めていないと、お互いの息遣いすら聞こえてしまいそうで、空気を吸えない呼吸を何度も繰り返す。

「お前も」

 ふいに、くるりと振り返った星野の顔を、わずかな月明かりが照らす。ドクンッと身体全体から鼓動が鳴った。今までにないような感覚だった。まっすぐに見つめてくる綺麗な瞳は、海に夜を溶かしたような藍色。それなのに、空に輝く星を凝縮させて詰め込んだような、夜の闇に負けないほどの煌めきを宿していて、その瞳から目が離せなくなる。

「女なんだから、一人だと危ねえだろ」

 ふっとその瞳が細められる。その瞬間、ぶわっと心の奥底から身体中を駆け巡るものがあった。

 ────だめだ。よくない。

 パッと繋がれていた手を振り払う。本能がこれ以上はだめだと叫んでいた。

 彼が一瞬目を見開いた。慌てて目を逸らして、胸の前で拳を握りしめる。

「……こういうの、やっぱ、違うよ」

 手を繋ぐ、という行為は普通、恋人とかそういう関係に近い人たちがすることだ。わたしと星野はそういう関係ではないのは明白で、だからこそ違和感がありすぎる。

「ここでいい。ありがとう、送ってくれて」
「おい、しおり……」

 すぐそこに家は迫ってきていた。これくらいなら、わたし一人でも帰れる。星野が今どういう顔をしているのか確認するのがなんだか怖くて、うつむいたままお礼を言って逃げるようにその場を去った。




「……っ、は……」

 空気が薄い。浅い呼吸を何度も繰り返して、街灯のない暗い道を走る。

 なんで。どうして。
 だめだよ────そんなの。

 走りながら、あの場面で手を振り払ったのも、逃げるようにここまで来たのも、すべて正解だったと思った。少しだけ惜しかった、なんて、決して思ってはいけない。
 わたしは"普通"ではないのだから。

「……っう」

 なぜだか無性に涙が込み上げてきた。拭うこともせず、感情にまかせてただひたすらに走る。涙のあとを夜風が撫でて、通り過ぎてゆく。唇を噛みしめてもとめどなく溢れてくるそれは、暗い道路にわずかなシミをつくった。

「もう、やだ……」

 どうしてわたしは自分の気持ちを表に出してはいけないのだろう。


 このまま夜に紛れてしまいたい。こんな自分、大嫌いだ。もしも存在を消すことができたなら、どんなにいいだろう。わたしが、成瀬栞という存在が、初めからこの世になかったのなら、きっとこんな感情を味わうことなんてなかったはずなのに。