「ごめ……ごめんな、さいっ……」
コートを出るところまでは我慢していた。ちぎれてしまうのではないかと思うくらいに唇を噛みしめて、なんとか堪えていた。けれど、礼をしてコートから出た瞬間。ダムが決壊したように、涙が溢れて止まらなくなる。
「栞ちゃん……」
となりにいる可奈は、どう声をかけてよいか分からず困っているようだった。変な励ましをしない方が良いと思ったのか、何も言わずにただわたしの背中を撫でてくれている。
わたしがもっと真面目に練習していれば。全ての練習、試合に全力で取り組んでいたら。怪我さえしなければ。押し負けることがなければ。
どうしようもない後悔があとからあとから襲ってくる。何かひとつでも違えば、結末はきっと変わっていたはずだ。今から過去に戻って、もっとしっかり練習しろと自分を叱りたい。そんなできっこない考えさえ浮かんでしまうほど、悔しい。
「────栞」
突然頭に手がのったかと思うと、わしゃわしゃと撫でられた。
「……っ、真波、せんぱいっ」
「なーに泣いてんの。みっともない顔しちゃって」
「決められなくて、本当にごめんなさい……っ。先輩たちの、最後の夏だったのに」
言葉にして輪郭を持たせると、試合に負けたという事実が重くのしかかってきて、胸がぎゅっと締めつけられる。
「あんたには来年があるでしょう。次頑張ればいいのよ」
「でもっ……先輩は」
「泣くほど慕われてたかなあ、あたし」
苦笑した真波先輩は、わたしの額にデコピンをくらわせた。
「……った」
「泣くな。今まできついことたくさん言っちゃって悪かったね。栞には期待してるからさ……これでも」
ぶわっとまた涙が込み上げてくる。だめだ、こんなの。普段厳しかった分、優しくされると耐えられるはずがない。
「四番背負って、来年こそ勝ち進みなよ。あたしも麗華もそれを望んでる」
「わたしが……キャプテン……?」
勝ちたいと願えなかったやつが、キャプテン番号など背負えるはずがない。四番をつけるということは、実力はもちろん、試合態度、コート外での礼儀や人間性、その他さまざまな面において注目されるということだ。常にみんなを引っ張っていけるような、誰よりも勝ちたいと願える人でないと務まらない。それくらい、大きな存在なのだ。心強い背中なのだ。
……四番の背中というものは。
「……わたしにはそんな資格、ないです」
「資格? そんなもの、あたしたちにだってないよ」
「ねえ麗華?」と同調を求めた真波先輩は、かつてより柔らかい瞳でまっすぐにわたしを見つめた。
「資格なんて、そんなのいらない。必要なのはあんたの気持ちと、チームメイトたちの気持ちなんじゃないの?」
促されて振り返ると、穏やかな顔で微笑むみんなの姿があった。可奈、中山さんたち、他の二年生のみんな、後輩たち。誰もが微笑んで、頷いてくれる。唇を噛んでいると、中山さんが一歩前に出た。
「栞にしかできないよ。────栞がいいよ」
「私もっ。栞ちゃんがいちばんふさわしいと思う!」
「中山さん……可奈……」
背中を押してくれる存在は、わたしがバスケットを続ける理由は、こんなにもすぐそばにあったのだ。気付けていなかっただけで、こんなに近くに存在していた。
「ほら。みんなあんたを認めてるんだよ。とっくに」
「……わたし、勝ちたいって気持ちをずっと保てていなくて、何度も諦めそうになって」
「でも諦めなかった。少なくともあたしは、あんたが頑張ってたのを知ってるよ。それがたとえ何のためにバスケをしているか分からずだったとしても、あんたは今まできつい練習にも厳しい言葉にも耐えてきた。これは事実でしょう?」
息を吐いた真波先輩は、強い光を宿した瞳でわたしをまっすぐに射抜く。
「勝ちたいって願った何よりの証拠があるじゃない」
「え……?」
真波先輩が手を伸ばして、そっとわたしの頰に触れた。その瞬間、新たな涙の粒がつうと頰を伝う。
「この涙は嘘偽りのものじゃない。悔しいから溢れる涙でしょう、栞」
「……っ」
止まらなかった。ぽろぽろといくつもの涙が零れ落ちて、何度拭っても一向におさまることはなくて。
「私も栞にキャプテンをしてほしい。真波が言う通り、怪我をしてもコートに立って一緒に戦ってくれた。怖かったはずなのに、スリーポイントを打ってくれた。栞がキャプテンになる理由として十分だと思うけど?」
同じように微笑む麗華先輩は、わたしの肩にそっと手を置いた。
「……お願いできるかな。キャプテン」
本当に、わたしでいいの?
もう一度振り返ると、相変わらず包み込むような優しさで背中を押してくれるみんなの笑顔。
「はい」
こくりと頷くと、拍手の後、一気に和やかな雰囲気に包まれた。
「もう、真波ったら。"成瀬ちゃん"から"栞"に呼び方が変わっちゃってるね」
「う、うるさいっ! なんか気付いたら呼んでただけだしっ」
「うふふ、素直じゃないんだから」
笑い合う先輩たちの目には、うっすらと涙の膜が浮かんでいるように見えた。けれどそれには気付かないふりをして、中山さんたちのところに行く。中山さんのとなりには可奈がいた。
「……その、中山さんたち」
三人の前に立ってゆっくりと深呼吸をする。
「本当にご……」
「────ごめん」
わたしが言うより先にそんな言葉が贈られる。驚いて顔を上げると、三人はわたしに頭を下げていた。
「すごい酷いこと言ってごめん」
「カッとなって口走っていいことじゃなかった」
「あんなこと言うのは間違いだった。無責任な言動だったと思う」
続くように謝られて、どうしたらいいか分からなくなる。謝らなければならないのは、わたしのほうなのに。
「か、顔あげて」
ゆっくりと顔を上げた彼女たちは、ひどく申し訳なさそうな顔をしていた。確かに互いの意見や思いの食い違いはあったけれど、悪いのは彼女たちだけではない。
「わたしの方こそ、嫌なこと言ってしまってごめん。正直、あのときはたしかに本気でやってなかったの。いい加減だったの。だから中山さんたちの言ったことは、間違いじゃないんだ。それがあんまりにも正論だったから余計に悔しくなって、完全に八つ当たり。本当にごめんなさい」
頭を下げると、同じように「顔あげて」と返ってくる。視線を上げると、そこには強い瞳があった。決意を秘めるようなまっすぐな視線がわたしに降り注ぐ。
「嫉妬してたの。自分も栞みたいにコート上で堂々とプレーできたらいいのにって思うだけで、何もしてなかった。栞が裏でしてる努力、見せずにしてる努力のことを考えてなかったから、あんなふうに言ってしまったの」
「中山さん……」
「よく考えて思ったの。うち、すごく最低なことをしたって。さっきの試合、全力でたたかう栞を見てたら、自分の発言がすごく適当で、失礼だったって思った。本当にごめんなさい」
「ううん、それはお互い様だから」
傷つけてしまったのは、お互い一緒。どちらかだけが悪いということは絶対にない。
「うちらもコート上でチームの力になれるように頑張る。報われるほどの努力をするよ」
「あっ……それは」
あの日、彼女たちにぶつけてしまった言葉だ。うつむくと、クスリと小さな笑い声が降ってくる。
「なかなかいいんじゃない? 栞らしくて」
あははっと笑った中山さんは、「心に留めておく」と言ってその場を去っていった。中山さんに続くように、あとの二人も去っていく。
「仲直りできたみたいだね。本当によかった」
花が咲くようにふわっと笑う可奈。
この笑顔だ、わたしが守りたかったものは。
彼女がこの笑みを絶やすことがないように、優しい瞳が涙に濡れることがないように、わたしはいつまでもそばで守ってあげたいのだ。出会ったときから、ずっとそう思っている。
「男子も惜敗だったみたい。やっぱり全国の壁は厚いね」
可奈が悔しそうに呟く。今年は男女揃って初戦敗退。来年こそはどちらも勝ち進みたい。いや、絶対に勝ち進む。
「……あ」
ちょうど会場から出てきた星野と視線が絡む。ぞろぞろと待機場所に戻っていく集団の一人に何かを告げた星野は、わたしたちのもとへ走ってきた。
「おつかれ」
「お、おつかれ」
やばい。きっとまだ目が腫れている。隠すようにうつむくと、「前向けよ」と星野の声が降ってきた。恐るおそる顔を上げる。
「どっちも負けたな」
「……うん」
惜敗だったにも関わらず涼しい顔をしている星野。あんなにバスケットに真剣だったのに、悔しいとか悲しいとか、そういう感情はないのだろうか。
「全力で勝負したんだから、後悔なんてねえよ」
わたしの表情から読み取ったのか、星野がそう言って苦笑した。
「そっか。さすが星野だね」
「さすがって、お前も全力だっただろ」
「うん、まあ……」
星野の視線がスッと下に落ちる。
「足、怪我したのか」
言われてようやく思い出した。プレー中は必死で痛みなんて感じなかった。それに、上手なテーピングのおかげで固定されつつも非常に動きやすかった。
「あ……そうだった」
「忘れてたのかよ」
ふはっと笑った星野は、「大事にしろよ」と瞳を和らげた。
「うん。ありがと」
お礼を言うと、星野は「そういえば」と、突然思いついたようにわたしを見た。
「負けたってことは、もうすぐ世代交代するんだよな」
「女子は栞ちゃんが新キャプテンなんです」
星野は、横から声を上げた可奈を一瞥して、またその海色の瞳をわたしに戻す。
「お前にできんの?」
「任されたからには、中途半端はもうやめる。みんなのために、全力でやる」
星野は「ふうん」と興味なさげに呟いて、ゆるりと口の端を上げた。いつもの無関心な態度のように見えたけれど、今は少し違う。なんだかよく分からないけれど、星野にしては明るい表情をしていた。
「星野はキャプテンじゃないの?」
訊ねると、星野は冗談じゃないと言ったように渋い顔をして首を振った。
「俺は誰かさんみたいにくそ真面目じゃねえんだ。そんな重荷背負えねえよ」
「……そう?」
「それに、俺はキャプテンじゃなくてエースなんだよ。四番を背負う面じゃない」
ふっと笑った星野は、瞳を流してわたしを見つめた。
「頑張れよ……って言いたいところだけど、あまり頑張りすぎるなよ。何かあったら言え。お前には────」
続く言葉を、期待してしまう。待っていると、ふっと瞳を細めた星野は、薄い唇で笑みの形をつくった。
「──……俺がいる」
トクン、と確かに刻まれる音。
「分かった。ありがとう、星野」
微笑むと、一瞬動きを止めた星野は、それからぎこちなく笑みを返した。