()の国の皇帝、蛇香(じゃこう)帝こと(はく)香樹(こうじゅ)には、忘れられない人がいる。
 その人との思い出は、いつも決まって寒い時に思い出された。

 寝台で横になっていた香樹は、ふと夜中に目を覚ます。
 丸い窓から見えるのは、冴え冴えとした白い月。まるで雪玉のようなそれに、香樹は舌打ちしたくなった。

「寒い……」

 香樹はイライラと、形の良い唇でうめいた。

 とにかく寒くて、頭がぼんやりする。
 手も足も無くなったように感覚がなくなって、少しでも暖を取りたくて体を丸めた。

 部屋の隅にはたくさんの火鉢が並べられているが、寝台にまでその熱は届かないらしい。

(誰か呼んで、火の番でもさせようか)

 だが、こんな夜中に呼び立てるのもかわいそうである。

 だんだんと混濁してくる意識に、そうも言っていられないかとも思う。
 寒さに震えながら、香樹は無意識に「菊花(きっか)」と呟いていた。

 香樹の言う菊花とは、植物のことではない。とある少女の名前である。
 菊花は、明るい金の髪を持ち、肌はもっちりしていて白く、目は紫水晶を嵌め込んだような色をしている。

 隣接する()の国には、このような容姿は珍しくない。
 だが、巳の国では非常に珍しい特徴だった。

 菊花に姓はない。ただの菊花だ。

 彼女は、巳の国の西、崔英(さいえい)でも田舎の方の、さらに町外れに住んでいる。
 町外れに住んでいるのは、菊花の異質な容姿のせいだった。

 父も母も、この国ではよくある、黒い髪に黒い目をしている。
 菊花だけが、まるで拾い子のように彼らと違う容姿だった。

 菊花は、正真正銘、慧生(えいせい)梨花(りか)の子供である。

 彼女がどうしてそんな色を持って生まれたのかは分からない。
 だが、不躾な人々は「梨花が他国の男と浮気をしたからだ」とか「子に恵まれないせいでどこかからもらってきたのだ」と言った。

 そんな中傷から菊花を守るために、彼女の両親は田舎のさらに田舎でほそぼそと暮らしていたのだった。

 菊花は、両親からきつく、町へ行ってはいけないと言われていた。

 両親の言い分はもっともである。
 町へ行けば、菊花は謂れのない誹謗中傷にさらされるのだから。

 そのため、幼い菊花の友達といえば、山に居る虫や動物が主だった。
 特に気に入っていたのは、蛇である。

 巳の国は蛇神様がつくりし国だ。
 そのため、蛇を崇め奉り、神の使いとして大事にしていた。
 脱皮した蛇の皮は、御守りにされるほどである。

 菊花が特に蛇を気に入っていたのは、そのせいもあったのだろう。
 遊び相手の蛇の中でも、特に気に入っていたのが、(はく)と名付けた蛇だった。

 白は、その名の通りに白い蛇である。
 鱗に光が当たると黄金色に輝き、菊花の目には神々しく見えたらしい。

「まるで建国の蛇神様のようね」

 菊花はよくそう言って、白を褒めた。

 どの蛇よりも弱く、どの蛇よりも小さな白は、他の蛇に虐められるたびに、菊花の服の中へ逃げ込んだ。
 そんな白を、菊花はいつも笑って許した。
 シュルシュルと肌を這う感覚に嫌悪感も抱かずに、「くすぐったいよ、白」と言って。

 菊花でなければ、いかに蛇神を信仰していようと追い払われていただろう。
 だって、蛇は怖い。毒があるものだっているのだから。

 子供の菊花はそんなことも知らず、のんきに白をかわいがった。
 白も、そんな菊花を気に入っていたのかもしれない。
 冬になっても冬眠せず、菊花の服の中でぬくぬくと過ごした。

 小さな白は、菊花の服の中に居ても気付かれることはなかった。
 気付かれないのを良いことに、一人と一匹は毎年繰り返す。

 ところが、菊花が十四になった夏、白は突然姿を消した。

『いつか、迎えにいくからな』

 いなくなった自分を必死に探し回る彼女を陰からそっと見つめ、白は後ろ髪引かれる思いで旅立ったのである。

 言わずもがな、彼女の服に入っていた白蛇とは、白香樹のことである。

 巳の国の皇帝は、国つくりの蛇神の子孫。
 故に、彼らは成人するまで蛇の姿を取る。
 そのことは、一部の人間しか知らない、国家機密である。

「もうそろそろ、良いだろうか」

 蛇である香樹は、寒さに弱い。
 人の形をしていても、本質は変えられない。下手すれば、冬眠したまま永眠する可能性だってあるのだ。現に、前皇帝は冬眠したまま目覚めず、そのまま崩御した。

「あぁ、菊花が恋しい……」

 冬の間、住まわせてもらっていた菊花の服の中。
 彼女の肌の温もり以上に、香樹を癒やすものはない。柔らかく、温かく、それでいていい匂いがする。

 前皇帝の後宮が解体されて、間もなく蛇香帝の後宮が作られる。

「菊花を呼ぶ、良い機会だ」

 後宮の花は、菊花だけで良い。
 宮女狩りをするのは、後宮の花にするためではなく、教養のない田舎娘たちに学を授け、地方を豊かにするためである。

 そんな香樹の思惑も知らず、宦官たちは生まれ故郷へと散っていった。
 菊花がいる崔英には、香樹の息がかかった宦官が行く手筈になっている。

「ああ、寒い。早くあたためてくれ、菊花」

 伸ばした手が彼女を抱きしめられるようになるのは、いつだろうか。
 いっそ明日でもいいのにと、香樹は震える体を掻き抱いた。
 夕飯を終えて自室へ戻り、今日習ったばかりの『()の国の歴史』と『歴代皇帝たちの偉業』を復習しようとしていた時だった。

「おい、おまえ。ちょっと来い」

 扉をたたかれ、男が勝手に入ってくる。
 振り返った菊花(きっか)の目に入ったのは、油で撫で付けたような髪に、残念な頭頂部。見事に育った腹が、歩く度にポヨンポヨンと揺れる。
 鼻の下のささやかなひげを大事そうに弄るその男は、宦官の落陽(らくよう)であった。

「落陽様。ですが、夕食後の外出は禁止されております」

 ここでの決まり事は多い。
 夕食後の外出禁止もその一つである。

 決まり事を破る。
 それは、ここを追い出されることを意味していた。

 菊花は、ここでの生活を気に入っている。
 三食昼寝付き。その上、無償で勉強までできる。

 こんな好待遇、どこへ行ったって見つからないだろう。
 だから、追い出されるわけにはいかないのだ。

 しかも、呼び出そうとしている落陽は、菊花のことを良く思っていない。
 機会さえあれば、菊花を出し抜き、自身が推薦する(こう)珠瑛(しゅえい)の株を上げようと必死である。

 大して優秀な部類でもない菊花が、目の敵にされるのはなぜなのか。
 それは、彼女を推薦した宦官が、落陽が好敵手と認識している登月(とうげつ)だからである。もっとも、登月には出世意欲などないので、落陽の独り相撲ではあるのだが。

「うるさい。口答えするな。いいから、とっととついて来い!」

 まるで子供のように、落陽はその場で地団駄(じだんだ)を踏む。菊花はそれを、少々哀れみがにじむ目で眺めた。

(宦官になると怒りっぽくなるとは言うけれど、それにしたって落陽様は怒り過ぎだわ。いつもカッカしているから頭頂部(てっぺん)がなくなってしまったのね)

「おい、どこを見ている」

 (スカート)がはだけてしまった女性が恥じらうように、落陽が頭を撫でる。
 言いたいことは山ほどあったが、言わぬが花だ。菊花はしれっと視線をさ迷わせながら答えた。

「外を見ておりました。真っ暗だなぁって」

「ふんっ。まあ、良い。それより、早く来い。あの方がお待ちなのだ」

「ですから、夕食後の外出は……ん? あの方、とは?」

「あの方はあの方だ。早くしないと、大変なことになる。決まり事などと言っていられない事態になるぞ」

 落陽の言っていることは、抽象的でよく分からない。

 だが、少なくとも彼が本気で焦っているのは確かなようだ。
 先程から、ひげを弄る手が止まらない。
 落陽は、不安になるとひげを弄る癖があった。

「分かりました。そのような緊急事態に私なんぞが役に立つとは思えませんが、行きましょう」

 ようやく行く気になったかと、落陽は鼻息も荒く歩き出した。その後ろを、菊花も小走りでついて行く。

(落陽様は、どこへ向かっているのかしら?)

 右へ左へ、落陽は何度も廊下を曲がる。
 記憶力には自信がある菊花だが、帰り道が怪しくなりそうだ。

(もしかして、私を迷わせようとしている?)

 もしやこの所業はイビリかと菊花が疑い出した時、落陽は止まった。
 あまりに唐突に止まったものだから、菊花は裾を踏んで転びそうになる。
 たたらを踏んでいる間にタイミング悪く落陽が扉を開けたものだから、菊花はそのまま部屋の中へ倒れ込んだ。

「いったぁ」

「これは仕方のないことで、決しておまえが選ばれたわけではない。それだけは、忘れるなよ」

「え?」

 倒れたまま振り返ると、ギリギリと口惜しそうな顔をした落陽の顔が見えなくなった。
 扉を閉められたのだ。

 ガタン、ガチャガチャガチャン!

 ご丁寧に、施錠までされる。
 菊花は閉まりきった扉を見上げ、ぼうぜんと呟いた。

「なんなのよ、もう。やっぱりイビリだったの?」

 油断した自分が悪いが、まさか閉じ込められるとは。
 菊花は諦めたようにため息を吐くと、のろのろと立ち上がった。

「油断するといつもこう。足を引っ張り合って、みにくいったらないわ。せっかく素晴らしい機会に恵まれたのに、こんなんじゃあ追い出されるのも時間の問題じゃない」

 独り言ち、菊花は再びため息を吐いた。
 だが、いくらため息を吐こうと事態が改善するわけもなく。菊花は最後にもう一度だけため息を吐くと、気を取りなおすように(スカート)を払った。

「確か、あの方が待っているって言っていたわよね。施錠したってことは、既に来ているのかしら?」

 周囲を見回すと、奥に灯りが見えた。
 灯りに誘われるように、菊花は部屋の奥へと歩いて行く。

 部屋の奥には、天蓋付きの寝台が鎮座していた。
 菊花が三人は眠れそうな大きな寝台。
 あまりの大きさに「ほぁぁ」と呆けた声を漏らしていたら、中から衣擦れの音が聞こえてきた。

「来たか」

 ボソリと呟かれた声は低く、掠れた音をしている。
 男にも女にも聞こえる声だが、どちらだろうか。

(もしかして……?)

 この人が、落陽の言っていた『あの方』だろうか。
 とはいえ、他人の寝台を勝手に暴くのは恥ずかしい。

 モジモジしていると、寝台の中から再び衣擦れの音がした。
 音は、ズリ、ズリ、と這うように近づいてくる。

「早くしろ。寒くて死にそうだ」

「……⁉︎」

 ニュッと飛び出てきた白い腕が、菊花の脇の下に入る。
 悲鳴を上げる間もなく、菊花は寝台の中へ引き摺り込まれた。

「ああ、これだ、この肉。これを待っていたのだ、私は」

「は? えっ? 肉ぅ⁈」

 素っ頓狂な声を上げる菊花に構わず、寝台の主人は彼女の体に自身の長い腕を巻き付け、それでも足りないとばかりに足を絡みつかせた。
 まるで菊花が抱き枕であるかのように、寝台の主人は隙間なく体を密着させてくる。

「ひゃっ。つ、冷たっ!」

 寝台の主人の肌は、氷のように冷たかった。人間のものとは思えない温度に、菊花の肌が粟立つ。

「どうしてこんなに冷たいのですか⁉︎」

 これじゃあ、冬眠中の蛇みたい。
 そう言った菊花に、寝台の主人は「そうか」と笑った。

「今夜は冷える。仕方がないことなのだ」

「仕方がない? でもこれじゃあ、心臓が止まってしまいます」

 人は、体温が二十度以下になると死に至ります。
 そう教えてくれたのは、(らん)先生だったか。
 温める方法までは教わっていなかったと、菊花は焦った。

「そうだ。だから、おまえを呼んだ。菊花、あたためてくれ」

「…………はい?」

 思わず見上げると、至近距離でじっと見つめられる。
 赤い目だ。眠そうにトロリとした目は、ずっと昔に一度だけ食べた、真っ赤な林檎飴のよう。

(甘そう)

 知らず、舌舐めずりをしていたらしい。
 寝台の主人の長い指が、菊花の濡れた唇を拭うように動いた。

「ひゃっ!」

 冷たい指先に、反射的に身が竦む。
 ブルリと震える菊花の熱をさらに奪うように、寝台の主人の生足が菊花の裳の隙間から侵入し、彼女の足にねっとりと絡みつく。

(お、おおおお男の人だ!?)

 身じろいだ拍子に、菊花は気がついてしまった。

 なぜ、どうして。意味が分からない。
 ここは後宮で、男の人は入れない。そう、宦官にならなければ入れないはずなのだ。

 知らない間に、後宮の外に連れ出されていたのだろうか。
 それとも、まさか……?

 思い当たる答えに、でもでもだってと自問自答する。
 後宮に入れる男の人。それも、宦官じゃない男の人。
 それはこの世でただ一人である。

「寒い。あたためてくれ」

「ふぇっ⁈」

「おまえしかいないのだ。頼む」

「うえぇぇ⁈」

 寝台の主人の手が、上衣を裳から引っ張り出して、裾から侵入してくる。
 菊花の柔らかな腹を、無遠慮に撫で回した。
 それから満足したように「ほぅ」と妙に色気のある吐息を漏らし、彼女の腹の肉を摘みながらこう言った。

「この肉……癒やされる」

(にく……肉って言ったよ、この人!)

 確かに、菊花のおなかはポヨンポヨンである。触り心地だって抜群だ。

(だけど! 肉って言わなくたって良いじゃない!)

 こう見えて、年頃の女の子なのだ。
 遠慮なく肉肉言われて、傷つかないこともない。

(事実だけれども! でも!)

 そういえば、先程も肉と言っていなかったか。
 思い出すとますます腹が立ってきた。
 プクリと頬を膨らませて、分かりやすく不満を表す菊花に、寝台の主人がククッと笑う。

()いな」

 寝台の主人の手が、楽しげに肉を──否、菊花のおなかを摘む。

「菊花。おまえを、私のあたため係に任命する。私が呼んだらやって来て、こうしてあたためよ。良いな?」

 最後の方は、まるで寝言を言っているように判然としない。
 菊花の返答を待たずして寝入ってしまった寝台の主人に、彼女は今更ながらに思った。

(どうして、こうなったの……?)

 菊花がこの度、冷たい男にあたため係を任命されるまでには、さまざまな経緯があった。
 どこから回想するのが妥当だろうか。
 それはもう、当然のことながら、彼女がここ──後宮へ来るまでのところからであろう。
「お父さん、お母さん、いってきます」

 家の隅に置かれた、祭壇とも呼べない粗末な棚の上に置かれた小さな置物に、少女は手を合わせた。
 軽くうつむき礼をすると、少女の額にハラリと金の髪が一筋かかる。

 明るい金の髪は、この国ではとても珍しい。
 生前の両親から口酸っぱく「隠すように」と言われていた彼女は、今日も布を被って家を出た。

 ()の国の西、崔英(さいえい)の田舎にある、名もなき町。その町の外れに、少女ーー菊花の家はある。
 一年前に両親が流行病で相次いで亡くなって以来、彼女は一人でその家に住んでいた。

 竹でできた家は、ほどほどに強く、ほどほどにボロい。冬は隙間風で寒いが、夏は心地よい風が入ってきて気持ちが良い。
 難点は多いし、菊花独りで住むには広すぎる家だけれど、両親との思い出が詰まったこの家を、離れる気はなかった。

 砂利さえない獣道のようなあぜ道を黙々と三十分ほど歩くと、町に出る。
 菊花はそこで、山で採った山菜や薬草を売って生計を立てていた。

 その日も、いつものようになじみの店で山菜と薬草を買い取ってもらい、もらったお金で食べ物を買い込んだ。
 いつもより少しだけ多くもらったお金だが、あっという間に消えていく。

(でも、良いの。今日は奮発して、鴨肉が買えたから!)

 裕福な暮らしではないが、少しのぜいたくは良いだろう。
 背負ったかごの重みにニヤニヤとしながら帰路につこうとしていた菊花は、町の中央にある広場が騒々しいことに気がついた。

「今日はお祭りでもあるのかしら?」

 一人つぶやいた言葉に、近くに居た乾物屋の店主が「違うよ」と笑った。

「宮女狩りさ。先月、蛇晶(じゃしょう)帝が崩御されただろう? それで、後宮が解散したんだ。今度は新しい皇帝陛下の後宮を作るってンで、宮女を募集しているのさ」

 店主が指差した先、広場の中央には高札が立てられている。
 学のない菊花には何て書いてあるのかさっぱりだ。ただグニャグニャと線が書いてあるだけにしか見えない。
 菊花に分かる文字といえば、『菊花』と『慧生』と『梨花』だけだった。

「おじさん、宮女って皇帝陛下のお嫁さんのことよね?」

「ああ、そうだ。国で一番偉いお方の妻だ。といっても、一人じゃねェけどな」

 店主が言うことが本当なら、高札には宮女狩りについて書かれているのだろう。

 高札の周りに居る者の反応はさまざまだ。
 ある者は「やってやるわ」と拳を握り、またある者は顔を青ざめてブルブルと震えている。

 女の側で崩れている男には、一体何があったというのだろう。
 もしかしたら、皇帝の妃になるつもりの女に捨てられたのかもしれない。菊花は「どんまい」と手を合わせた。

「一体、どんな美女が選ばれるのかねェ。きっと、目も(くら)むような女に違いねェ」

「へぇ、そうなの」

 菊花はそう言って、背負っていたかごをよっこいしょと背負い直した。

 今日は鴨鍋にしようか。
 焼いて塩をつけたのも捨てがたい。

(私には関係のないことだわ)

 だって、菊花は美女とは正反対の女である。
 この国において美女とは、射干玉(ぬばたま)色の目に烏の濡れ羽色をした髪、それから抜けるような白い肌をしていて、体がほっそりとした女性なのである。

 菊花は白い肌だけは該当しているが、それ以外はかすりもしない。
 明るい金の髪に菫のような紫色の目、それからもっちりとした、焼いて膨れた餅のような体形。()の国では、菊花のような体形を棉花糖体(マシュマロボディ)というらしいが、果たしてそれは褒め言葉なのだろうか。

 早々に見切りをつけて今晩のごはんに思いをはせる菊花に、通りすがりのおばさんが「いやだよォ」と笑う。

「あんた、関係ないって顔しているけどね。十六歳以上二十五歳未満の未婚女性はみぃんな宦官の登月様の面接を受けなきゃいけないんだよ。見たところ、あんたも対象じゃないか。羨ましいねぇ。見事宮女に選ばれりゃあ、三食昼寝付きの至れり尽くせりさァ。あたしもあと十歳若ければねぇ。こんな男と結婚しなくて済んだのに」

 そう言って、おばさんは隣でたたずんでいた線の細いおじさんの背を、遠慮なしにバンバンたたいた。かわいそうなおじさんは、おばさんにされるがままで、助けてくれと(すが)るような視線を菊花に向けてくる。

「あの、おばさん? おじさんが苦しそうだけれど、大丈夫?」

「ん? 大丈夫よォ。これくらいで倒れるような柔な男、旦那になんてするもんか!」

 おばさんはますます強気で、夫であるおじさんの背をバンバンたたく。
 ゲホゲホと咳き込んでいるけれど大丈夫かしらと思っていたら、乾物屋の店主が助け舟を出した。

「奥さん。今日の夕飯はもうお決まりかい? もしまだ決まっていないってンなら、これなんてどうだい?」

「あら、見たことない乾物だけど、これなんだい?」

「珍しい、海の生き物の干物さ。烏賊(いか)っていうンだけどな、これが炙るとうまいのよ」

 茶色の薄い干物からは、何やら美味しそうな匂いがする。
 思わず「買います」と身を乗り出そうとした菊花だったが、握りしめていたお金では買えそうにないことを思い出した。

(いつまでも見ていてはお店に迷惑ね。次は、あれを買うことを目標にしましょう)

 炙って焼いたら美味しいと言っていた、烏賊という名前の海の生き物の干物。
 菊花の唇がジュルリと動いて、喉がゴクンと鳴る。

(あぁ、でも……干した魚を酒で戻して、それから焼いても美味しいのよね。烏賊も同じ方法で美味しくなるかもしれないわ)

 そうと決まれば、次は酒も買わなければ。
 早々に切り替えた菊花は、かごを背負っていそいそと町を出て行った。
「……あれ?」

 ボロ家とまではいかないがすてきな家とも言い難いわが家。
 その前に見慣れないものを見つけて、菊花(きっか)は首をかしげた。

 いつものように食費を稼ぐために山へ分け入り、帰ってきたところだった。
 そんな彼女はかごを背負ったまま、服はドロドロのひどいありさまである。どこかで転んだのか、あごのあたりにも泥がついていた。

「どうして馬車がこんな場所に?」

 馬車なんて、貴族が乗るものである。
 平民である菊花はもちろん、今は亡き両親だって縁があったとは思えない。
 こんな田舎の、さらに町外れにある菊花の家の前に停まっているなんて、おかしな話だ。

(道に迷ったのかしら?)

 この辺りまで馬車で来るのは、さぞ大変だっただろう。
 道は整備されていないし、菊花の家は山のそばにあるのだから。
 馬にとっては、迷惑な話である。

(山を越えてきたのか、これから越えるのか……どちらにしても、馬からしてみれば地獄のような仕打ちね)

 菊花は背負っていたかごを下ろすと、畑の隅に転がっていた桶に水を汲み、どこか疲れた顔をしている馬たちに水を与えた。
 馬たちにつけられた装飾品は、それなりに上等なものだ。その後ろにつながれた、馬車もしかり。

「貴族ってまではいかないけれど、それなりに裕福そうな馬車ねぇ」

 商売に成功した商人あたりが乗っていそうな馬車だ。
 こんな田舎でも、それくらいなら見たことはある。

 もっとも、貴族の馬車なんて菊花は見たこともなかったから、あくまで彼女の独断と偏見による感想でしかない。
 貴族といえば、皇帝陛下より偉くはないけれど雲の上のお人なのだから、目も(くら)むような豪華な馬車に乗っているに違いないと、思ったことがポロリと口から滑り出ただけである。

「おい」

 馬車を見上げていたら、不機嫌そうな声がして、窓から男が顔を出した。
 その瞬間、眩しい光が菊花の目に降り注ぐ。
 慌てて目を背けていると、一人の男が馬車からえっちらおっちら降りてきた。

 ふくよかな体形をした男だ。
 髪の両脇は油のようなもので塗り固められていて、てっぺんである頭頂部はビカビカと日の光を反射させている。

(眩しかったのは、これのせいね)

 脂ぎった頭頂部は、鏡のようになるらしい。
 初めて知った知識を、菊花はこっそり心の手帳に書き記した。

 菊花は、いろいろなことを知るのが大好きだ。
 貴族ではないために学校へは行けないが、新しいことを知るたびに心の手帳に書き込むことにしている。
 本当は紙に書いておきたいのだが、残念なことに家計の問題で難しいのだ。

 新しい知識に上機嫌になっていると、男が菊花の方へ歩み寄ってきた。
 でっぷりとした腹は、歩くたびにタプタプ揺れる。

(走る時、大変なのよねぇ)

 菊花の場合は、腹より胸の方がよく揺れる。
 走るとボヨンボヨンして、非常に走りにくいのだ。今日だって、山で遭遇した瓜坊に追いかけられて大変だった。

(美味しそう、って言ったのがまずかったのかしら?)

 しかし、本当に美味しそうに見えたのだ。
 猪の肉は、ごちそうである。

「おまえ、名は?」

 男の目が、いやらしげに濁る。
 猪の肉に思いをはせる菊花は、男の値踏みするような露骨な視線に気付かない。

「おい。聞いているのか?」

「へっ?! あぁ、すみません。菊花と申しますです」

 男の苛立たしげな声に、菊花は慌てて答えた。

「ふむ。声は悪くないな」

 首と一体化したような丸い顎を撫でながら、男は満足げに頷く。
 その視線は相変わらず、ねっとりと菊花を捉えたままだ。
 男は鼻の下に申し訳程度に生えたひげを撫でつけながら、ゆったりと菊花の周りを一周した。

(この人は、一体何をしているのかしら?)

「あのぅ……?」

 問いかけて背後を見れば、男は前を向けと言わんばかりにシッシッと手を振る。

(私、犬じゃないのだけれど!)

 これには菊花も腹が立ったようで、ムスリと顔をしかめた。
 唇を尖らせて、男のお望み通りに前をにらみつける。

「ふぅむ。登月(とうげつ)が目をかけていると聞いたからここまでやってきたが……無駄骨だったな。白い肌は合格だが、それ以外はまるでなっておらん。まぁ、それで良い。私は私で選んだ女を連れて行けば良いだけのこと。このような醜女であれば、早々に脱落するに違いない。とうとう登月にやり返す機会がやってきたぞ」

 菊花のことを犬くらいにしか思っていない男は、彼女の背後でそのように独白していた。

 菊花に学はない。
 だが、常日頃から心の手帳を書き込む習慣があるせいか、記憶力だけは秀でていた。
 そのため、男の何気ないこの独白も、彼女はしっかりと記憶していた。

 そうとも知らず、男はグフグフと変な声を上げながら笑う。

(豚みたいな笑い方ねぇ)

 菊花が失礼なことを考えているとも知らず、男は再びニンマリと気持ちが悪い笑みを浮かべた。
 なんだか背中がゾゾゾとする。菊花は、迫り上がる悪寒に体を震わせた。

「さて、菊花とやら。残念ながら、おまえは私のお眼鏡には適わなかった。だが、諦めることはない。これより数日後、宦官の登月という男がやって来る。その男は、おまえのことを後宮へ連れて行ってくれるだろう。せいぜい、都の素晴らしい光景を目に焼き付けて、すごすごと帰郷するが良い。ではな」

 いかにも悪党というような高らかな笑い声を上げながら、男はえっちらおっちらと馬車に乗り込む。
 言いたいことを言い終えたのか、男の顔は満足げである。

 重たい体は自力で馬車に乗り込むこともできないようで、御者が必死の形相で男を押し上げる。
 ようやく男の体が馬車の中に入ると、車体がギィギィと悲鳴を上げた。

(馬車って、どれくらいの重さなら耐えられるのかしら?)

 ギィギィと悲鳴を上げているあたり、男の体重は許容範囲を超えているのだろう。

(貴族だったらなぁ。こんな計算も、ちょちょいのちょいってできちゃうんだろうなぁ。いいなぁ、貴族。せめてこの人くらい稼げたら、少しくらい学校に潜り込めたりしないかしら?)

 ギッコギッコと音を立てながら、馬車が動き出す。
 菊花はそれを羨ましそうに、見えなくなるまで見つめていた。
 謎の男の予言は、どうやら本当だったらしい。
 それなりに良い馬車に乗ったあの男は、気まぐれに下界へ降りてきた神仙(かみさま)だったのかと、菊花(きっか)は無礼な態度を取った自分を恥じた。

 男の予言を聞いてから三日後、家の前の畑で草むしりに精を出していた菊花の前に、一頭の馬が止まった。

 馬のいななきと、それをいさめる「どうどう」という声。
 何事だと慌てて立ち上がると、馬上の男と目が合った。

 ぞんざいに結い上げられた黒く艶やかな髪が、春風に(たなび)く。
 どこからか飛んできた花弁が、男の髪を彩るようにひとひら絡まった。

 まるで絵巻物のような情景に、その顔の造形に期待が高まる。
 だが残念なことに、菊花と目が合ったその男の顔は、至って平々凡々とした、特筆すべき点もない普通の顔だった。黒い髪に黒い目。()の国では一般的な容姿である。

 馬を落ち着かせた男は、菊花を見下ろしてこう言った。

「私は宦官の登月(とうげつ)である。菊花殿で、お間違いないか?」

 登月と名乗った男の丁寧な物言いに、菊花は驚いた。

 宦官といえば、選良(エリート)である。
 特に自ら志願して男の証を切除した宦官は、皇帝や寵妃たちの側近として重用されるらしい。
 目の前にいる宦官が自ら志願したのかそうでないのかは定かではないが、どちらにしても選良であることに変わりはない。

 そんな宦官が、ただの田舎娘でしかない菊花に偉ぶるそぶりもみせない。
 偉い人は偉そうに振る舞うものだと思っていた菊花にとって、登月の態度は異質にも思えた。

「へいっ」

 返答しようと開いた口から、おかしな声が出る。
 だが、それも仕方がないことだ。だって菊花は、驚いていたのだから。

 しかし、登月は菊花のおかしな声を聞いても、表情一つ変えずに「そうか」と頷いただけだった。

蛇香(じゃこう)帝が宮女を募集している旨は、既に知っているか?」

「はい、知っております」

「私は其方を推薦するつもりで来た。もしもついて来てくれるのならば、今よりももっと良い生活を約束しよう」

「今よりも、もっと……?」

「そうだ。まず、三食出る」

 登月はそう言うと、指を三本立てた。朝食、昼食、夕食という意味だろう。

「三食……」

 働かなくても食べられる。
 これは、菊花にとってかなり魅力的だ。狼や猪が出る山に、分け入らなくても良くなる。
 引き寄せられるように、登月の方へ一歩足が出た。

「その上、昼寝つき」

「昼寝つき……!」

 なんということか。ご飯がある上に、昼寝までついてくる。
 宮女ってなんてすてきなのだろうと、菊花の心がグラングラン揺れた。
 そしてまた一歩、登月の方へ足が進む。

「さらに、宮女候補だけが入学できる女大学で、好きなだけ勉強ができる」

 好きなだけ勉強ができる。
 これは、三食昼寝つきよりも魅力的だ。

(こ、これほどまでに魅力的なお誘いがあるでしょうか……答えは、否! あるわけがありませんっ!)

 菊花の足がまた一歩、登月の方へ向かう。
 あと一歩前へ進めば、登月が乗る馬に触れることができるだろう。
 だが、彼女には一つだけ、不安なことがあった。

「あの……」

「なんだ?」

「それは、分割払いが可能でしょうか?」

 三食昼寝つきで勉強までさせてもらえる。
 しかもこんな、田舎娘が。

 美人だったらまだ良い。
 皇帝陛下のお嫁さんになれる可能性は十分にある。

 だけれど、菊花はお世辞にも美人とは言えないし、むしろ真逆だと自信を持って言える。
 宮女になれるのが一体何人かは知らないが、少なくとも菊花のような者が皇帝のお手つきになることはまずないだろう。

(金の髪に菫みたいな色をした目。その上、棉花糖体(マシュマロボディ)……どう考えたって、皇帝陛下の好みじゃないはず。つまり、これは……賄賂を渡して便宜を図るっていうお誘いね!)

 そう思ったからこそのせりふだったが、言われた登月は何を言っているのだという顔で菊花を見下ろした。

(あら、何か違った?)

 首をかしげる菊花に、登月はハァとため息を吐いた。

「学費も食費も必要ない。後宮には後宮の予算があるから、安心して来ると良い」

 今度は菊花が、何を言っているのだという顔をする番だった。

(どうやら私は、大きな勘違いをしていたみたい?)

 賄賂のつもりで聞いたのに、学費や食費の心配をしていると思われたらしい。
 それはつまり、登月は本気で、菊花を宮女候補として──つまり、皇帝陛下の嫁になる資格がある女として彼女を迎えに来たということだ。

「そう、ですか……」

 これには菊花も驚いた。

(もしや、蛇香帝はゲテモノがお好き……?)

 そういえば、お金持ちは『燕の巣』とか『鹿の陰茎』とか、菊花が食べようとも思わないものを食べると聞いたことがある。
 もしかしたら菊花は、そういう枠で推薦されるのかもしれない。

(でも、これはチャンスよ? 食費も学費も無料で、その上昼寝つき。宮女になれるかは別として、貴族でもないのに勉強できるのは、これしかないんじゃない?)

「……なら、逃す手はないわよね」

「来るか?」

「はい! 行かせて頂きます!」

 元気良く返事をした菊花に、登月はホッと息を吐いた。
 来てくれなかったらどうしようと、内心思っていたからだ。

 宦官、登月。
 彼は、蛇香帝お気に入りの宦官である。

 出世意欲なんてまるでないのに、彼に気に入られたせいでいつの間にか偉くなっていた。
 気に入られた理由はただ一つ──彼は、誰よりも茶を淹れることがうまかったのである。
 名もなき町から馬に揺られて約一日。
 ()の国の西、崔英(さいえい)に到着する。

 そこからは手配しておいた馬車に乗るのだと、登月(とうげつ)は言った。
 崔英から宮城(きゅうじょう)までは馬車で三日ほどかかるそうだ。

 登月が手配した馬車は、貴族が乗るような豪奢(ごうしゃ)な馬車だった。
 馬車の中も外観に劣らず高級そうな造りで、菊花(きっか)はどこへ座るべきだろうかと悩む。

 普通に考えれば、両脇に設置されたフカフカの椅子に座るのだろうが、そんな椅子、生まれてこの方座ったことがない。
 庶民な菊花は座ることさえ恐れ多く思えて、おたおたと困惑しながら後ろに居た登月を見た。

「あの」

「どうしましたか?」

「どこへ座れば良いのでしょうか?」

「はい?」

 登月の反応は当然だろう。
 馬車の中にはちゃんと、椅子がある。それならば、椅子に座れば良い。
 だというのに、これである。

 登月は菊花に分からないようにそっとため息を吐くと、彼女を追い越して馬車の中へ先に入った。
 向かって右の席に腰を下ろし、どうぞと促すように向かいの席を手で示す。

「あぁ、そうですよね。椅子があるならそこに座れば良いんですよね! すみません。私ったら、つい。宦官様とご一緒することなんて初めてだから、座って良いのか焦っちゃいました」

「宦官様、はやめてくれ。登月と呼んでくれないか?」

「えっと、呼び捨ては恐れ多いので……登月様、ではいけませんか?」

「それでも良い」

「良かった。じゃあ、登月様と呼ばせていただきますね! 私はしがない田舎娘ですから、どうぞ菊花と呼んでくださいませ」

「ああ、そうしよう」

 会話を終えるのを待っていたように、馬車が走り出す。
 崔英には、一般市民にも移動手段として乗合馬車があるらしい。
 座席はほぼなく、立って乗るのが普通のようだ。

 馬車の窓に引かれた布の隙間からそっと外を眺めて、菊花は「ほぅ」だとか「へぇ」だとかひたすら声を漏らしていた。
 菊花の感嘆の声が「へぇ」から「おぉ!」に変わったのは、崔英を出て一週間後のことである。

 一週間かけて移動した先──そこは、巳の国の都だった。

 馬車が何台も横並びで通れそうな、幅の広い道。その両端を、色とりどりの屋根の屋台がズラリと並ぶ。
 さらにその奥には、見たこともないくらい大きくて、絢爛豪華(けんらんごうか)という言葉がぴったりな建物が、菊花を乗せた馬車の先でそびえ立っていた。

「ここは、大路。都で一番大きな道です」

 ホァァと驚きの吐息を吐く菊花に、登月はそう教えてくれた。

「おおじ!」

 コクリと頷きながら、菊花は感嘆のため息を吐いた。

 なにもかもが珍しい。
 まず、歩いている人からして、菊花が生まれ育った町とは違った。

 菊花と同じような質素な格好をする者もいるにはいるが、目を見張るような──どうやって着るのかと首をかしげたくなるような煌びやかな服をまとう者が多い。

 馬車が走る合間を、人々は慣れた様子でスイスイと歩いて行く。
 どの人も忙しいのか、脇目も振らずに足早である。

 これが都かと、菊花はひたすら感嘆の声を漏らし続けた。
 そんな中、馬車は大路をどんどん進む。

 気付けば大路の奥で、見たこともないような巨大な門を通過しようとしていた。
 門の先に、屋台はもうない。洗練された高級感を醸す空間は、どこか神聖ささえ漂う。
 菊花は無意識に、背を正した。

 それからしばらくして、カタンと大した音も立てずに馬車が止まる。
 御者の手で馬車の扉が開かれると、ザァザァと勢いよく流れる水の音が聞こえた。

 菊花は、好奇心を隠しきれない表情で扉から顔を覗かせた。
 目に入ったのは色とりどりの石を組み上げたモザイク柄の噴水だ。

 地域によっては死活問題になる水が、ここでは潤沢なようである。
 色とりどりの石も、宝石みたいにキラキラして綺麗だ。
 菊花は噴水のあまりの美しさに、ここは桃源郷かしらとうっとりした。

(すごいわぁ)

 惜しげもなく水を噴き上げ続ける噴水が、菊花は物珍しくて仕方がない。
 興味津々で馬車を降りた彼女は、いそいそと噴水へ駆け寄った。

「菊花。行きますよ」

 なんでもないことのように噴水を素通りする登月が、菊花には不思議である。

(きっと、登月様にとってはこれが当たり前なのね。こんなにすてきで、こんなに不思議なものなのに。後宮って、こんなのがたくさんあるのかしら?)

 やっぱり、登月について来て良かったかもしれない。
 住み慣れたわが家を後にする時は少し寂しく──否、だいぶ感傷的な気分になったが、菊花のあふれんばかりの好奇心を満たすには、後宮(ここ)はもってこいの場所だ。

 到着して早々にこんな面白いものを見られたのだから、と菊花は嬉しそうに微笑んだ。

「ついて来なさい」

「はい!」

 菊花はいつまでも噴水を見続けていたかったが、置いていかれたら困る。
 名残惜しげに指先で水面を撫でて、慌てて登月の後を追った。

「ここは、前の皇帝陛下の後宮です」

「へぇ、ここが……」

「ええ。今は、宮女候補たちの宿舎と女大学を兼ねていますが、宮女が決まる頃には新しい後宮が完成するでしょう」

 そう言って、登月は廊下の窓から見える土埃の方を指差した。
 木々に遮られて、菊花には何も見えない。

(まぁ、私なんかが宮女になれるわけがないし。関係ないところね)

 噴水ほど興味をそそられず、菊花は止まることなく歩いた。
 登月も詳しく説明するつもりがないのか、カツカツと廊下を歩いて行く。

 右へ曲がって左へ曲がって、部屋を抜けて、今度は真っすぐ。
 複雑な道のりを、登月は迷いなく歩く。

 菊花は最初こそ道順を覚えようと頑張ってみたが、途中で諦めた。
 だって、無理だ。興味を引くものが多すぎて、とても記憶していられない。
 仕方なく、菊花は登月に置いて行かれないよう、なるべく脇目を振らないようにしながら歩いた。