巳の国の皇帝、蛇香帝こと白香樹には、忘れられない人がいる。
その人との思い出は、いつも決まって寒い時に思い出された。
寝台で横になっていた香樹は、ふと夜中に目を覚ます。
丸い窓から見えるのは、冴え冴えとした白い月。まるで雪玉のようなそれに、香樹は舌打ちしたくなった。
「寒い……」
香樹はイライラと、形の良い唇でうめいた。
とにかく寒くて、頭がぼんやりする。
手も足も無くなったように感覚がなくなって、少しでも暖を取りたくて体を丸めた。
部屋の隅にはたくさんの火鉢が並べられているが、寝台にまでその熱は届かないらしい。
(誰か呼んで、火の番でもさせようか)
だが、こんな夜中に呼び立てるのもかわいそうである。
だんだんと混濁してくる意識に、そうも言っていられないかとも思う。
寒さに震えながら、香樹は無意識に「菊花」と呟いていた。
香樹の言う菊花とは、植物のことではない。とある少女の名前である。
菊花は、明るい金の髪を持ち、肌はもっちりしていて白く、目は紫水晶を嵌め込んだような色をしている。
隣接する戌の国には、このような容姿は珍しくない。
だが、巳の国では非常に珍しい特徴だった。
菊花に姓はない。ただの菊花だ。
彼女は、巳の国の西、崔英でも田舎の方の、さらに町外れに住んでいる。
町外れに住んでいるのは、菊花の異質な容姿のせいだった。
父も母も、この国ではよくある、黒い髪に黒い目をしている。
菊花だけが、まるで拾い子のように彼らと違う容姿だった。
菊花は、正真正銘、慧生と梨花の子供である。
彼女がどうしてそんな色を持って生まれたのかは分からない。
だが、不躾な人々は「梨花が他国の男と浮気をしたからだ」とか「子に恵まれないせいでどこかからもらってきたのだ」と言った。
そんな中傷から菊花を守るために、彼女の両親は田舎のさらに田舎でほそぼそと暮らしていたのだった。
菊花は、両親からきつく、町へ行ってはいけないと言われていた。
両親の言い分はもっともである。
町へ行けば、菊花は謂れのない誹謗中傷にさらされるのだから。
そのため、幼い菊花の友達といえば、山に居る虫や動物が主だった。
特に気に入っていたのは、蛇である。
巳の国は蛇神様がつくりし国だ。
そのため、蛇を崇め奉り、神の使いとして大事にしていた。
脱皮した蛇の皮は、御守りにされるほどである。
菊花が特に蛇を気に入っていたのは、そのせいもあったのだろう。
遊び相手の蛇の中でも、特に気に入っていたのが、白と名付けた蛇だった。
白は、その名の通りに白い蛇である。
鱗に光が当たると黄金色に輝き、菊花の目には神々しく見えたらしい。
「まるで建国の蛇神様のようね」
菊花はよくそう言って、白を褒めた。
どの蛇よりも弱く、どの蛇よりも小さな白は、他の蛇に虐められるたびに、菊花の服の中へ逃げ込んだ。
そんな白を、菊花はいつも笑って許した。
シュルシュルと肌を這う感覚に嫌悪感も抱かずに、「くすぐったいよ、白」と言って。
菊花でなければ、いかに蛇神を信仰していようと追い払われていただろう。
だって、蛇は怖い。毒があるものだっているのだから。
子供の菊花はそんなことも知らず、のんきに白をかわいがった。
白も、そんな菊花を気に入っていたのかもしれない。
冬になっても冬眠せず、菊花の服の中でぬくぬくと過ごした。
小さな白は、菊花の服の中に居ても気付かれることはなかった。
気付かれないのを良いことに、一人と一匹は毎年繰り返す。
ところが、菊花が十四になった夏、白は突然姿を消した。
『いつか、迎えにいくからな』
いなくなった自分を必死に探し回る彼女を陰からそっと見つめ、白は後ろ髪引かれる思いで旅立ったのである。
言わずもがな、彼女の服に入っていた白蛇とは、白香樹のことである。
巳の国の皇帝は、国つくりの蛇神の子孫。
故に、彼らは成人するまで蛇の姿を取る。
そのことは、一部の人間しか知らない、国家機密である。
「もうそろそろ、良いだろうか」
蛇である香樹は、寒さに弱い。
人の形をしていても、本質は変えられない。下手すれば、冬眠したまま永眠する可能性だってあるのだ。現に、前皇帝は冬眠したまま目覚めず、そのまま崩御した。
「あぁ、菊花が恋しい……」
冬の間、住まわせてもらっていた菊花の服の中。
彼女の肌の温もり以上に、香樹を癒やすものはない。柔らかく、温かく、それでいていい匂いがする。
前皇帝の後宮が解体されて、間もなく蛇香帝の後宮が作られる。
「菊花を呼ぶ、良い機会だ」
後宮の花は、菊花だけで良い。
宮女狩りをするのは、後宮の花にするためではなく、教養のない田舎娘たちに学を授け、地方を豊かにするためである。
そんな香樹の思惑も知らず、宦官たちは生まれ故郷へと散っていった。
菊花がいる崔英には、香樹の息がかかった宦官が行く手筈になっている。
「ああ、寒い。早くあたためてくれ、菊花」
伸ばした手が彼女を抱きしめられるようになるのは、いつだろうか。
いっそ明日でもいいのにと、香樹は震える体を掻き抱いた。
その人との思い出は、いつも決まって寒い時に思い出された。
寝台で横になっていた香樹は、ふと夜中に目を覚ます。
丸い窓から見えるのは、冴え冴えとした白い月。まるで雪玉のようなそれに、香樹は舌打ちしたくなった。
「寒い……」
香樹はイライラと、形の良い唇でうめいた。
とにかく寒くて、頭がぼんやりする。
手も足も無くなったように感覚がなくなって、少しでも暖を取りたくて体を丸めた。
部屋の隅にはたくさんの火鉢が並べられているが、寝台にまでその熱は届かないらしい。
(誰か呼んで、火の番でもさせようか)
だが、こんな夜中に呼び立てるのもかわいそうである。
だんだんと混濁してくる意識に、そうも言っていられないかとも思う。
寒さに震えながら、香樹は無意識に「菊花」と呟いていた。
香樹の言う菊花とは、植物のことではない。とある少女の名前である。
菊花は、明るい金の髪を持ち、肌はもっちりしていて白く、目は紫水晶を嵌め込んだような色をしている。
隣接する戌の国には、このような容姿は珍しくない。
だが、巳の国では非常に珍しい特徴だった。
菊花に姓はない。ただの菊花だ。
彼女は、巳の国の西、崔英でも田舎の方の、さらに町外れに住んでいる。
町外れに住んでいるのは、菊花の異質な容姿のせいだった。
父も母も、この国ではよくある、黒い髪に黒い目をしている。
菊花だけが、まるで拾い子のように彼らと違う容姿だった。
菊花は、正真正銘、慧生と梨花の子供である。
彼女がどうしてそんな色を持って生まれたのかは分からない。
だが、不躾な人々は「梨花が他国の男と浮気をしたからだ」とか「子に恵まれないせいでどこかからもらってきたのだ」と言った。
そんな中傷から菊花を守るために、彼女の両親は田舎のさらに田舎でほそぼそと暮らしていたのだった。
菊花は、両親からきつく、町へ行ってはいけないと言われていた。
両親の言い分はもっともである。
町へ行けば、菊花は謂れのない誹謗中傷にさらされるのだから。
そのため、幼い菊花の友達といえば、山に居る虫や動物が主だった。
特に気に入っていたのは、蛇である。
巳の国は蛇神様がつくりし国だ。
そのため、蛇を崇め奉り、神の使いとして大事にしていた。
脱皮した蛇の皮は、御守りにされるほどである。
菊花が特に蛇を気に入っていたのは、そのせいもあったのだろう。
遊び相手の蛇の中でも、特に気に入っていたのが、白と名付けた蛇だった。
白は、その名の通りに白い蛇である。
鱗に光が当たると黄金色に輝き、菊花の目には神々しく見えたらしい。
「まるで建国の蛇神様のようね」
菊花はよくそう言って、白を褒めた。
どの蛇よりも弱く、どの蛇よりも小さな白は、他の蛇に虐められるたびに、菊花の服の中へ逃げ込んだ。
そんな白を、菊花はいつも笑って許した。
シュルシュルと肌を這う感覚に嫌悪感も抱かずに、「くすぐったいよ、白」と言って。
菊花でなければ、いかに蛇神を信仰していようと追い払われていただろう。
だって、蛇は怖い。毒があるものだっているのだから。
子供の菊花はそんなことも知らず、のんきに白をかわいがった。
白も、そんな菊花を気に入っていたのかもしれない。
冬になっても冬眠せず、菊花の服の中でぬくぬくと過ごした。
小さな白は、菊花の服の中に居ても気付かれることはなかった。
気付かれないのを良いことに、一人と一匹は毎年繰り返す。
ところが、菊花が十四になった夏、白は突然姿を消した。
『いつか、迎えにいくからな』
いなくなった自分を必死に探し回る彼女を陰からそっと見つめ、白は後ろ髪引かれる思いで旅立ったのである。
言わずもがな、彼女の服に入っていた白蛇とは、白香樹のことである。
巳の国の皇帝は、国つくりの蛇神の子孫。
故に、彼らは成人するまで蛇の姿を取る。
そのことは、一部の人間しか知らない、国家機密である。
「もうそろそろ、良いだろうか」
蛇である香樹は、寒さに弱い。
人の形をしていても、本質は変えられない。下手すれば、冬眠したまま永眠する可能性だってあるのだ。現に、前皇帝は冬眠したまま目覚めず、そのまま崩御した。
「あぁ、菊花が恋しい……」
冬の間、住まわせてもらっていた菊花の服の中。
彼女の肌の温もり以上に、香樹を癒やすものはない。柔らかく、温かく、それでいていい匂いがする。
前皇帝の後宮が解体されて、間もなく蛇香帝の後宮が作られる。
「菊花を呼ぶ、良い機会だ」
後宮の花は、菊花だけで良い。
宮女狩りをするのは、後宮の花にするためではなく、教養のない田舎娘たちに学を授け、地方を豊かにするためである。
そんな香樹の思惑も知らず、宦官たちは生まれ故郷へと散っていった。
菊花がいる崔英には、香樹の息がかかった宦官が行く手筈になっている。
「ああ、寒い。早くあたためてくれ、菊花」
伸ばした手が彼女を抱きしめられるようになるのは、いつだろうか。
いっそ明日でもいいのにと、香樹は震える体を掻き抱いた。