穴穂大王の暗殺により、眉輪と葛城円が亡くなってから早2週間が立っていた。
韓媛は父親が死んでしまい、自身の住居も炎で燃え尽きて失くなってしまった。
その後は、彼女の母親の紫津媛の実家に身を寄せていた。これは葛城円が生前から決めていた処置である。
円は以前に起こった葛城能吐の事件後、もし自身に何かあっては娘を守れなくなると思い、彼のもう1人の従弟である葛城蟻臣と話しをしていたのである。彼は市辺皇子の妃の荑媛の父親にあたる人だ。
お互いにもしものことがあれば、その後は葛城や相手の家族を助けてやって欲しいと。
よって今後は韓媛の後見人はこの蟻臣が引き受けることとなる。韓媛もこのことについては、生前の葛城円より聞かされていた。
その後大泊瀬皇子も葛城円の娘の韓媛を殺すことはしなかった。
もしそのつもりなら、そもそもあんな危ない状況の中、彼女を助けにはこなかったはずだ。
そして葛城円が亡くなったことにより大臣が不在になってしまったため、その代わりに平群真鳥が新たに大臣に付く。
また大連も大伴室屋以外に新たに物部目も付く形となった。
こうして豪族葛城は大和の中央の実権から退くこととなる。
だが韓媛に至っては母親の実家で問題なく過ごすことができており、また彼女の後見人も決まった。
その後見人の蟻臣も近々韓媛に会いにきてくれる話になっている。
そのため、彼女の生活と身の安全は何とか守られる形となった。
一方大和の方ではまだ次の大王は決まっていない。
今回の大泊瀬皇子自身の身勝手な行動には、周りの者達もひどく驚かされる形となったが、そこまで責められてはいないようだ。
だが葛城円が自身の死によって大臣から降りたため、大泊瀬皇子が葛城の元を訪れる理由が亡くなってしまった。
そのため韓媛も、この2週間彼とは全く会っていない。
「大泊瀬皇子は元々他の女性を正妃や妃に考えていた。だからこのまま彼と会わない方が、互いのためにも良いのかもしれない」
(それに彼が他の女性と幸せにしている所なんて、余り見る気にもなれないわ……)
ただ韓媛もいずれはどこかに嫁がないといけない。それについては後見人の葛城蟻臣が今後は対応するのかもしれない。
ただ彼女自身、今は中々そんな気分にはなれない。まだ父親が亡くなって2週間しか経っていないのだ。その悲しみからもまだ完全には立ち直れていない。
「本当に私はこれからどうなるのかしら」
とりあえず今度葛城蟻臣が自分に会いにきてくれると聞いている。今後のことについてはそれから考えれば良いだろう。
丁度その時だった。彼女のいる部屋の外から女性らしき人の声が聞こえてきた。
「韓媛様、今少し宜しいでしょうか?」
彼女はこの家に仕えている使用人の女性で、名を布津与といった。
「まぁ布津与、どうかしたの。とりあえず中に入ってきてもらって大丈夫よ」
韓媛にそういわれたので、彼女はそのまま静かに部屋の中に入ってきた。
彼女は丁度40歳になったばかりの女性で、彼女にも子供はいるようだが、その子供達は既に成人しているとのことだった。
「韓媛様、突然で申し訳ありません。先ほど韓媛様に会いたいと訪問されてきた方がおられまして……」
(え、私に会いに? 一体誰がきたのかしら)
葛城蟻臣が来るのはまだ先だと聞いているので、誰が自分に会いにきたのか彼女は全く想像がつかない。
それに布津与の様子もどこか戸惑い気味のように見える。
「それで、布津与。誰がこられたの?」
すると布津与は少しいいにくそうにしながらいった。
「それが今さっき大泊瀬皇子がこられまして、皇子が韓媛様に会わせて欲しいとおっしゃられました」
韓媛は意外な訪問者の名前にとても驚く。今はただでさえ大王が不在でとても大変な状況だ。なので当然彼も忙しくしているに違いない。
(どうして大泊瀬皇子がここにきているの?)
だが相手が自分に会いたいといってわざわざここまできている。ならばさすがに会わない訳にはいかないだろう。
それに前回の大王の暗殺のこともあるので、その件で何か自分に話しがあるのかもしれない。
彼女は葛城円唯一の近い肉親である。
「分かったわ。大泊瀬皇子に会うことにするわ。それで彼はこの部屋まできてくれるのかしら?」
「そうですね、ではその旨を大泊瀬皇子にお伝えしてみます。 それでもし何か問題があるようなら、また韓媛様に伝えに参りますので」
布津与はそういうと大泊瀬皇子に韓媛の伝言を伝えるため、彼女の部屋をいそいそと出ていった。
それから韓媛は自身の部屋で静かに待つことにする。
そして暫くして人の足音が聞こえてくる。誰かが彼女の部屋の前までやってきたようだ。
「韓媛、大泊瀬だ。中に入っても良いか」
どうやら彼は韓媛からの伝言を聞いて、そのまま部屋にまでやってきたようだ。
「はい、大丈夫です。皇子このまま入ってきて下さい」
韓媛からそういわれたので、大泊瀬皇子はそのまま彼女のいる部屋の中に堂々と入ってきた。
そして彼女も立ち上がり、皇子が自身の前までやってくると「大泊瀬皇子、どうもご無沙汰しております」と少し微笑んで、彼に挨拶をした。
そんな彼女を見て皇子も少しほっとしたような表情を見せる。
とりあえず立ち話しも何なので、2人は床に座って話しを始めることにした。
「韓媛、今日は本当に急な訪問で悪い。とりあえずお前が元気そうで良かった」
大泊瀬皇子は前回あんな恐ろしい事件を経験したというのに、全くいつもと変わらない感じに見える。
「はい、お陰さまで。ここの人達にもとても良くして下さって、本当に感謝してます。
でもまさか大泊瀬皇子がこの場所にこられるとは、少し意外でした……」
「前回は本当に色々と大変なことになってしまった。それでお前もかなり傷付いただろうから少し様子が気になってな」
韓媛はてっきり何か重い話でもあるのかと思って、少し緊張していた。だがどうやらその手の話ではなさそうだ。
「まぁ、もしかして私を心配してこられたのですか?」
(この人が私のお父様や眉輪様を自害に追いやったり、実の兄を殺した人だなんてとても想像できないわ)
「まぁ、他にも話したいこともあるにはあるのだが……まずはお前の様子を見ておこうと思った」
大泊瀬皇子は少しよそよそしくしながら彼女にそう告げる。
それを聞いた瞬間に韓媛は何だか拍子抜けしてしまった。
「私はてっきりもっと重い話をされにきたのかと思いました。
前回家に兵がたくさんきて、お父様達も自害することになったので。あの時は私も殺されてしまうのではと考えてましたから」
すると彼女の目から涙が出てきた。
あのまま父親を死なせてしまって、後悔がないといえば全く嘘になる。
あの時の父親の最後の顔は今でもはっきりと覚えていた。
だがそんな彼女を見ていた大泊瀬皇子はかなり驚く。まさか彼女がそんなことを思っていたとは全く想像していなかったようだ。
そして彼は彼女からそんなふうに思われていたことに対して、ひどく感情をむき出しにしていった。
「韓媛、お前何をいってるんだ! 俺がそんなことをする訳ないだろ!!」
大泊瀬皇子はそういって彼女を強引に抱き締めた。
(え、大泊瀬皇子!!)
韓媛は彼の余りの気迫に怖しさを感じ、思わず彼から離れようとする。
だが彼の力が強くて中々引き離すことができない。
「いいか、韓媛。俺はお前を見捨てるなんてことは絶対にしない」
彼のその言葉を聞いた時に、韓媛は生前の父親と最後に交わした時のことを思い出す。
あの時の父親も今の彼と同じことをいっていた。
「そういえば前回、あの炎の中で父の元に行った時に、父からも皇子と同じことをいわれました。皇子が私を見捨てることは絶対にしないと。それで詳しいことは皇子から直接聞くようにと」
(いけない、今までこの件のことをすっかり忘れていたわ……これは一体どういうことなのかしら?)
彼女の父親は大泊瀬皇子の一体何を思ってそう断言できたのだろうか。
というより、父親は大泊瀬皇子から何か聞いていたのかもしれない。
「でも私に皇子の役に立つような価値があるとは正直思えないです」
それを聞いた大泊瀬皇子は、何故かひどく愕然とした態度を彼女に見せる。
そして彼は急に彼女から少し体を離した。
韓媛も一体どうしたのだろうかと少し不思議そうにして、そんな彼を見つめた。
そして彼はいよいよ我慢の限界を越えたようで、彼女に自身の本音をぶつけた。
「韓媛、お前もいい加減に気付け!! 俺はお前のことが好きなんだ。そんなお前をどうして殺せるっていうんだ!!」
(え、大泊瀬皇子が私のことを好き?)
韓媛が一瞬何のことだか分からないといった表情をして見せると、彼は強引に彼女の顔を上げさせる。そして彼女の唇をそのまま自身の口でふさいだ。
韓媛は皇子から急に口付けされたことに気付き、思わず彼から離れようとした。
だが彼は彼女の背中に腕を回して、彼女が離れようとするのを止めさせる。
本人の腕の力はとても強かったが、思いのほか彼からの口付けは優しかった。
結局韓媛は彼から離れることができず、そのまま彼の口付けを受け続けることになる。
そしてしばらくして、やっと大泊瀬皇子は彼女から唇を離した。
韓媛は余りのことに体から少し力がぬけ、そして頬も少し赤みがかっていた。
大泊瀬皇子は片手だけ彼女の腰に回し、もう片方の手をそのまま彼女の頬に添えて言った。
「韓媛、これで分かったか。俺がお前のことをどう思ってるのか」
韓媛もさすがにここまでされるとそれは十分に理解した。
だがそうなると少し疑問に思うことも出てくる。まずはあの皇子の婚姻の問題だ。
「でも大泊瀬皇子いってましたよね、自分には心に決めた女性がいるって」
そもそも韓媛はこの件が原因で悩んでいた。彼には意中の女性がいるからと。
それを聞いた皇子は、両手で彼女の腰を持ち直し、続けて話した。
「確かにその件は本当に紛らわしくしてすまなかった。その女性というのはお前のことだ。
だが先に正妃の話しが上がったので、先送りにせざる得なかった……」
(皇子そういうことだったの。でも意中の女性は前々からいたような感じに見えた。でも私は彼とは4年も会っていなかったのに)
「でも私と大泊瀬皇子は4年もの間会っていませんでしたよね?。それなのにどうして皇子が私のことを」
その時韓媛は自分でいってみて、ふと何か大事なことを忘れていないかと考えてみる。
(大泊瀬皇子は前々から私のことが好きだった……)
「そういえば昔、大泊瀬皇子が私を妃にするとかいっていたことがありましたよね。まさかその頃から?」
大泊瀬皇子はそれを聞いて、大きくため息をして見せる。
「確かにあの時は今程本気でいった訳ではない。だがあの頃から俺はお前を妃にしたいとはずっと思っていた」
韓媛からしてみればこれはかなり意外だ。当時大泊瀬皇子はまだ12歳で、どうもその頃から彼は自分のことを好いていたようだ。
「すみません、大泊瀬皇子。あの時はてっきり冗談でいってるものとばかりに……」
「まぁ恐らくそうだろとは思っていたが」
皇子は彼女からはっきりそう言われてしまい、少し傷ついたような表情を見せる。
(あら、大泊瀬皇子を少し傷付けてしまったかしら?)
それから大泊瀬皇子は、韓媛にこれまでの経過を話すから聞いて欲しいといってきた。
なので韓媛もとりあえずは彼の話しを聞いてみることにした。
それから大泊瀬皇子は韓媛から体を離して座り直し、少し距離を取ってから話を始めた。
「俺は子供のころ割りと問題の多い子供で、周りの子供からもよく怖がられていた。でもそんな中、お前だけは普通に接してくれた。幼心にその優しさが正直俺には嬉しかった。だからお前なら将来自分の妃にしても良いと思った」
「皇子、それだけの理由で決められたのですか?」
韓媛からしてもこれは何とも意外な理由だなと思う。
「まぁそれもそうだが……それにお前は当時から割りと可愛かった。だから普通に好きだったのも本当だ」
大泊瀬皇子は少し恥ずかしそうにしながら答えた。韓媛はそんな彼を見て少し可愛いと思う。
「だが当時のお前はまだ恋に疎く、それでお前が年頃になるまで待つしかないと思った。だがずっと幼馴染のまま見られるのも嫌で、それで葛城に行くのをやめることにした」
「まあ、皇子はそれで葛城にこられなくなったのですね」
韓媛もこれで彼が4年間も葛城にこなくなった理由が分かった。だが実際に分かってみると何とも単純な理由である。
「それでお前が14歳になるのを待ってから葛城に行った。そして葛城円にお前を妃にしたいと申し出た。
丁度お前と子供の頃に良く遊んだ木の下で再会した時だ」
(だからお父様は皇子が私を見捨てることはしないと断言できたのね)
しかもこの婚姻は政略的な物とは中々考えにくい。これはどうみても大泊瀬皇子の純粋な恋心からきている。
「それでお父様はその話を聞いて、何といってきたのですか?」
「円も最初は少し驚いていたが、その後に『娘の韓媛が心から納得するなら、この婚姻は認めましょう』といってきた。彼は権力云々よりも娘の幸せを優先したかったようだ」
韓媛はそれを聞いて確かにあの父親ならいいそうだなと思った。
「まぁ俺としてもお前とは強制的ではなく、ちゃんと気持ちを通わせて婚姻を結びたいと思っていた。
だから何とかお前を俺に振り向かせようとして……
だが先ほども言ったように、その途中で草香幡梭姫との婚姻が上がってしまった」
(なるほどね。だいぶ皇子の事情が読めてきたわ)
ここまでくると韓媛もだいぶ気持ちが落ち着いてきた。始めはどんな重たい内容がくるのかと冷や冷やしていたが。
「だが前回の事件の際に、円は眉輪を見逃してもらう代わりに、娘のお前を俺に差し出すといってきた。
その時はよく分からなかったが、もしかすると自身の死期を悟っていたのかもしれない」
「お父様がそのようなことを。もしかすると、そうすることで私を守りたかったのかもしれませんね」
(あとはお父様は私の気持ちに気付いていたってことは……まさかそれはないわね)
韓媛もさすがに父親がそこまで感ずくことはないだろと考える。ただこればかりは本人に聞いていないので、絶対とはいいきれないが。
「確かに円なら考えそうだ。どのみち俺はそのつもりでいたから、お前の身を守るためにも良いと考えたのかもしれない。まぁ円本人がもういないので、確認のしようはないが」
葛城円はきっと娘が幸せになれるよう、そこまで色々と考えていたのであろう。韓媛はそう思うと、父にはただただ感謝の思いでいっぱいだ。
「とりあえず、今回俺がお前に話したかったことはここまでだ。
先程もいったが、円の生前にお前との婚姻の了承は既にもらっている。だがやはり俺としては強制的な形だけの婚姻はしたくない」
大泊瀬皇子はそういうとまた韓媛に歩みよってきた。
韓媛はそんな彼を目にして思わず後ろに下がろうとするが、皇子はそれを許さずに両手で彼女の肩をつかんだ。
そして彼はひどく真剣な目で彼女にいった。
「韓媛、お前は俺のことをどう思ってる?」
(そんな、どうといわれても……こういう時は普通何て答えたら良いの)
韓媛は彼にどう答えたら良いか分からず、中々言葉が出てこない。
「もちろん、今すぐ好きになれとはいわない。だが少しずつでも良いから俺のことを見てくれないか。お前のことは一生をかけて絶対に幸せにする」
韓媛はそんな彼の言葉を聞いて感動の余り涙が出てきた。
だが皇子からするとこの涙の理由がどうも理解できていないようだ。
「やはり、自身の父親を自害に追いやったおれは嫌か。だがそれでも俺はお前のことが……」
韓媛はそんな大泊瀬皇子を見て、これははっきりいわないと彼には伝わらないと思った。そして彼女は思わず彼の胸に飛び込む。
「違います、大泊瀬皇子。まさかこんな嬉しいことを皇子からいってもらえるとは思ってなかったので」
「韓媛、今何といった?」
それから彼女は少し体を離して、彼の目を見て自身の気持ちを伝える。
「大泊瀬皇子、私もあなたのことが好きです。だからずっとあなたに愛されたいと思ってました」
韓媛もここまでいうのが限界だった。だがはっきりと自分の気持ちを伝えられ、とても安心した気持ちになる。
だがその衝撃と感動は大泊瀬皇子の方がはるかに大きかった。ここまでいわれてしまえば、彼ももう気持ちを抑える必要がなくなる。
「韓媛、今いったことは本当か……」
韓媛は思わず笑みを見せて「うん」と頷いてみせる。
すると大泊瀬皇子は再度彼女を抱き締めた。だが先程のような強引さはなく、とても優しい抱きしめ方だった。
「韓媛、もう絶対にお前を手放したりしない」
「はい、私も皇子とずっと一緒にいたいです」
それから2人は互いの顔を見合わせ、どちらからともなくゆっくりと口付けを交わしていく。
そしてその後唇を離した2人は、互いにしっかりと抱きしめあった。
こうして韓媛と大泊瀬皇子はやっとお互いの気持ちを通じ合わせることができた。
だが次の大王も決まっておらず、2人の道のりはまだまだ前途多難な状態である。
こうしてその日を境に、大泊瀬皇子が韓媛の元に度々通い続けることとなった。
大泊瀬皇子の衝撃の告白から早2ヶ月が経過していた。季節も5月に入り、気温も徐々に暖かくなってきている。
韓媛も嫁ぎ先は元々親が決めると思っていたため、そこまで関心を抱いていなかった。だが大泊瀬皇子とのことがあり、始めて恋の素晴らしさを知る。
「今回のような展開になるなんて、本当に意外だったわ。婚姻の相手がまさかあの大泊瀬皇子だなんて……」
だが2人はまだ婚姻の約束をしただけで、正式に韓媛が大泊瀬皇子の妃になった訳ではない。
今は次の大王がまだ決まっておらず、皇子の草香幡梭姫との婚姻も先延ばしの状態のままである。
元々彼女の父親である葛城円が亡くなったことで、大泊瀬皇子は韓媛に会いに行く理由がなくなってしまった。
そこで彼は今回の行動を起こすことにしたようだ。
幸い葛城円から婚姻の了承をもらい、草香幡梭姫には元々建前上の婚姻だとは説明している。
であれば韓媛とはせめて婚姻の約束だけでもできれば、彼女に会いにいけると彼は考えたようだ。
「でも皇子が葛城にきていたこと自体も、本人たっての希望だったとはさすがに思いもしなかった」
皇子曰く彼が大王の代理で葛城にきていたのは韓媛に会うのも目的だったようだ。
さらに子供の頃に大人達について大和に行っていたのも、途中からは同じ目的に変わっていた。
(まさか、他にも何かあったりしないわよね……)
韓媛は嬉しいやら呆れるやらで内心複雑である。だが彼を好きなことに全く変わりはない。
そして彼が2ヶ月前に始めてここにきた日からしばらくした後、韓媛の後見人である葛城蟻臣が彼女に会いにくる。
彼は父親の葛城円より数歳年上で、割と温厚な性格の男性である。
そして自分よりも若い葛城円の死は、彼からしてもかなり衝撃で、始め知った時は本当に悲しみにくれた。
そんな彼から韓媛の今後の話しが出たので、彼女は大泊瀬皇子とのことを正直に話した。
彼も大泊瀬皇子がここにきたことは知っていたようで、それなりに予想はしていたようだ。
そして韓媛から全ての話を聞き終えると、自分もできる限りの協力はしていくといってくれた。
それを聞いた韓媛は蟻臣には本当に感謝の思いでいっぱいだ。
葛城は葛城円が亡くなったことにより、今後権力が大きく失われる可能性が高い。
だが父親の言葉にあったように、一族が末長く続いていくことが、本当の意味での繁栄だと彼女は今考えている。
「とりあえず今は、これからのことだけを考えていきましょう。私を生かしてくれたお父様のためにも」
そして今日は大泊瀬皇子が韓媛に会いにきてくれることになっている。
彼の場合事前に分かる時もあれば、突然やってくる日もある。
なのでいつ彼がきてもいいように、この家の使用人達もそのつど柔軟に対応してくれている。
大泊瀬皇子はその後、時間を見つけては彼女に度々会いにきていた。
ただ彼は大和の皇子なので、政りごとに関してもあれこれと動いている。そのことに関しては本当に凄いなと韓媛も感心していた。
「でもまさか、これほど良く会いにきてくれるのはちょっと意外だったけど……」
だが大泊瀬皇子のその気遣いは、韓媛としても本当に有り難くて、いつも嬉しく思っていた。
韓媛がそんなことを考えていた時である。彼女の部屋に誰かがやってきた。
「韓媛、俺だ。今中に入って良いか」
どうやら大泊瀬皇子がやってきたようだ。韓媛も意外にくるのが早いなと思った。
「大泊瀬皇子、今入り口まで行きますね」
彼女はそういって、慌てて入り口の前まで行き彼を出迎えた。
大泊瀬皇子も彼女に出迎えられてとても嬉しそうだ。
そして部屋の中に入ると皇子は韓媛を優しく抱き締める。2人はこの瞬間が本当に幸せだなといつも思っている。
「韓媛、元気にしていたか」
大泊瀬皇子は韓媛を抱き締めたまま、そう彼女にささやく。
韓媛もそういわれて嬉しくなり「はい、お陰さまで」といって彼の胸に顔をくっつけた。
それから彼女は皇子を部屋の中へと招き入れた。そして2人は床に腰をおろす。
韓媛は今日皇子がくると聞いていたので、彼を出迎えるためにお酒を事前に持ってきてもらっていた。
大泊瀬皇子は訪問の際に時々手土産を持ってきてくれることがある。今日はどうやら狩りでとった肉と、野菜をもってきてくれたようだ。
韓媛は皇子からその手土産を受け取ると、塩漬けした獣肉は少し生臭さが残っており、野菜は今朝方とってきたのか新鮮な香りが漂ってきた。
「まぁ皇子、いつもすみません。使用人に渡しておきますね」
韓媛はすぐさま部屋の入り口まで行き、そこから人を呼んだ。そして大泊瀬皇子からの手土産を落とさないよう、慎重に使用人に渡した。
そんな韓媛の対応を大泊瀬皇子はとても微笑ましく見ていた。
そして使用人の女性は「では次回の食時の時にお出ししますね」といったのち、そのままこの場を離れていった。
韓媛はその後大泊瀬皇子の元に戻ってきた。
それから須恵器の器にお酒をつぎ、彼に差し出す。
皇子も彼女からお酒を受け取るとそのまま一気に飲み干した。
その後は2人は、お互いの近況の話し等をして会話を楽しむことにした。
それからしばらく時間が経ったのち、大泊瀬皇子は韓媛を自身に引き寄せた状態のまま、彼女にある提案を持ちかける。
「お前も父親が亡くなって色々気苦労も多かっただろう。そこで気分転換に2人で少し外に出かけないか」
「え、2人でですか?」
韓媛は大泊瀬皇子にもたれかかったまま、彼の話しを聞いていた。
「あぁ、この近くだと葛城山に行ってみるのはどうだ?」
葛城山なら割りと近いので少し馬を走らせればすぐに辿りつく。気温もだいぶ暖かくなってきたので、天気が良ければさぞ気持ちいいことだろう。
「はい、それは構いません。私も久々に少し遠出してみたいです」
韓媛はそういってとても嬉しそうに微笑んだ。
大泊瀬皇子も彼女の同意がえられたので、行き先は葛城山にすると決めた。
「当日は俺がここまで迎えに行く。それから2人で馬に乗って行くとしよう」
彼はそういって韓媛の頭に優しく口付ける。
「せめて俺といる時ぐらいは、お前にも心安らいでもらいたい……」
大泊瀬皇子はさらに彼女にそう優しくささやいた。
韓媛も彼にそういってもらえて本当に自分は幸せだなと思う。
こうして2人は、後日葛城山に出かけることにした。
それから1週間後、2人は馬に乗って葛城山を目指した。
季節も5月に入ったので、あちらこちらで色鮮やかな花がたくさん咲いていて、蝶や鳥も飛んでいた。
またその草木からくる独特の匂いから、余計に春の訪れを感じさせれられる。
「この時期に葛城山に向かうのは本当に気分が良いですね」
さらに今日は天候にも恵まれていて、2人は蒼天の空を見上げた。
韓媛は皇子と違って余り自由に外を馬で走りまわれない。
なので今回のような遠出はそうそうできるものではなかった。
「確かにそうだな。俺からすればこれぐらいの遠出は大したことないが、韓媛にとっては貴重だろう」
「本当にそうですね。大泊瀬皇子、今日は誘って下さって本当に有り難うございます」
韓媛は大泊瀬皇子に感謝を込めてそう伝える。彼女も久々の遠出なのでとても嬉しく思う。
大泊瀬皇子もそんな嬉しそうな彼女を見ていると、ついつい自身まで嬉しくなってくるようだ。
「まぁ頻繁にとはいかないが……今は円もいないことだし、また俺がどこかに連れていってやる」
そしていよいよ2人は葛城山のふもとまでやってきた。そこから2人は馬の速さを少し落とし、そのまま山を登っていく。
山を登る道中もさまざまな風景がかいまみられ、韓媛はそんな景色にとても感動した。葛城山は過去にも何度かきているが、やはり葛城の山は本当に美しいと彼女は思う。
その後も2人は山を登り続けて割りと高い所までくることができた。
それなりに高い所までこれたので、一旦馬を降り少し周りを歩いてみることにした。
前に吉野に行った時は、韓媛が川に流されてしまい大変な目にあっていた。そのため大泊瀬皇子は彼女の手をしっかりと握って歩いている。
「大泊瀬皇子、本当に綺麗ですね。わりと遠くの方まで見渡せますよ」
韓媛は満面の笑みを浮かべながら楽しそうに話している。
こんな山の中はそうそう人が訪れることはない。なので他の人の目をとくに気にすることなく、2人は葛城の山を楽しむことができた。
それからしばらくして、大泊瀬皇子が少し休憩しようといってきたので、2人は近くにあった木のふもとに座ることにした。
そして大泊瀬皇子は、自身が持ってきていた竹で作られた筒を韓媛に渡す。筒の中には冷たい水が入っていた。
彼女も皇子から水をありがたく受け取って飲む。
「とても良い気持ちですね。今日は皇子と2人でこれて本当に良かったです」
韓媛は水を半分ほど飲むと、筒を大泊瀬皇子に渡す。
すると彼はその残りの水を一気に飲み干した。
「俺もできるだけお前に会いに行きたいとは思ってる。だがいつも都合よく行ける訳でもない」
韓媛はそ皇子の発言を聞いて少し意外だなと思った。
「まぁ、皇子は割りとよく会いにきて下さってると思いますよ」
彼はどんなに間が空いても2週間を越えることはなく、これは普通に多い方だろうと彼女は思う
「通常妃の元に通うとなれば、人によってはもっと頻繁に行くだろ。それができないのが本当に歯がゆい……」
どうやら彼の中で韓媛は既に妃の扱いになっているようだ。