「大泊瀬皇子、何がそれ程おかしいのですか?」
韓媛は少しムッとしていった。
自分は全うな事をいっているはずだ。それをこんなふうに笑われるとは、彼は一体何を考えているのだろう。
「いや悪い。まさか、お前がそんな事をいってくるとは思わなかった」
それから大泊瀬皇子は笑うのを止めて、真剣な表情をして韓媛にいった。
「あぁ、前回も話したが、俺が本当に好きな女性は他にいる。それはこの先もきっと変わる事はない」
韓媛はそんな皇子の話しを聞き、それまで高鳴っていた鼓動が、今度は酷く苦しくなってきた。
(彼から、他の女性の話しはもう聞きたくない……)
韓媛は思わず涙が出そうなのを必死で我慢した。こんな所で泣いてしまっては、彼を困らせるだけである。
「韓媛、お前は父親任せばかりにせず、もっと自分の意志で相手の男を見るべきだ」
「自分の意志で相手を見る?」
韓媛は今まで、そんなふうに考えた事がなかった。彼の言い方からすれば、自分の意志で相手を選ぶべきだといっているように思える。
(私が自分から望んでいる相手なんて……)
ふと韓媛は大泊瀬皇子を見た。彼は相変わらず真剣な目で彼女の事を見ている。
韓媛はそんな彼から思わず目が離せなくなった。と言うより、彼にはこのまま自分を見ていてもらいたい。
(私が望んでいる相手は、この人だわ……)
その瞬間に、韓媛はやっと自分の気持ちに気が付いた。自分が好きなのは今目の前にいる大泊瀬皇子だ。
だがそれに気付いた途端、その気持ちは絶望に変わった。彼には他に想いを寄せる人がいる。
(でも、この人は私には振り向いてくれない。そんな人を好きになってもどうしようもない……)
それから、韓媛はまた無言になってしまった。そんな彼女を見て、大泊瀬皇子もこれ以上この話しをするのは止める事にした。
「とりあえずこの話しはもう終わりにしよう。服が乾いたらそれに着替えてお前は小屋の中で寝たら良い。小屋の中にまだ布が結構あったから、それにくるまれば寒くないだろう」
「皇子はどうされるのですか?」
「俺はこのまま焚き火の前で横になっている。お前と一緒に小屋で寝るわけにもいかないのでな」
韓媛もこのまま焚き火の前にいたら、うっかり泣いてしまうかもしれないと思い、彼の意見に素直に従う事にした。
「大泊瀬皇子、分かりました」
「あぁ、悪いがそうしてくれ。間違ってもお前と過ちをおかす訳にはいかない」
彼のその一言が、韓媛には少し冷たい感じに聞こえた。
それから韓媛は服を着ると、そのまま小屋に向かい、布にくるまって休む事にした。
小屋の中で彼女は、皇子に気付かれないようにしながら涙を流した。
(もうこの気持ちは、心の内にしまっておこう。今は辛くても、いつかきっと忘れられる日がくるわ)
その頃は大泊瀬皇子は、焚き火の前で1人頭を抱えていた。彼もまた、今までずっと己の理性と戦っていた。
(くそ、俺はいつまでこんな事をしないといけないんだ!! 本当は今すぐにでも、あいつを自分の腕に閉じ込めたいぐらいなのに……)
こうして2人は、それぞれの思いや葛藤を抱えながら、翌朝を待つ事にした。
翌日韓媛は小屋の中で目を覚ました。布を複数枚まとっていたとはいっても、この季節の朝は少し冷え込んでいる。
とりあえず小屋から出てみると、大泊瀬皇子は既に起きているようで、川から水を汲んできていた。どうもこの小屋に水を汲めれそうな入れ物があったみたいだ。
「あぁ、韓媛起きたか」
大泊瀬皇子は小屋から出てきた韓媛に声をかけた。
「大泊瀬皇子、おはようございます。ずっと外で大丈夫でしたか?」
「あぁ、昨日お前が眠ったのち、小屋からそっと布を持ってきた。それから、焚き火の前でその布にくるまって休んでいた」
そういって彼は韓媛に水を渡した。
皇子から水を受け取ると、その水を一気に飲み干した。水はとても冷えていたが、とてもすっきりとした飲み心地だ。
(皇子をずっと外にいさせる形になってしまって、本当に申し訳なかったわ……)
「大泊瀬皇子、本当に済みません。皇子を外で寝させるはめになってしまって」
大泊瀬皇子は、自身も冷たい水を飲みながら、特に気にするふうにでもなくしていった。
「別に外で夜を明かす事にも慣れている。そこまで困る事もない」
韓媛もそれを聞いてそういうものかと思い、とりあえず納得する事にした。
その後2人は、皆のいる所まで戻る事にした。大泊瀬皇子曰く、この小屋から離宮までの道のりは何となく覚えているとの事だったので、2人は歩いて戻る事にした。
ただ山道で、所々危ない所もあるため、皇子は韓媛の手をしっかり握って進んで行く。彼女もそれには特に抵抗する事なく、素直にしたがった。
そしてひたすら歩いていると、遠くに離宮らしきものが見えてきた。
「韓媛、あそこを見ろ。 離宮が見えてきた」
韓媛も遠くにある離宮を見つけて、思わず安堵した。今回は散々な目にあったが、これで何とかなりそうだ。
そして、離宮が近付いて来ると、馬の走ってくる音が聞こえて来た。
2人がその先を見ると、彼らと一緒に来ていた従者の者達のようである。
そんな彼らも、大泊瀬皇子と韓媛を見つけたようで、馬に乗ったままやってきた。
「大泊瀬皇子、韓媛、ご無事でしたか!!」
「あぁ、大丈夫だ。心配かけて悪い」
大泊瀬皇子は従者達にそういった。きっと彼らも今まで2人を必死で探していたのであろう。
そうしていると、また別の馬がこちらに向かって走ってくる。よく見るとそれは葛城円だった。
(お父様も、一緒に探されてたのだわ)
葛城円は皇子と韓媛の前まで来ると、そのまま馬から降りてきた。
彼の表情は少しやつれているように見える。きっと娘と皇子が突然いなくなったので、今まで気が気でなかったのであろう。
「大泊瀬皇子、韓媛無事だったか」
「あぁ、円本当に迷惑をかけて済まなかった」
葛城円は大泊瀬皇子からそう言われると、今度は韓媛の方を見た。
「お父様! 本当に心配をかけてごめんなさい!!」
韓媛も頭を下げて謝った。
すると円は彼女の肩をつかんで、顔を上げさせた。
(駄目、叩かれる……)
彼女はそう思って、一瞬身構える。
だが彼はそのまま彼女を突然に抱き締めると、その場で声を張り上げていった。
「韓媛! お前は何て心配を私にさせるんだ!! 危うく妻だけでなく、娘まで失ってしまうかと思ったんだぞ!!」
それを聞いた韓媛は思わずぼろぼろと泣き出してしまった。
「お、お父様……本当にごめんなさい」
葛城円はそんな彼女の頭を優しく何度も撫でてやった。そんな彼も目にうっすらと涙を浮かべている。
そんな韓媛と円のやり取りを大泊瀬皇子も横で見ていた。
何はともあれ、無事に彼女と戻ってこられて本当に良かったと彼は思う。
その後、彼らは一端離宮に戻る事にした。
離宮に戻る道中、大泊瀬皇子は葛城円に、これまでの経緯を馬を走らせながら説明した。
彼もその話しを聞き、本当に驚いたようで、その後大泊瀬皇子にひたすら感謝を述べていた。彼は娘の命の恩人である。
韓媛も円と同じ馬に乗っており、ふと横を走っている大泊瀬皇子を見つめた。
(そういえば私、皇子が好きな事に気付いてしまったのよね……)
だが彼はいずれ別の姫を正妃に娶り、またその姫とは別に本命の女性がいる。とても自分が想いを打ち明けられる相手ではない。
そのため、韓媛はこの想いは内に秘めるしかないと思った。
(もう彼の事は、時間をかけて忘れるしかない)
こうしてしばらく馬を走らせた後、韓媛達は無事に離宮に戻る事が出来た。
韓媛達が離宮に戻ってくると、何故だか宮が少し騒がしくなっていた。
(あら、人が増えてる。誰かが来られたのかしら?)
「うん、一体何事だ」
大泊瀬皇子も宮内から人の声が聞こえて来るので、少し不思議に思った。
どうやら誰かが、この離宮にやって来ているようだ。
大泊瀬皇子は、離宮につくなり馬から降りて、誰がここにやってきたのか確認する事にした。韓媛や葛城円も馬を降りて、そんな大泊瀬皇子の後に続いた。
すると大泊瀬皇子は、1人とても見覚えのある青年がいる事に気が付いた。
「い、市辺皇子。何でお前がここにいるんだ!」
何と彼の前にいたのは、大泊瀬皇子の従兄弟である市辺皇子だった。
急な市辺皇子の登場に、韓媛と葛城円も流石に驚く。彼は葛城の姫を妃にしているため、葛城とも縁がとても深い。
市辺皇子は、大泊瀬皇子達がやって来た事を確認すると、ひとまず大泊瀬皇子に声をかけてみる。
「あぁ、大泊瀬、無事に戻ってこれたのか。先程この宮の人達から、お前と韓媛の姿が消えてしまったと聞いて、とても驚いていた所だ」
だが市辺皇子は、驚いたと言っている割には平然としている。そして何となくだが、少し愉快そうにしているふうにも見えた。
大泊瀬皇子は、そんな市辺皇子の態度を目にし、少し苛立った。
「あぁ、お陰さまでな。あいにく俺は悪運には恵まれてるようだ」
彼は嫌みたらしくそういって、市辺皇子を少し睨み付けた。
元々この2人は仲が余り良くない。なので周りの者達は、このままだと一発触発してしまうのではないかと、一瞬不安がよぎった。
「これは、市辺皇子。お久しぶりです」
この状況を見かねた葛城円が、大泊瀬皇子の後ろから出てきて、市辺皇子に声をかけた。
すると市辺皇子は葛城円に対して答える。
「円久しぶりだね。何でもあなたの娘が川に入ってしまい、その後行方が分からなくなったと聞いていた。でもどうやら無事だったようで、安心したよ」
市辺皇子はそういって、円の横にいる韓媛を見て、にっこり笑った。大泊瀬皇子の方は分からないが、彼は少なくとも韓媛の事は気にしていたようだ。
「はい、最初はもう駄目かと思いましたが、大泊瀬皇子が助けてくれました。市辺皇子もお元気そうで何よりです」
韓媛は、市辺皇子にそう答えた。
大泊瀬皇子と市辺皇子は余り仲が良くないが、韓媛自身は市辺皇子とは普通に接している。それに彼の妃である荑媛と韓媛は親戚同士で、彼女達は元々仲が良かった。
「それで市辺皇子、今日は何故この宮に来ている」
大泊瀬皇子は、そんな市辺皇子と韓媛が話しをしている事など、特に気にするふうでもなくしていった。
「あぁ君達と一緒で、久々に吉野に来てみたくなってね。それで数名を引き連れて狩りでもしようと思ったのさ」
そういわれて大泊瀬皇子が見ると、少し離れた所に、彼の従者らしき者が数名立っていた。
「ふん、息子2人は連れてきてないのか」
「あぁ、先日2人が遊んでいた時に、弟の弘計が怪我をしてしまった。
そこまで心配するものでもないが、それもあったので、兄の億計共々連れてくるの控えさせた」
彼の言う、億計と弘計は市辺皇子と荑媛の間に生まれた皇子である。
「まぁ、弘計が怪我をされたのですか?」
韓媛もこの兄弟とは面識があるので、少し心配した。2人は韓媛より数歳年下の男の子達で、荑媛を介して仲良くしている。
「今回吉野に来れなかったから、弘計は今頃、宮で拗ねてるだろうけどね。その点億計は物分かりが良いから納得していたが」
そう言って市辺皇子は少し愉快そうにしている。市辺皇子と荑媛の婚姻も言わば政略的なものではあったが、意外に2人は仲良くしていた。
こうしてその後、市辺皇子は自分達はこれから狩りに行くと言って、従者らを引き連れて離宮を後にした。
大泊瀬皇子と韓媛は、まだ朝食を取っていなかったので、ひとまず食事を取る事にした。
「でも、市辺皇子まで来られてたのは意外でした。荑媛も元気にしてるのかしら」
荑媛の父親の蟻臣と、韓媛の父親の円が従兄弟同士の関係になる。よって荑媛と韓媛も必然的に昔から仲良くしていた。
「さぁな。特に悪い話しは聞かないから、問題はないだろう。もし何かあるなら市辺皇子が吉野になぞ来ない」
(まぁ、それはそうでしょうけど……)
韓媛はそんな大泊瀬皇子を少し呆れながら見ていた。人間誰しも、性格の合う合わないはあるので、仕方ないのかもしれないが。
「市辺皇子と荑媛はとても仲が良いご夫婦ですからね」
韓媛はそう言ってクスッと笑った。2人は政略的な婚姻とは聞いているが、それでも仲良く出来ているのはとても良い事だ。
「まぁ、あいつの場合は、俺の母上の影響が強いのだろう。昔から母上は、あいつに将来女性をちゃんと大事にするようにと良くいっていたそうだ」
「あの皇后様が、そのような事をいわれていたのですか?」
「あぁ、前の大王であった父上は、母上を娶るまでは、結構色んな娘に手を出していたそうだ。そんな父上を見て、母上が市辺皇子にいい聞かせていたんだ。市辺皇子は母上の事をとても慕っていたから、その教えを忠実に守ってるのだろう」
韓媛はそれを聞いて、思わず目を丸くした。彼の父親がそんな人だったとは全く知らなかった。
「確かに大王や皇子ともなれば、複数の姫を娶ったりします。なのでけして珍しい事ではありません。でも雄朝津間大王もそういう事があったのは意外でした」
大和の大王や皇子なら、どちらかと言えば普通の事なのだが、雄朝津間大王は皇后をとても大事にしていた印象だったので、これは少し意外な話しだと思った。
「だが市辺皇子の場合は、元々別の姫を妃に考えていた。でも相手がそれを拒み、それでその後に葛城の姫と婚姻がまとまったようだが」
大泊瀬皇子はそう言って、手元にあった串差しの焼き魚を口に入れた。今日の朝早くに、この離宮の人が取ってきていたようだ。
「え、別の姫って、一体誰の事ですか?」
韓媛も山でとれた山菜と、干し飯をお湯で柔らかくしたものを一緒に食べながら話していた。
(その話しも初めて聞いたわ。あの市辺皇子に他の意中の姫がいたっていうの……)
「俺の父親の兄にあたる瑞歯別大王の皇女の阿佐津姫だ。お前も噂で聞いた事があるかもしれないが、この大和内でも、かつては特に美しいと噂されていた姫だ。だが彼女は市辺皇子との婚姻を断り、物部筋の元に嫁いでいった」
「皇女の阿佐津姫……名前は聞いた事ありますが、お会いした事はないですね」
韓媛もそれは意外だったなと思った。市辺皇子は今の妃である荑媛とは上手くやれていたので、まさか過去にそのような事があったとは。
「市辺皇子はその阿佐津姫の事がお好きだったのでしょうか? もしそうなら、きっととてもお辛かったでしょうね」
韓媛は思いが通じない恋が、どれ程辛い事かを知ったばかりだ。なので余計に市辺皇子が気の毒に思えた。
「その辺は俺も分からないが、相手の姫が拒んだのだから仕方ないだろう。その後は諦めて、潔く他の姫を娶ったのだから、それで良いのではないか」
(大泊瀬皇子のいってる事は間違ってはないけど……)
韓媛は何とも複雑な気持ちになる。人の想いとは中々上手くはいかないものだ。
そんな話しをしていると、葛城円が2人の元にやってきた。
最後にもう少しだけ紅葉を見て、それから大和に帰ろうとの事だ。
こうしてその後帰りの準備をし、そのまま昨日行った川の近くに行き、馬に乗ったまま秋の紅葉を眺める事になった。
昨日の韓媛の件があったので、葛城円は彼女を馬から絶対に下ろさせないようにした。
(まぁ昨日の事もあるし、仕方ないわ)
あと2人が離宮に戻って葛城円から聞いた話で、昨日会った2人の兄妹の子供達は、その後無事に親元に帰れたようだ。
今回の経緯を聞いた彼らの親達は、この件に対して涙を流して詫びた。
そしてそのお礼にと、その後離宮に食べ物等がいくつも届けられた。
こうしてその後、韓媛達はそれぞれの宮や住居に戻る事となった。
韓媛達が吉野から帰ってきてから、数ヶ月程が過ぎる。そして年も変わって彼女も15歳になった。
その間この大和も特に変わったこともなく、それなりに穏やかな日々が続いている。
そしてそんな中、穴穂大王があることについて悩みを抱えていた。
彼は大草香皇子の暗殺したのち、彼の妃であった中磯皇女を自身の皇后にした。また彼女と大草香皇子の子供である、眉輪も一緒に自身の宮に住まわせている。
中磯皇女は、亡き去来穂別大王の妃であった黒媛が亡くなった後、新たに立后した草香幡梭皇女との間に生まれた皇女である。そして彼女と穴穂大王は従姉同士の関係だった。
なお彼女の母親である草香幡梭皇女は、大泊瀬皇子と婚姻の話しに上がっている草香幡梭姫とは別の人物だ。
そして穴穂大王は以前から、そんな中磯皇女に密かに想いを寄せていた。
そのため大草香皇子を暗殺した後、彼は彼女を自身の皇后とする。
中磯皇女の方もそれに対して特に抵抗することもなく、素直に従った。
だがそんな穴穂大王ではあったが、やはり今回の一連のできごとに対して、彼は少し罪悪感を感じていた。
そんなある日のこと、穴穂大王は神床で昼寝をしていた。今はちょうど陽が傾く頃にさしかかっており、そこに彼は中磯皇女を招きよせた。
彼は自身の太刀を横に置き、彼女の膝に寝そべったまま彼女に話しかける。
「なぁ、中磯皇女。君は今、なにか心配なことなどはないか」
穴穂大王はふと彼女にそんな質問をした。やっとの思いで后にした彼女だが、彼女の前の夫を殺して自身の后にした女性だ。そのこともあって、彼女自身が今の現状をどう思っているのか気になった。
「そうですね。大王にはとても大事にして頂いてます。なので心配なことなどは特にありません」
中磯皇女は大王の顔を見て、彼に優しくそういった。
穴穂大王はそんな彼女の表情を見て、自分を恨むこともせず、何の抵抗もなく后になった彼女が本当に不思議に思う。
そんな彼女を前にして、穴穂大王は中磯皇女に自分の悩みを打ち明けることにした。
「俺は眉輪のことが気がかりだ。あの子の父親を殺させたのが、俺自身だということをまだ本人は知らない。
なので将来そのことを知ったら、眉輪は一体どう思うのだろうか。自分を恨み、復讐しようと思うかもしれない……俺はそれが気が気でならない」
眉輪はまだ7歳で、大草香皇子の暗殺の経緯をまだ詳しく聞かされていない。
中磯皇女もそのことには、特に何もいい返すことはせず、ただ黙って彼の話しを聞いていた。
そして丁度穴穂大王がその話しをしている時だった。偶然にも眉輪が穴穂大王の神床の建物の下にもぐり込み、遊んでいたのである。大王の神床は高さがあり、その下は子供なら簡単に入り込める。
そして運悪く彼は穴穂大王の話を聞いてしまう。
「僕の父さまは、今の大王が殺した……」
眉輪は余りの衝撃にその場で動けなくなる。ある日突然彼は父親が死んだことを知らされた。
まだ子供の彼からしても、それはとても辛いできごとである。だがそんな彼を穴穂大王は優しく迎え入れた。
だが実際にはその大王本人によって、彼の父親は殺されていたのだ。
眉輪の目から思わず涙がでてきた。自分の父親が一体何をしたというのだ。
その時まだ幼い彼の心に沸々と怒りが込み上がる。今の大王は自身の幸せな生活を壊し、そしてさらには彼の母親まで奪いさってしまったのだ。
(大王のことは絶対に許さない……父さまの仇を僕がとってやる)
眉輪はそこで大王に復讐することを決めた。
大王など死んでしまえば良い。己の父親が受けた苦しみを味あわせてやろう。
その後眉輪は静かにその場を離れて行った。
それから眉輪は大王が自身の部屋で寝ているのを確認したのち、彼の寝床にそっと気づかれないようにして入っていく。
今は辺りもだいぶ日が暮れてきていた。
そして部屋に入ると、彼は大王の側に置いてあった飾大刀を自身の手に持ち、鞘から剣を抜いた。
(今大王は寝ている。そっと近づいてやれば、気付かれない……)
そして彼は大王の側までくると、一気に大刀を振り下ろし、大王の首を斬る。
7歳の子供とは思えない、凄まじい気迫と力だった。
その瞬間に大王の目が一瞬開いたが、そのまま彼は程なくして死んでしまう。
大王が死んだのを確認すると、眉輪はそこでやっと我に返ることができた。
一体自分はどうして、このようなことをしてしまったのだろうか。
(ど、どうしよう……ぼ、僕、大王を殺してしまった)
眉輪は、とりあえず今はどこかに逃げるしかないと考えた。
(大和の人達は、きっと僕のことを許さない。そ、そうだ。であれば力のある葛城の元に行こう)
眉輪の脳裏に葛城円が浮かんだ。彼なら自分を助けてくれるかもしれない。
それに葛城円の元なら、子供の自分でも歩いて行けなくもない。
眉輪はそう思うと、慌ててその場を後にし、葛城円の元に向かうことにした。
穴穂大王の寝床から眉輪が慌てて出ていくのを見た、宮の使用人の男は不振に思い、大王の元に行ってみることにした。
そして大王が死んでいるのを目にし、余りのことにその場で大声を発した。
「あ、穴穂大王ー!!」
その瞬間に宮は大騒ぎとなる。宮の使用人達が大王の部屋を確認した所、大王を斬った飾大刀にたくさん血が付いており、それが子供の手の形のように見えた。
そして先程、眉輪が慌てて大王の元から逃げて行くのを使用人の男が見ている。そのため穴穂大王を殺したのが、眉輪ということも分かってしまった。
それを知った中磯皇女は、余りのことにその場で気を失ってしまう。
また眉輪は既に宮から逃げていたため、既に行方が分からなくなっていた。
そこで宮の者達は、すぐさま遠飛鳥宮にこの件を伝えることにした。
翌朝の日が明けるやいなや、遠飛鳥宮の元に穴穂大王の住まいであった石上穴穂宮から、早馬にて至急の連絡がやってくる。
突然の早馬の到着に、遠飛鳥宮の人達もなにごとかととても驚いていた。
そしてその知らせの内容を最初に聞いたのは、前の大王の皇后である忍坂姫だ。彼女は息子である穴穂大王が殺されたことを知り、余りの衝撃にその場で崩れ落ちてしまった。
そしてその後、大泊瀬皇子や他の兄弟達もその事実を知ることとなる。
大泊瀬皇子はその話しを聞くと、余りのことに思わず外に飛び出して行ってしまう。
そして外に出ると兄を失ったことに対し、怒りと悲しみを顕にした。
(穴穂の兄上が死ぬなんて、嘘だろ……だ、誰か、嘘だといってくれ!!)
大泊瀬皇子は自身の兄弟の中で、穴穂大王を一番慕っていた。彼は子供の頃にひどく問題児だった大泊瀬皇子を、いつも気にかけてくれていた。そしてそんな彼の遊び相手にも良くなっていた。
それから大泊瀬皇子は地面にへばり付くと、地面を何度も何度も叩きつける。余りに強く叩いていたので、手の表面の皮膚が少し破れて、血がにじみだしてきた。
そして彼は涙を流しながら、その場で声を張り上げて亡くなった兄の名を叫んだ。
「穴穂の兄上ーー!!」
(穴穂の兄上は眉輪に殺された……)
眉輪の父親の大草香皇子は、穴穂大王の指示で暗殺されてしまった。なので眉輪がその復讐で、穴穂大王を殺したくなる動機は分かる。
でもだからといって、大王である兄を殺した眉輪を、彼はとても許すことができない。
さらに今回は大王の暗殺だ。このまま見過ごす別けには到底いかない。
その瞬間に大泊瀬皇子は、ひどく恐ろしい感情を顕にする。
(眉輪め、お前は絶対に許さない! 捕まえて必ず俺が兄上の仇をとってやる!!)
そしてその翌日、眉輪が葛城円の元に行っていることが宮内に知らされる。
偶々穴穂大王の宮からの使いで、葛城円の元に行っていた者がそのことを知ったようだ。
葛城円の元でも、突然の穴穂大王の死と、その首謀者である眉輪が訪ねてきたことにより、ここの使用人達も皆大騒ぎになっているようだ。
とりあえず葛城円が皆を何とか落ち着かせ、眉輪には自分以外は誰も近付かせないように指示を出した。
大泊瀬皇子は眉輪が葛城円の元にいることを知るなり、すぐさま彼の2人の兄の部屋へと向かうことにした。
普段は大和の政りことには余り興味を示さない2人だが、今回は自分達の兄弟が殺されたのだ。
そんな2人も、さすがに今回は協力してくれるだろうと彼は考えた。
(2人の兄上と話しをして、一緒に眉輪の元に行き、穴穂の兄上の仇をとってやる)