「では、円。俺はこれで失礼する」
そういって、大泊瀬皇子が彼の部屋の外に出た丁度その時だった。
部屋の外では、何と韓媛が待ち構えていた。
「韓媛、お前どうした。円に何か急用か」
そんな彼女を見て、大泊瀬皇子は少し不思議そうにした。
韓媛は、大泊瀬皇子が父親の部屋から出て来たのを確認すると、思わず彼に歩み寄った。
「大泊瀬皇子、ごめんなさい! 私皇子にお願いがあって、ここで待っていたの」
韓媛はひどく必死そうにしながら、大泊瀬皇子の腕にしがみついた。
これには、皇子の後ろにいた葛城円も流石に驚く。
大泊瀬皇子は、いきなり自分の目の先に韓媛の顔がやってきて、ひどく動揺した。
彼女の父親が後ろにいなければ、危うく何か行動を起こしていたかもしれない。
「韓媛、一体どうしたんだ?」
大泊瀬皇子は、高ぶる気持ちをおさえて、彼女に聞いた。
「私を軽大娘皇女に会わせてほしいの。どうしても、彼女をお救いしたくて」
それを聞いて大泊瀬皇子と葛城円は思った。軽大娘皇女は、木梨軽皇子との件で今とても悲しんでいる。
それで韓媛は、そんな彼女を励ましたいと思ったのだろう。
「まぁ、それは出来なくはないが……軽の姉上も、話し相手になる人間がいれば、多少は元気になるやもしれない」
大泊瀬皇子は、ふと葛城円の方を見た。
彼も相変わらず驚いたままだが、娘にここまでお願いされてしまうと、流石に駄目ともよういえない。
「まぁ、大泊瀬皇子が構わないのであれば、私は特に反対はしません。娘もそれ程までに、軽大娘皇女を心配しているようなので」
(やったわ。これで軽大娘皇女をお救いできるかもしれない)
「大泊瀬皇子、お父様。本当にありがとうございます」
韓媛は、何とか軽大娘皇女に会えそうなので、とりあえず安心した。
「では今日はここに泊まって、明日韓媛を遠飛鳥宮に連れて行っても良いだろうか?
今回の場合だと、早めに姉上に合わせた方が良さそうだ。それに韓媛を、またここまで迎えに行く手間も省ける」
韓媛としては、1日でも早く軽大娘皇女の元に行きたいので、その提案は大賛成だった。
「私も早く軽大娘皇女に会いたいので、そうして下さると嬉しいです。お父様良いでしょうか……」
韓媛はとてもすがるような目で、父親の円を見た。
葛城円もこんなふうに娘にお願いされると、中々反対しずらい。それに先程、遠飛鳥宮に行く事を了承したばかりだ。
「分かりました、ではそうしましょう。大泊瀬皇子の負担を考えてみても、それが良いでしょうから」
「円本当に済まない。韓媛はちゃんと責任をもって、ここまで送り届けるようにする」
大泊瀬皇子は彼にそういった。
それに心なしか、皇子が少し嬉しそうにしている感じもする。
だが逆に、葛城円は少し悲しそうな目をしていた。
韓媛はそんな彼らを見て、どうして2人の表情がこんなに違うのか不思議に思った。
そして翌日の朝になった。
韓媛は準備を終えて、大泊瀬皇子が乗ってきた馬で一緒に、彼の住んでいる遠飛鳥宮に向かう事にした。
韓媛も一応馬には乗れる。それは彼女の父親の円が、娘にもしもの事が会った時に、馬に乗れたら直ぐに逃げられると思ったからだ。
「では、お父様。行って参ります」
韓媛は馬に乗ったまま、見送りに来ていた父親にそういった。
父親の彼からしたら、大事な娘が他の男と一緒に馬に乗って出かけるなんて、心配以外の何ものでもなかった。もし彼女の母親がまだ生きていたら、かなり激怒していた事だろう。
韓媛はそんな円の不安など、全く理解出来ていなかった。
だが、彼女の後ろにいる大泊瀬皇子だけは、そんな円の心配がひしひしと伝わって来ていた。
(大事な1人娘を、今こうやって連れていこうとしている。円も、さすがにこれは心配するだろう)
「じゃあ、韓媛を少し借りる。昨日も言ったが、彼女は責任を持ってここに送り届けるから、安心しろ」
それは娘が、何事もなく無事に帰ってきた時の場合だけだと、葛城円は心の中で思った。
「はい、大泊瀬皇子。娘のことをくれぐれも宜しくお願いします」
葛城円は皇子にそういった。
それから大泊瀬皇子は、馬を走らせて自身の宮へと向かっていった。
そんな2人を、葛城円は姿が見えなくなるまで見送った。
(まぁ、大泊瀬皇子があの約束を守ってくれるのなら、大丈夫だとは思うが)
「しかし、葛城円がこうもあっさり、お前を宮に行かせる事を許すとわな……」
大泊瀬皇子は、馬を走らせながら韓媛にそう言った。
彼の脳裏に先程の葛城円の顔が浮かぶ。あれはかなり自分の娘の事を心配している感じだった。
「え、皇子。何故そう思われるのですか?」
韓媛はどうして彼がそんな事を思うのか、少し疑問に思った。
彼女は元々、それなりにしっかりはしている。だが自身の危機的な事に関しては、余り分かっていないのだろう。
「あのな韓媛。自分の娘がこんな他の男と一緒に出かけるとなると、普通の親なら当然心配する」
そんな彼の言葉を聞いて、韓媛は思わず「ハッ」とした。そしてやっと彼女は事の重大さに気が付いた。
(それで昨日、お父様は少し悲しそうな表情をしていたのね)
とは言っても、木梨軽皇子と軽大娘皇女を助けるためには他に方法がない。なので彼女は、次回からは気を付ける事にした。
「大泊瀬皇子、本当にすみません。私もうっかりしてました」
韓媛はひとまず素直に謝る事にした。
まさか彼からこんな注意を受けるとは、夢にも思わなかった。
「こんな事、お前に言いたくはないが、俺だって1人の男だ。その事をしっかりと理解しろ」
大泊瀬皇子は、そういって少しため息をついた。
今の2人は馬に乗っているので距離がとても近い。そのため、皇子が少しため息をするだけで、彼の息を直に感じる。
それに2人の体は、今とても密着している状態だ。すると彼の固くてたくましい体が、背中越しに嫌でも伝わってくる。
(どうして今まで、その事に気が付かなかったのかしら。皇子はもうすっかり1人の男性だわ)
韓媛はそう思うと、少し恥ずかしくなってきた。
急に無口になった韓媛を見て、大泊瀬皇子は心配になり、彼女を安心させるためにいった。
「とりあえず、俺はお前を無理やりどうこうしようとは思ってないから、安心しろ。それに葛城円にも、責任をもってお前を送り届けると約束した」
(それはつまり、皇子から見れば私はそういう対象ではないって事なのね)
「はい、分かりました」
韓媛はそう思うと、何故か少しだけチクリと、胸の痛みを感じた。
それから大泊瀬皇子は尚もを馬を走らせた。だがその間も、韓媛は余り言葉を発する事はしなかった。
そんな彼女を見て、大泊瀬皇子は先程の自分の発言を聞いて、本人がそれなりに反省したのだろうと理解する。
だが今は、このまま大人しくしてもらう方が助かると思い、そこには特に触れない事にした。
それからしばらくして、ようやく2人は遠飛鳥宮に辿りついた。
軽大娘皇女は自身の部屋にいた。
彼女はこの1週間の間、木梨軽皇子の事でただただ泣き続けた。彼女自身こんなに泣き続けたのは、恐らく生まれて始めての事であろう。
「お兄様は今頃どうされてるの?もう向こうにつかれたのかしら」
彼女もこれが許されない恋なのは分かっている。でも彼に惹かれていく想いをどうする事も出来なかった。
自分達はたまたま血が繋がっていただけなのだと。
「お兄さま、お会いしたいわ……」
軽大娘皇女が、そんな事を考えている時だった。誰かの足音がこちらに近付いて来ている。
(あら、一体誰かしら?)
彼女がそう考えていると、部屋の前で足音が止まり、外から声が聞こえた。
「軽の姉上、俺です、大泊瀬です。今中に入っても良いですか」
(え、大泊瀬が?)
軽大娘皇女は、何故弟がここに来たのか、さっぱり理由が分からない。
こんな所に滅多に来ない彼が来たとなると、何か急な用件でも出来たのだろうか。
「大泊瀬一体どうしたの?とりあえず部屋の中に入ってちょうだい」
姉の軽大娘皇女にそういわれたので、大泊瀬皇子はそのまま中に入ってきた。
そして彼の後ろに、もう1人誰かがいる事に軽大娘皇女も気が付いた。
彼女が一体誰だろうと見ると、相手は少し自分の見覚えのある顔だった。
「あ、あなたは、もしかして葛城の韓媛?」
軽大娘皇女は意外な人物の訪問にとても驚いた。どうして葛城の彼女がここに来たのだろうか。
韓媛は軽大娘皇女に名前を呼ばれたため、軽くお辞儀をして、挨拶した。
「軽大娘皇女、どうもご無沙汰しております。葛城の韓媛です」
軽大娘皇女も予想外の訪問者にとても驚いたが、彼女とは久々の再会だったので、とても嬉しく思った。
「まぁ、韓媛。本当に久しぶりね。お父様は元気にされてるの?」
韓媛は「はい、お陰さまで」と答えて、軽大娘皇女の側にやって来た。
そして、軽大娘皇女に座るようにいわれたので、大泊瀬皇子と一緒に彼女の前に座った。
「あなたと会えて本当に嬉しいわ。今日はこの宮に泊まって行かれるの?」
軽大娘皇女は、韓媛の訪問ですっかり上機嫌になっていた。
大泊瀬皇子もそんな姉を見て、何はともあれ、今日ここに彼女を連れてきて良かったと思った。
「あぁ、そのつもりだ。姉上が最近塞ぎ込んでいるのを聞いて、彼女が心配して会いたいと俺にいってきた」
それを聞いた軽大娘皇女は、少し驚きはしたものの、そんな彼女の心遣いにとても感謝した。
「韓媛、それは本当にありがとう。最近はあなたのような若い子と話しをする機会がなかったので、今日は色々と楽しくお話ししてみたいわ」
それからしばらくして、大泊瀬皇子は彼女ら2人で話しをさせた方が良いと思い、一旦部屋を退出する事にした。
その際に「また後で、迎えにくる」とだけ韓媛に伝えた。
それから2人は、それぞれの近況や雑談等をして、会話をとても楽しんだ。
(とりあえず、軽大娘皇女がお元気そうでなによりだわ)
韓媛は、自分と楽しそうに話しをする彼女を見てそう思った。
昨日見た光景だと、軽大娘皇女が木梨軽皇子の元に会いに行ってからの心中のようだ。そうすると彼女は、この後伊予国に行こうとしてるのだろうか。
だが韓媛が見る限り、彼女が周りの目を盗んで皇子に会いに行こうとしている気配は、余り感じられない。
「それにしても、軽大娘皇女がお元気そうで本当に良かったです」
「私も、元気そうなあなたを見れて本当に何よりだわ。大泊瀬が最近葛城に度々行っているのは聞いていたの。だからてっきり、弟はあなたに会うために行ってるのだと思ってたわ」
韓媛はそれを聞いてとても驚いた。彼が葛城に来ているのは、父の葛城円に会うためで、自分はそのついでだ。
だが彼が彼女に会いに来ているのは事実なので、そんな噂がたっていても不思議ではない。
(確かに、はたから見ればそう思われてもおかしくないわ……)
「大泊瀬皇子が葛城に来られてるのは父に会うためです。私はきっとそのついでなのでしょう」
韓媛は、とりあえず彼女の誤解は解いておこうと思った。今後さらに変な噂がたって、大泊瀬皇子に迷惑がかかっては申し訳ない。
「まぁ、恐らくはそうなんでしょうけど。でも昔から弟とあなたは仲が良かったから、そういう可能性もあるのかと思って」
(駄目だわ、軽大娘皇女は完全に私と皇子の仲を疑われてる……)
「軽大娘皇女、皇子と私はそういう関係ではありません。それに私の相手は、父が探すはずですから」
韓媛もこれは嘘ではないと思うので、とりあえず大泊瀬皇子との関係だけは否定しておきたいと思った。
「まぁ、そうなの。最近葛城の娘が大和に嫁ぐ事が多かったから、当然あなたも大和に嫁ぐものだと思っていたわ」
確かに軽大娘皇女がいっているのは本当だった。過去に葛城の磐之媛が大和の大王に嫁いで以降、葛城からは何人もの妃を大和に送り出している。
そして最近、大泊瀬皇子が度々葛城に来ており、自分にも会っているとなれば、普通はそう考えるだろう。
(そ、そうだったわ。もしかするとお父様も、私の嫁ぎ先を大和の皇子にと考えられてるかもしれない……)
韓媛はその事に初めて気が付き、余りの衝撃に言葉を失った。
そんな韓媛を見て、軽大娘皇女は慌てていった。
「ま、まぁ、それはそれで良いかもと私も思っていただけよ。余り気にしないでね」
軽大娘皇女は、自分の発言で固まってしまった彼女を見て、この件はもう触れないでおこうと思った。
(大泊瀬は、多分その事を分かって葛城に行っているはずだわ。あの子も中々大変そうね)
韓媛は、とりあえず本来の目的に話しを戻す事にした。その為にわざわざ大泊瀬皇子と父を説得して、ここまでやって来たのだから。
「軽大娘皇女は、今後もここ大和におられるのですか?その……皇女もまだお若いので、どう考えられてるのかなと」
それを聞いた軽大娘皇女は、思わず目を丸くした。自分達の関係がここまで大きくなってしまったのだ。やはり今後の事も気になるのであろう。
「そうね。兄上との事は、今でも全然諦めきれてない。今でも彼の事が本当に大好きだから」
今でも目をつぶると、彼の優しい顔が浮かんで来る。
そんな彼女の言葉を聞いて、韓媛もとても切なくなってくる。昨日見た光景でも、2人が互いにどれほど想い合っているか、とても伝わって来た。
「軽大娘皇女は、本当に自身のお兄様を想われてるのですね」
(でも、これからどういう展開であの光景のように進むのかしら?この災いをなくすには、彼女が皇子に会いに行くのを止めさせるべきなのかも、正直分からないわ)
韓媛は少し困ってしまった。大和に来て彼女に会えさえすれば、何か解決策が見つかるのではと考えていた。
であれば、もう一度あの剣に祈ってみるべきなのだろうか。
韓媛が1人であれこれ考えていると、軽大娘皇女が続けて言った。
「私は、自分の人生は自分のものだと思っているわ。だから悔いのない生き方をしたい」
「悔いのない生き方ですか……」
韓媛は、軽大娘皇女が何か強い意思を持って、いっているような気がした。
それからしばらくして、大泊瀬皇子が戻ってきた。そして韓媛は皇子につれられて軽大娘皇女の部屋を後にする事にした。
韓媛は、遠飛鳥宮で用意された部屋に来ていた。
軽大娘皇女がここにいる限り、木梨軽皇子との心中は無いだろう。だがそれも、いつ起こるのかは全く分からない。
(あの光景の2人は、恐らく今ぐらいの年齢のような気がする。となると、割りと近々に起こる事なのかしら?)
それから彼女は、腰帯びの中に隠してあった剣を取り出した。
(では、もう1回この剣に祈ってみましょう)
それから韓媛は剣を握りしめると、再度祈ってみる事にした。
「お願い、今度こそこの災いを断ち切って」
すると剣が少しづつ熱くなってきて、また不思議な光景が見えてきた。
すると今度は軽大娘皇女だけが見えた。
この遠飛鳥宮を出てすぐくらいの所を、彼女は1人、どうやら早歩きで歩いているようだった。
また光景の中では、今と同じぐらいの夕方にさしかかっている頃のようだ。
(軽大娘皇女はやはりここを抜け出して、木梨軽皇子の元に会いに行こうとしてるのね)
韓媛がその光景を見ていると、軽大娘皇女の周りからまた薄暗い糸のような物がまとわりついて見えた。
そしてその1本が彼方遠くへと伸びている。
(もしかしてあの糸が、木梨軽皇子と繋がっているの?と言う事は、あの糸を切れば、2人の災いは断ち切れるかもしれない……)
韓媛はそう思うと、今度こそこの災いを断ち切る思いで、再び剣を振った。
すると『パチン!』と音がするような感じがした。
(やった、糸が切れたわ!)
そこでその光景は消えていき、韓媛が目を開けると、先程の部屋の中だった。
「どうやら、上手く行ったかもしれないわね」
前回はこの剣を使った後は、父親の元に行こうとして、韓媛能吐と鉢合わせをしていた。そのため今回も、軽大娘皇女の元に再度行ってみてた方が良いかもしれない。
それから韓媛が部屋を出て、軽大娘皇女の元に向かって歩いていると、ふと宮の使用人達の話し声が聞こえてきた。
「ねぇ、軽大娘皇女を見かけなかった?」
「さぁ、知らないわ。先程は、葛城の韓媛様とお話しされていたと聞いたけど」
使用人達はその場で、そんな内容の会話をしていた。
(軽大娘皇女がいない?そう言えばさっき見た光景は、今と同じぐらいの時間帯に見えた……ま、まさか)
韓媛は何やら嫌な予感がしてきた。
もしかすると、軽大娘皇女はもうこの宮を出て、木梨軽皇子の元に向かってるかもしれない。
韓媛は慌てて、軽大娘皇女を追いかける事にした。
(さっき見た光景はこの宮の近くのようだから、急けばまだ間に合うかもしれない)
韓媛が宮の人達に見つからないよう、遠飛鳥宮をそっと抜け出し、軽大娘皇女がいるであろう方向に向かって走り出した。
それからしばらくして、思いの外早く軽大娘皇女を見つける事が出来た。
「軽大娘皇女、待って下さい!!」
韓媛は必死で軽大娘皇女を呼び止めた。
軽大娘皇女は、何故彼女が自分を見つけて走って来るのか不思議でならない。
そして韓媛は、軽大娘皇女の側までくると、ガッチリと彼女の腕をつかんだ。
そして「はぁーはぁー」と息を吐きながら彼女にいった。
「軽大娘皇女、木梨軽皇子の元に行くつもりですよね?」
軽大娘皇女はそういわれて、どうしてその事を知られてしまったのかと、とても驚いた表情をした。
「韓媛、どうしてあなたがその事を知ってるの?」
(やはり、あの剣の見せた光景はこの部分だったのね……)
「先程宮の人達が、軽大娘皇女の姿が見えないといってました。なので木梨軽皇子の元に向かわれたのだろうと……」
それを聞いた軽大娘皇女は、このままでは宮の使用人達に気付かれてしまうと思った。
「えぇ、その通りよ。ある信用のおける者に頼んで、木梨軽皇子の側まで連れていってもらう手筈なの。お願いよ、韓媛。ここは見逃してちょうだい……」
軽大娘皇女は必死で韓媛にお願いした。彼女の目には少し涙を含ませていた。
(軽大娘皇女が木梨軽皇子の元に行っても、心中を止めるには……)
韓媛はそんな彼女を見て思った。
剣で2人の災いは断ち切っている。であれば、未来はこれからきっと変わっていくのだろう。
それなら、あとはもう2人を信じるしかない。
「分かりました。では軽大娘皇女に1つお願いがあります。この先、例えどんな事があったとしても、木梨軽皇子と2人で必ず生き延びて下さい」
「か、韓媛?」
軽大娘皇女は、韓媛にいきなりそんな事をいわれてとても驚く。
そんな軽大娘皇女を気にする事なく、韓媛は続けていった。
「諦めさえしなければ、悪い運命もきっと乗り越えられるはずです。あなたのご両親や兄弟方のためにも……」
軽大娘皇女は、韓媛にそこまでいわれて、突然泣き出してしまった。
そして泣きながら「分かった。あなたのいう通りにするわ」と答えた。
そして余り長くここにいては、宮の人達に見つかってしまうかもしれない。
そのため、軽大娘皇女は急いで待ち合わせの場所へ向かう事にした。
そして最後に韓媛に対し「韓媛、本当にありがとう。大和を出る前にあなたに会えて良かったわ」とだけいってから、待ち合わせ場所に向かっていった。
韓媛は、そんな軽大娘皇女をしばらくの間見送っていた。
(本当にこれで上手くいくと良いわね……)
だが彼女は不思議と、あの2人がもう死ぬことはないと、何故だか確信が持てるような気がした。もしかするとそれは、この剣のお陰なのかもしれない。
こうして韓媛は、急いで遠飛鳥宮に戻る事にした。
彼女が宮に戻って来ると、軽大娘皇女がいない事に、宮の人達も気付き出していた。
彼女の母親の忍坂姫はとても心配しており、大泊瀬皇子や他の兄弟達も、近くを探すべきではないか等と話していた。
だがもうすぐ日が暮れるため、馬も使えず、明日探す事にしたようだ。
(やはり大変な事になってるわ。でも明日なら軽大娘皇女も遠くに行ってるはず。きっと大丈夫よね)
そんなふうに韓媛が思っていると、大泊瀬皇子が彼女の元にやって来た。
「韓媛すまない、軽の姉上がいなくなってしまった。なので明日は姉上の捜索をする事になる。そのため、お前を送り届けるのが少し遅れてしまう……」
大泊瀬皇子も、自身の姉が宮から居なくなってしまったため、さすがに動揺を隠せないでいる。
(大泊瀬皇子も、自身のお姉さんが居なくなると、やはり心配するものなのね……)
そんな皇子を見て、韓媛も少し罪悪感を感じる。だが軽大娘皇女の事は流石に皇子には話せない。
だが宮の人達も、彼女が木梨軽皇子の元に行ったのではと、薄々感づいているようだ。
そして翌日は、1日中軽大娘皇女の捜索が行なわれる事となった。だが結局彼女の事は見つけられずじまいとなった。
韓媛に関しては、さらにその翌日に大泊瀬皇子が葛城円の元に送り届けた。
葛城円も軽大娘皇女の話しを聞いて、同じ娘を持つ親として、ひどく同情していた。
(お父様も、相当な衝撃を受けられたみたいだわ……)
韓媛もそんな父親を見て、余り父親を心配させるような行動は、今後は出来るだけしないようにしようと決めた。
そしてその後に、いよいよ大和の新たな大王が即位する事が決まった。
それは大泊瀬皇子の兄である穴穂皇子である。
また穴穂皇子は、大王に即位すると同時に、新たな自身の宮として、石上穴穂宮を建てる事にした。
こうして新たに大王が決まった事により、当分の間、大和もとても慌ただしくなる事だろう。
韓媛も父親の円と一緒に、これからの大和がどうなっていくのか、色々と思いを巡らせる事となった。