そんな忍坂姫の話を横で聞いていた阿佐津姫も、とても共感した感じで聞いていた。
「私もお母様が亡くなった時、お父様は私のことをとても心配していた。私はお母様の実家の吉備とは縁が薄く、とても頼れる様子ではなかったそう」
阿佐津姫は少し悲しそうな表情をしながら話した。あの強大な豪族吉備の血を引いていると言っても、彼女には何の繋がりも持ち合わせていない。
「そこでお父様は、物部筋の伊莒弗のお祖父様にお願いされたみたい。自分にもしものことがあったら、どうか娘を助けてやって欲しいと……」
阿佐津姫の話では、彼女の母親は物部伊莒弗の娘であった。なので唯一頼れたのが物部筋だったのだ。
「あの時はお母様が亡くなったこともあって、お父様も相当必死だったのでしょうね」
阿佐津姫はそう言うと少し涙目になる。
彼女は10代の時にたて続けに両親を亡くしている。それは当時の彼女にとっても酷く悲しい出来事だったはずだ。
それを聞いた大泊瀬皇子は、阿佐津姫のいいたいことを理解し、静かに口を開いていった。
「もちろん、俺もそう簡単に命を粗末にするつもりはない」
大泊瀬皇子は阿佐津姫の話しがまるで自分のことのように感じられた。韓媛が自身の父親を失った時に自分に見せた表情は、一生忘れることはできないだろう。
大泊瀬皇子がそういうと、部屋の中は一瞬とても重たい空気に包まれた。
すると忍坂姫は、その空気を壊すかのようにしていった。
「はい、この話はもうここまでにしましょう!大泊瀬、あなたはとにかく韓媛を大事にしなさい。要はそれがいいたかったの」
忍坂姫はわざと明るくして2人にそういった。もう亡くなってしまった人達のことを悔やんでも仕方ない。彼女はきっとそういいたかったのだろう。
そして忍坂姫は急に話しを変えるようにして、別の話しを始めることにした。
「ねぇ、最近良くないことばかり続いていたことだし、少し気分転換してみない?」
「え、気分転換ですか?」
阿佐津姫は忍坂姫にそういわれて、少し不思議そうな顔をする。
「そう、私は子供の頃ずっと息長に住んでいたのだけど、久々に息長に帰ってみようかと思ってね。
それに近くでは狩りも出来るから、大泊瀬、あなたは誰かを誘ってそっちに行ったら良いわ」
それを聞いて大泊瀬皇子は思った。どうやら忍坂姫は、自分も息長に同行させようと考えているようだ。
「あら、叔母様。それは楽しそうですね。私は息長には行ったことがないので、私も是非行ってみたいわ……あ、それなら大泊瀬、あなたは韓媛も誘ってみたらどう?」
「はぁ!?」
大泊瀬皇子は思わず、叫んでいった。
「私は彼女とは会ったことがないから一度見てみたいわ。あなたがここまでのめり込んだ相手なのだから」
阿佐津姫はそういって急にニヤニヤし出した。どうやら彼女は韓媛に興味があるようだ。
(どうして、韓媛をこんなことのために誘わないといけないんだ……)
大泊瀬皇子は明らかに嫌そうな表情をして見せた。
「あぁ、それは良いわね。大泊瀬、是非そうしなさいよ。私も韓媛とは一度じっくり話してみたいと思っていたの。それにあなたが相手となると、彼女も色々と気苦労を抱えてるかもしれないし……」
忍坂姫も阿佐津姫に同調してそういった。
だが大泊瀬皇子はそれに対して、少し異議をとなえる。
「そんなことをしたら、むしろ韓媛の方が、母上達に対して気を遣わせて大変だ」
それを聞いた忍坂姫は思わず腹を立てる。そして彼に怒鳴り声を上げていった。
「大泊瀬、あなた母親に向かってなんて口の聞き方をするのよ!!あなたがそんなだから韓媛が心配になるのでしょう!!
もう良いから、つべこべいわずに彼女を誘いなさい。これは私の命令です!!」
大泊瀬皇子もそんな母親の気迫に思わず怖じけついてしまう。
ここまで彼女にいわれてしまうと、彼もよう逆らうことが出来ない。
(しまった。うっかり母上を怒らせてしまったようだ。これはもう諦めるしかないか……)
大泊瀬皇子は韓媛に対して心の中で詫びた。こうなってしまっては韓媛を誘わないと、母親の機嫌はとても収まりそうにない。
「はぁー仕方ない……では韓媛に声をかけてみる。母上それで良いのだな」
大泊瀬皇子は少しため息をついていった。
自身の夫である雄朝津間大王が亡くなったと言うのに、どうして彼女はこんなにも元気なのかと彼は少し呆れた。
と言うより、女性とは元々こういう生き物なのだろうか。
「でも、叔母様。それなら狩りは誰を誘うべきかしら。大泊瀬の周りにそんな気軽に誘える人がいるようには思えないわ」
阿佐津姫は横から話しかけてきた。阿佐津姫から見ると大泊瀬皇子は従弟になるが、彼女も彼が昔かなりの問題児だったことは知っている。
「そうよね、誰が良いかしら……あ、そうだわ。大泊瀬と阿佐津姫がいるのだし、誘うのは市辺皇子にしましょう!!」
忍坂姫はふと閃いていった。
「はぁ、市辺皇子!!」
大泊瀬皇子と阿佐津姫は途端に酷く嫌そうな表情をして叫んだ。
市辺皇子の父親と、大泊瀬皇子や阿佐津姫の父親は兄弟になる。よってこの2人と市辺皇子も従兄同士の関係だ。
「あら、良いじゃない。昔から知っている仲なのだから。いい加減大人になりなさい2人とも」
忍坂姫は何ら悪気もなく2人にそういった。彼女からしてみれば市辺皇子は自身の甥で、昔長らく一緒に住んでいた。
また彼は、そんな彼女の大のお気に入りの青年でもある。
大泊瀬皇子と阿佐津姫は一瞬互いに顔を見合わせた。そしてこれはどうしようもないといった表情を見せる。
(これはきっと母上が考えた配慮なのだろう……こうやって交流を図ることで、互いのわだかまりをなくすために。だが市辺皇子と仲良くするなど俺には到底無理な話だ)
「まぁ、折角の母上からの提案だ。正直全く乗り気はしないが、それで納得することにする」
大泊瀬皇子は少しやれやれといった感じで答えた。
阿佐津姫も大泊瀬皇子のその言葉を聞いて、渋々納得することにした。
「えぇ、ではそうしましょう。じゃあ大泊瀬悪いけど、あなたからこの件を市辺皇子に伝えておいてね」
忍坂姫は大泊瀬皇子にそう告げた。彼女はどこまでも彼らを仲良くさせたいようだ。
「はぁ!どうして俺からあいつを誘わなければならないのだ!!」
大泊瀬皇子は恐らく今までで一番嫌そうな表情をしていった。
「あら、そうしてよ大泊瀬。そもそも狩りをするのはあなたと市辺皇子なのでしょ?それならあなたが声をかけるべきだわ」
阿佐津姫は少し愉快そうにしてそう言った。大泊瀬皇子が市辺皇子を誘う場面などそうそう見られるものではない。
大泊瀬皇子は若干の怒りを見せながら、阿佐津姫を一瞬睨んだ。それほどまでに彼は市辺皇子を嫌っているのだろう。
だが大泊瀬皇子は、忍坂姫と阿佐津姫から挟み撃ちの状況のため、よう反論が返せない。ここは諦めて従った方がよさそうだ。
「くそ!俺があいつにいえば良いのだな。だがこんなことは、今回だけだからな」
大泊瀬皇子は少しふてくされながらそういった。彼にとってはかなり難解な頼まれごとだ。
こうしてその後、大泊瀬皇子は市辺皇子の元へ使いを出すことにした。
忍坂姫からは直接自分で言いに行ったらといわれたが、彼はそれには断固反対する。
そして市辺皇子からの返答は、今回の遠出に意外にも同行するとのことだった。
その後大泊瀬皇子は韓媛にもこの件を伝える。そして彼女からも無事同意を得ることができた。
こうして大泊瀬皇子と市辺皇子は狩りに、忍坂姫と阿佐津姫、さらに韓媛は息長の家にいくことになった。
こうして忍坂姫の提案から2週間程した後、彼らは忍坂姫の実家である息長へと向かうこととなった。
「まさか私まで誘われるとは本当に意外でした」
韓媛は馬に乗った状態で思わず呟く。少し前に大泊瀬皇子が自分の元にきた時に今回の件を聞いた訳だが、とりあえず特に断る理由も無かったので、彼女は同行することにした。
「あぁ、今回は本当に済まない……」
韓媛の後ろにいる大泊瀬皇子が、少し申し訳無さそうにしていった。
彼女は今、大泊瀬皇子が乗っている馬に一緒に乗って移動している。
今回は近江の息長まで行くのだが、目的地までは丸1日はかかる距離だ。
そしてそんな2人の前では市辺皇子と阿佐津姫が同じ馬に乗っている。
阿佐津姫は初め市辺皇子と同じ馬に乗ることに酷く腹を立てたが、忍坂姫より「良い大人なのだから」といわれてしまい、渋々市辺皇子と一緒の馬に乗ることにした。
だが実際に馬に乗ってしまうと、意外に彼女は落ち着いている。
そしてそこまで仲は良くないが、後ろの市辺皇子とも少し会話が出来ているようだ。
逆に市辺皇子は至って穏やかで、彼女の話しに耳を傾けている。
そんな2人を韓媛は少し不思議そうに見ていた。
「ねぇ大泊瀬皇子。こうして市辺皇子と阿佐津姫を見ていると、少し不思議な感じに思えます」
「うん?韓媛それは一体どういうことだ?」
大泊瀬皇子は韓媛にそういわれたので思わず前の2人を見る。だが彼らには特に変わった様子は見られない。
「あの2人、特に仲が良い訳ではないけれど、お互いのことを良く分かっているというか……何か通じあうものがあるように思えて、まるで恋人同士のようだわ」
韓媛はこの2人が一緒にいるのを初めて見る。そんな彼女からすると彼らはとても不思議な光景に思えた。
「そうか、俺には全くそんな風には見えない」
大泊瀬皇子は余り心の入っていない風な口調でそう答える。
韓媛は大泊瀬皇子にそう言われてもなお、しばらくそんな2人を見ていた。
(確か市辺皇子は元々阿佐津姫に婚姻の申し込みをしていたのよね。それと何か関係があるのかしら)
今回韓媛は阿佐津姫には初めて会うことになった。大泊瀬皇子が以前いっていたように、とても顔立ちの整った女性に見える。
きっと今より若かった頃は、さぞ綺麗だったことだろう。
なので市辺皇子以外にも、彼女を娶りたいと思った男性は沢山いたのではないかと、韓媛は思う。
だが意外に彼女は親戚の物部の青年の元に嫁いでいった。
当時彼らの間に一体何があったのだろうか。
「ねぇ、大泊瀬皇子。もし阿佐津姫がもっと若くて、誰にも嫁いでいなければ、彼女を娶りたいと思いますか?」
韓媛はふと気になって大泊瀬皇子に聞いた。元々彼は皇女を正妃にと望んでいたので、阿佐津姫のような姫がいたら、婚姻の申し込みを考えたりはしなかっただろうかと。
「ふん、どうだろうな。仮にもし俺が申し出た所であっさりと跳ね返されるだろう。というか、それ以前に俺はああいう性格のきつい娘は好きではない」
大泊瀬皇子は全く何の動揺もなくそういい切った。
「あら、そうですか。まぁ大泊瀬皇子らしい答えですね」
韓媛はそれを聞いて少し可笑しくなってしまい、前の2人に気付かれないようにしながら少し笑う。
特に嫉妬する訳ではないが、彼がどんな姫に興味を持つのか少し気になった。
そんな韓媛の様子を見て大泊瀬皇子は、どうして女性はこういう内容の話しを話題にしたがるのかと、少し呆れる。
「まぁ、そういう意味でいうと、俺はお前が相手で本当に良かったと思う」
そういって彼は韓媛の頭を軽く「ポンポン」と叩いた。
彼からしてみればきっとこれは本心なのだろう。
「まぁ、大泊瀬皇子ったら、うふふ」
韓媛は大泊瀬皇子にそういわれて、とても嬉しい気分になった。
どうして彼が自分を選んだのかは正直分からないが、そんな彼に好いてもらえて、今は本当に幸せだなと思う。
韓媛がそんなことを考えていると、彼女らの横に別の馬が並んできた。相手を見ると、それは忍坂姫と彼女の従者の者だった。
「あなた達、何こんな所で必要以上に仲良さげにしているのよ。まぁ気持ちも分からなくもないけど」
忍坂姫はそんな2人を見て、少し愉快そうにしながらいった。
「ただ普通に話しをしているだけだ。別に誰かに迷惑をかけている訳ではない」
大泊瀬皇子は忍坂姫にそういわれて、少し不愉快そうな表情を見せる。
「別に怒っていっている訳ではないでしょう。まぁ仲良くしたいなら、他の人の目の入らない所でするようにしなさい」
忍坂姫は少し呆れたような感じで自身の息子にいった。
一方韓媛は忍坂姫と大泊瀬皇子の間に挟まれて、中々上手く言葉が出てこない。
(この感じ、少し気まずいわ……)
忍坂姫もそんな韓媛の様子を見てどうも察したらしく、続けていった。
「じゃあ私は先に行ってるわ。韓媛もこんな息子で本当にごめんなさいね」
忍坂姫はそういうと、前にいる市辺皇子と阿佐津姫の元に走っていった。
そんな彼女らを後ろから見て、大泊瀬皇子は少しため息をこぼす。
「母上は少しお節介な所があるからな。きっと俺たちのことが気になって声をかけてきたのだろう」
そんな彼の言葉を聞いて、韓媛もやはり母親というのはそういうものなのかと思った。自分の母親がまだ生きていたならば、今頃はどう思っていたのだろうか。
「とりあえず、今日中には息長には入れるだろう。明日は1日休んでその翌日に俺は狩りにいってくる。お前は申し訳ないが、母上達の相手を頼む」
大泊瀬皇子は韓媛に母親達の相手をさせることに、少し申し訳なく思う。
「はい、分かりました。私は皇后様達と楽しく息長で過ごしてますので、皇子達は心置きなく狩りにいってきて下さい」
韓媛は笑顔で大泊瀬皇子にそう答えた。韓媛も皇后の忍坂姫や阿佐津姫と色々話しをしてみるのは、心なしか楽しみである。
そして尚も彼らは馬を走り続けて、その日のうちに無事息長に辿り着くことができた。
そして次の日の日中のことである。
阿佐津姫がじろじろと韓媛を見ながら、彼女に話しかけてきた。
「あの大泊瀬が相当入れ込む相手だから、どんな娘かと思っていたけど、まさかこんな可愛い子だったなんて……」
阿佐津姫はそんな韓媛を見て思わずため息をついた。
「本当にそうよ。まぁあの子も女性を見る目だけはあったようね。
最初葛城への代理には自分が行きたいと、雄朝津間に散々いっていたみたい。夫も息子にそこまでお願いされては、流石に駄目ともいえなくなって」
韓媛は忍坂姫にそういわれて、何となくその光景が浮かぶようで、少し恥ずかしくなる。
そして恥ずかしさの余り、思わず顔を下に向けてしまった。
今の大泊瀬皇子なら十分に考えられることだ。
そんな大泊瀬皇子は女性3人の話しに入るのがどうも嫌だったようで、明日の狩りの準備をするといって、外に出て行ってしまった。
また市辺皇子も、折角息長にきたのでこの辺りを馬で見て回ると話し、同じくこの場から離れていった。
(本当に、私はどう答えたら良いのかしら……)
韓媛はそんな2人の女性に対して、言葉に困ってしまう。
「まぁ昨日から見ている限り、大泊瀬なりには韓媛を大事にしているように見えたわ。叔母様、とりあえずは大丈夫そうね」
阿佐津姫は少し呆れながらも、とてもほっとしたような表情で忍坂姫にいった。
「まぁ、確かにそうみたいね」
忍坂姫も内心はとても喜んでいるようだ。
只でさえ一度切れると何をするか分からない息子なので、妃になるような女性を本当に大事に出来るのか、忍坂姫は少し心配していたのだろう。
「でも自身の初恋をそのまま成就まで持っていくなんて、本当に大泊瀬らしいというか...」
「え、私大泊瀬皇子の初恋だったのですか?」
韓媛も流石にこれは初耳だった。ただ当時12歳頃の時点で自分を妃に考えていたのだから、確かにあり得る話ではある。
「ええ、そうよ。どうもあの子は一度好きになると、そのまま突っ走る傾向があったみたい」
忍坂姫は少し愉快そうにしながらそういった。彼女はそんな息子を特に止める訳でもなく、そのまま温かく見守っていたのだろう。
「ここまでくると、驚きを通り越して本当に呆れてくるわ」
ただ阿佐津姫の方は、本当に信じられないといった感じで彼を見ていたようだ。
その時ふと韓媛は、昨日の阿佐津姫と市辺皇子の様子を思い出した。
(どうしよう、今ここで聞いてみても良いのかしら?)
「そういえば、阿佐津姫も昔他の男性から婚姻の申し込みがあったと聞きました。しかもその相手が、あの市辺皇子だったとか……」
韓媛は恐る恐るこのことを聞いてみた。
「あぁ、そのことね」
だが阿佐津姫は特に驚いたり、動揺する訳でもなく、何とも平然とした口調で答えた。
彼女からすればかなり昔の話しなので、もう今さら特に動揺する訳でもないのだろうか。
「私昔からどうも彼とは気が合わないのよ。いつも上から目線だし、一緒になったって疲れるだけだわ」
阿佐津姫は本当にやれやれといった感じで韓媛にそう答えた。どうやら市辺皇子のことは特に何とも思っていないような口調だ。
(大泊瀬皇子も市辺皇子のことは苦手に思っているようだし、そういうものなのかしら……)
韓媛から見たら、市辺皇子は年の離れたとても優しい兄みたいな存在で、苦手に思うことは今まで全くなかった。
市辺皇子と、阿佐津姫や大泊瀬皇子はそれぞれ従兄弟同士なのに、何故ここまで気が合わないのだろうか。
「まぁ、そういうものなのですね」
(ここに来る時の市辺皇子と阿佐津姫は割りと落ち着いて話しているふうに見えたけど、本音は違っていたということなのかしら)
韓媛は彼らが何とも不思議な関係に思えて仕方ない。
「私が思うに、あなた達は変に意地をはる所もあったようにも見えるけど。まぁこればかりはどうしようもないわね」
忍坂姫が横から話しに少し入ってきた。
結局最終的には本人達が決めたことである。周りがとやかくいったところで仕方ないのだろう。
(でも市辺皇子は、阿佐津姫のことをどう思っていたのかしら。
大泊瀬皇子と一緒で皇女が良いと思ったか、それとも本心では彼女を好いていたということは……)
ただこれは市辺皇子本人に聞かないと分からないことだ。だが内容が内容なだけに、韓媛も中々彼には聞きずらい。
「それにしても、市辺皇子と大泊瀬はいつになったら帰って来るのやら……」
忍坂姫はそういって少しため息をついた。
息長まできても、2人は互いに極力関わりたくないように見える。
韓媛もそんな忍坂姫を見て、きっと彼女も色々悩んでいたのだろうと思った。
今大王が不在なこの状況下で、あの2人が険悪になるのは余りよろしくない。ここしばらく間に、数人の大王や皇子が亡くなっている。
(次の大王は恐らく、実質大泊瀬皇子と市辺皇子のどちらかになるはずだわ)
大泊瀬皇子はこのことについて、何故か韓媛には全く話そうとしない。なので彼女も彼の前ではあえてこの話題には触れずにいた。
(大泊瀬皇子は本当の所どう考えてるのかしら。自分が次の大王になりたいと思ってるの?)
だが内容が内容なだけに、もし彼に聞くなら、2人でいる時に聞いた方が良いだろう。
どこで誰に聞かれるか分からないので、下手な話しは控えるべきだ。
それからしばらくして、やっと2人の皇子が戻ってきたので、韓媛達も一旦解散することにした。
その後韓媛は大泊瀬皇子と一緒に時間を過ごすことにする。そして気が付くと周りはすっかり夕方に差しかかっていた。
それから彼女は、大泊瀬皇子達が明日狩りに行く予定なので、自分は忍坂姫達とどう過ごすかの相談をするため、忍坂姫と阿佐津姫を探すことにした。
「大泊瀬皇子、ちょっと皇后さま達の所に行ってきますね」
韓媛はそれまで寄り添っていた大泊瀬皇子から、体を離して立ち上がった。
「あぁ、分かった。もう夕方だから早く済ませて帰ってこい。暗くなったらお前を探すのは大変だからな」
大泊瀬皇子は少し心配そうにしながら彼女にそういう。時間も夕方頃になったので少し気にしているようだ。
「はい、分かりました。出来るだけ早く戻ってきますね」
韓媛はそういって、大泊瀬皇子の元を離れて忍坂姫と阿佐津姫を探すことにした。
韓媛が外を歩いていると、少し夕日が出はじめていた。そんな外の景色を見て彼女は何て美しい光景だろうと感じる。
今回息長に来てみて本当に良かったと彼女は思った。
そして彼女が歩いていると、どこからか人の声が聞こえてきた。
どうやら息長の住居から少し外に出た場所のようで、側は林に少しおおわれている。
(誰かが話でもしてるのかしら?)
韓媛は誰がいるのか分からず、盗み聞きするのも悪いと思い、そのまま通りすぎようかとした。
だがその声はどうやら彼女の知っている人物のようだ。
「あら、これは阿佐津姫の声かしら?」
韓媛はとりあえずそっと側に行ってみる。
するとさらにもう一人の声が聞こえてきた。その相手はどうやら市辺皇子のようだ。
(え、阿佐津姫と市辺皇子?)
韓媛は余り仲の良くない2人が、どうして一緒にこんな人気のない所で話しをしているのか、少し疑問に感じた。
とりあえず2人に気付かれないようにして隠れ、そっと会話を聞いてみることにする。
「お前は昔から本当に変わらないな、阿佐津姫」
市辺皇子は少し愉快そうにしながら、彼女に話しかける。
彼自身は阿佐津姫を嫌ってるふうには見えない。だが彼女に対しては、確かに彼は少し意地の悪い言い方をしているように見える。
「久々に話しでもしようというから来てあげたのに、相変わらず人を馬鹿にしたような口調ね。あなたのそう言う所は本当に腹がたつわ」
阿佐津姫は少し気分を害したような表情を見せながら、そう彼に答える。
きっと昔からこの2人は、このようなやり取りをずっと繰り返していたのだろう。
韓媛には正直この2人の関係がいまいち理解出来ない。
特に市辺皇子にとって、阿佐津姫は過去に一度婚姻を持ちかけた相手だ。それならもう少し態度も違ってきそうにも思える。
だがもしかすると、彼にとってもその話は既に過去のこととなっており、もう彼女に対しては何の想いもないのだろうか。
(もう、2人の関係は既に終ってしまったのかもしれないわね……)
韓媛はとりあえずそう理解することにした。
そもそも2人の婚姻の話しは韓媛が生まれるよりも前の話である。
そんな昔のことを今もお互いに気にするのも少し変だろう。
市辺皇子はそんな阿佐津姫を見て少しやれやれといった表情を見せた。
だが彼からしてみれば、彼女からいわれる嫌味の1つや2つは別に珍しいことでもないだろう。
「阿佐津姫、お前は俺に一体何を期待しているんだ。残念だが、今ここでお前が期待するような言葉をいうはずもないだろう」
阿佐津姫は市辺皇子にそうあっさりといわれてしまい、ますます腹を立てる。そしてさらに彼に罵りをかけていった。
「あなたなんて本当に嫌いよ。そうやっていつも私を馬鹿にするようなことばかりいってきて……
他の人にはいつも愛想良くするくせに、その癖本音では何を考えてるのかさっぱり分からないわ」
阿佐津姫はもうこれ以上ここで話をしても無駄だと思い「もう、私は行くわ」といってその場を離れようとした。
するとどういう訳か、市辺皇子はいきなり阿佐津姫の腕をつかんで彼女が離れようとするのをやめさせた。
「ち、ちょっと離しなさいよ! もうあなたとの話は終わりよ!」
阿佐津姫は無理やり彼から腕を振り払おうとした丁度その時だった。
急に市辺皇子がを思いっきり彼女を抱きしめる。
「お前は本当に何も分かってない。俺達の関係はもうとっくに終わってる。俺はお前に優しい言葉なんて何一つかけてやれない……」
市辺皇子はそういうと、さらに阿佐津姫を強く抱きしめる。
阿佐津姫は彼のいっている言葉の意味をどうやら理解しているようで「やっぱりあなたは嫌いよ」といって、彼の胸にうずくまる。
そして少し目からは涙を浮かべていた。
そんな彼女を市辺皇子は無言でただただ抱きしめている。
そんな2人のやり取りを隠れて見ていた韓媛はかなりの衝撃を受ける。
この2人の間に、かつては恋愛感情もあったのだろう。だがきっと何かの問題や行き違いが出来て、結局2人は一緒にはなれなかったに違いない。
そして2人はそのことに対して、きっと今も後悔と相手に対する想いを引きずっている。
(この2人に一体何があったのかしら……)
韓媛は流石にこれ以上ここに隠れて聞いているのは悪い気がして、2人に気付かれないようにしながら、そっとその場から離れることにした。