「ニャーン」
こちらに擦り寄ってきたと思ったら、僕の胸元でゴロゴロと喉を鳴らす。
漆黒の柔らかい髪に可愛らしい小さな鼻、そしてサイダー瓶から取り出した、ビー玉みたいに透明な大きな黒い瞳。手を小さく握りしめるようにして頬に擦り付けるような仕草をする。
これが僕らが知っている所謂『猫』ならば、何の問題はない。
ーーーーそう、『猫』ならば。
でも彼女は歴とした人間であり、その姿は通りすがりの人なら一度は振り返って魅入ってしまう程の美しさ。可憐さ。麗しさ。
どの言葉が一番シンプルに且つ彼女の美しさを表現できるのか未だに僕はわからない。
少し垂れ目の整った甘い顔立ちと華奢な手足。伸ばされた髪は胸まであり風に揺れてふわふわと踊る。風に揺れるたびに僕の心も揺れて、ふわふわと空高く舞い上がる。
彼女の名前は、砂月ーーーー三鈴砂月
ーーーー僕の愛おしき憑いてる彼女。
砂月と出会ったのは、僕が3歳の誕生日だった。砂月は母親と二人で僕の隣に越してきた。
僕は母親に連れられて挨拶にきた、砂月をひと目見て、3歳で恋に落ちた。
太陽が、毎朝輝いて登る様に。月が、毎夜優しく夜空を照らすように。
ーーーーまるで僕達が、恋に堕ちることが、当たり前かのように。
「さつき、すきだよ」
何度言ったかなんて、分からない。
僕は、三歳で恋に落ちてから、砂月以外を好きだと思ったことは一度も無いし、砂月以外を特別な目で見るなんて考えたこともなかった。
「あきら、だいすき」
そういって、エクボを見せながら笑う、砂月を見れば、僕の心はあっという間に空まで舞い上がる。砂月で僕の心はいっぱいになるんだ。
そんな僕の大好きな砂月には、秘密がある。
それはーーーー『憑かれやすい』というコト。
だから、これは運命なんだ。
憑かれた彼女を祓うのが、神主の跡取り息子として、生まれた僕の使命だと思うから。
俺の家の玄関ポストに入れてる合鍵を使ってガチャリと鍵が開かれると、すぐに木製階段をパタパタと駆け上がってくる音がする。
(あ、砂月が来たっ!)
俺は慌てて布団を被り直し寝たフリをする。
──ガチャ
「こらっ、春宮彰!」
部屋の扉が開き、今日の朝も俺の大好きな声が聞こえる。少しだけ鼻にかかった聞き慣れた甘い声。
「……ん……」
俺はワザと瞳を開けない。砂月にして欲しいコトがあるから。
「彰!ねぇ!遅刻しちゃう」
「五分」
「昨日もそう言って起きなかった!その前もその前の前も!」
砂月の細い腕で、ゆさゆさと程よい力加減で布団ごと揺さぶられる。心地よさに身を委ねながら眉を下げて、少しだけ口を尖らせている砂月の顔が浮かぶ。
ゆっくり瞳を開ければ、やっぱり口を尖らせてる砂月が俺を覗き込んでいる。
「起きるって……でかい声だすなよ……響くだろ」
毎朝起こしに来てくれるのは有り難いが、布団の上から揺さぶられる度にふわふわの長い髪の毛から甘い匂いがして、俺は毎回、思わず抱きしめたくなる。
「早く着替えてよっ」
「はいはい」
俺は精一杯、不貞腐れた顔をしながら起き上がった。起きあがれば、ベッド脇に座っている砂月からふわりと甘い髪の匂いがまた鼻を掠める。
(ったく……人の気も知らないでさ。いっそ、今すぐ抱きしめてやろうか)
……なんて邪な気持ちを俺は毎朝、心の隅っこに追いやる。そして最後には、砂月に起こして貰うのが嬉しくてたまらない癖に、砂月に憎まれ口を叩いてしまう。
「てゆーか、着替えるからな!さっさと出てけよ」
言葉を言い終わる前にスウェットの上を脱ぎ捨てると、
「わっ!彰の馬鹿!」
砂月は顔を真っ赤にすると慌てて部屋の外へと出ていく。
雑に閉じられた扉を眺めながら、俺は目をきゅっと細めた。
(どっちがだよ!毎朝毎朝、いい匂いに起こされる俺の身にもなれよな)
俺は、チェックのズボンに白いシャツの上から紺色のブレザーを羽織った。まだ慣れないネクタイを結びながら扉の外に出れば、砂月がクスッと笑う。
「彰、曲がってるよ」
砂月の白くて細い指先が、俺のネクタイに触れると、手際よく結び直してくれる。
「不器用なんだよっ」
「知ってる」
砂月が、子供みたいな笑顔で笑うと、いつものものを差し出した。
「はい、これ」
「中身は?」
「今日は彰の一番好きな、たらこ」
「お、マジか、うまそ」
「今日はお母さんが作ってくれたから、美味しいと思うよ」
俺の家には、母親がいない。小さい頃に病気で天国に行ったから。この辺りに一つしかない神社、春宮神社の神主をしてる父親は、ほとんど神社で寝泊まりしてる事もあって、砂月が毎日、朝食におにぎりを届けてくれる。
俺は、特大おにぎりを受け取ると早速、頬張った。
「うまっ」
砂月が、大きな瞳を細めながら、俺の口元からご飯粒を一粒つまむと口に入れた。
「彰って、いっつもつけるよね」
「うるせ」
俺は真っ赤な顔を見られたくなくて、転げるように階段を降りると、自転車に跨った。
3歳から隣同士で育った俺達は、桜が満開のこの春、高校一年生になった。
市内の公立高校まで、毎日、往復二時間かけて、俺は、砂月と一緒に自転車で通っている。
「ご馳走様でした」
「どういたしまして」
隣で自転車を漕ぐ砂月が、巨大なおにぎりを今日も完食した俺を、嬉しそうに眺めた。
俺は、おにぎりが包まれていたラップを、自転車を漕ぎながら、ポケットに押し込んだ。
「あーどうすっかなぁ、クラブ」
自転車を漕ぎながら、俺は、空を見上げた。
「彰、足はやいから、陸上部向いてると思うよ。二年の谷口先輩?だっけ?毎日、彰に勧誘に来てるね」
「あー……今日も来んのかな。先輩、鼻息荒いんだよな、いっつも声デカすぎて、唾飛んでくるしさ、早く諦めてくれねーかな」
あはは、と砂月が笑った。
「そもそも砂月だろ?谷口先輩に言ったの」
「あ、違うの、愛子ちゃんが、陸上部のマネやってて、足速い子知らないかって聞かれたから、つい彰のこと話しちゃったんだけど、まさか谷口先輩が……」
そこまで言うと、谷口先輩の独特な外見と口調を思い出したのか砂月が、口に手を当てて笑った。
「朝イチ至近距離で見る、俺の身にもなれよな」
今度は、ケラケラと声を上げて砂月が笑った。
(可愛いすぎんだろ)
俺は、勿論言葉にせずに、エクボを見せながら笑う、砂月を横目でチラ見する。
「でも、彰クラブ入るなら、陸上かなって中学の卒業の時、言ってたよね?クラブするのやめたの?」
少しだけ真面目なトーンの砂月に、どきりとする。
(そんなの決まってんじゃん)
ーーーー砂月と帰りたいから。砂月が憑かれたりしないように、いつも側に居たいから。
俺は、一瞬空を見て、それらしい返事を考える。
「髪染めんのやなんだよな、俺」
「え?」
砂月が、目をまんまるにして俺をみた。
俺は、中学卒業のその日に、15年間お世話になった黒髪を辞めた。
「体育会系のクラブってさー、何かお堅いつーかさ、谷口先輩からも入部もしてねーのに黒く染めて来いって言われんだよね。めんどくせー」
「どうして金髪にしたの?」
「そんなの決まってんだろ、反抗期」
結構、真面目に言ったつもりが、砂月は、あははと笑った。砂月は、よく笑う。砂月の笑顔を見るだけで幸せな気持ちになる。
「隆おじさん、何も言わなかった?」
「言わねーよ、どうせ高校卒業したら黒染めして神主するんだからさ、せめてもの反抗の意を込めて金髪」
「じゃあ、私も彰とお揃いにしよっかな」
満面の笑顔で、こちらに、にこりと笑う砂月に俺の心臓がとくんと跳ねた。
「さ、砂月は反抗なんかしなくていいんだよっ!それに黒だろ、女は!」
ーーーー違う。他の女の髪色なんて心底どうでもいい。黒髪にふわふわの長い髪の毛の砂月が、俺は好きなんだ。
「そうなの?」
きょとんと見つめ返されて俺は、何だからよくわからないけど、急に恥ずかしくなって、そっぽを向いた。
そんな俺を眺めながら、砂月は、春風にふわふわの髪を靡かせながら、クスリとまた笑った。
「砂月、そろそろ公園だからな」
彰が、こちらに振り返って、私にそれだけ告げると、また前を向く。
「気をつけるね」
自転車で少しだけ前を走る、お日様色の髪色を眺めながら、私は小さく答えた。
彰と高校に通い始めて3週間が経った。小さな頃から、すぐに憑かれてしまう私の事を、彰はいつも側で守ってくれる。
高校近くの公園が近づくと、いつも彰は私の少し前を自転車で走る、私を守るために、憑かれてコワイ思いを私がしないように。
そうやって3歳の頃からずっと、私の隣には彰が居て、ずっと守ってくれた。
(彰……大好きだよ)
いつからだろう、素直に言葉に出来なくなったのは。きっと、この間、あんな場面をみてしまったからだろう。彰の後ろ姿を眺めながら、私は小さくため息を、吐き出した。
「砂月、ダンゴムシが左端1匹蟻が群がってる、その先に、蝶々が轢かれて1匹な」
淡々と前を向いて、辺りを見渡しながら彰が情報を伝えてくれる。
「分かった、見ないようにする」
「絶対だかんな」
ぶっきらぼうな、いつもの声が、前をいく彰の後ろ姿から降ってくる。
私は、彰の後ろ姿だけを見つめて、蟻に群がられたダンゴムシの死骸も、蝶々の死骸も見ずに駆け抜ける。
ーーーー決して憑かれないように。
私は、この世のモノではない魂に憑かれやすい体質を持っている。
例えば、蝶々であっても、死んでしまった命に対して『可哀想』という哀の感情や、『どうして?』とその死に疑問を持つと、私の体は、ある一定の時間だけ、その命に取り憑かれてしまうのだ。
そして、取り憑かれた私を救えるのは、春宮神社の神主見習いの彰だけ。
ようやく、校門について二人で自転車置き場に自転車を停めた。
「今日も無事に着いたな」
「ありがとう」
彰が、太陽みたいな笑顔でニッと笑った。とくん、と心臓が跳ねる。私は、彰のこの笑顔が一番好きだから。
「虫の死骸にも何百回、憑かれたか、わかんねぇからな、バッタの時なんて……」
そこまで言って、彰が肩を震わせて笑う。
「もうっ、やめてよ、彰!」
私が、バッタに取り憑かれて、四つん這いでジャンプする姿が可笑しかったと、彰は未だに思い出し笑いする。
「いじわるっ」
「ごめんっ」
彰が、意地悪く笑うと、頬を膨らませた私の頭をくしゃと撫でた。彰の掌があったかくて、嬉しくて、思わず、肩を窄めて顔が熱くなった。私は顔を見られたくなくて、少しだけ俯いた。
「手出して」
彰は、金髪頭を掻きながら、当たり前のように私の手を引いた。途端に私の胸はドキドキが止まらなくなる。
幼稚園の頃からそうだった。彰は、学校に着いて、下足ホールに着くまで、必ず、私の手を引く。それは小学校6年間も中学校3年間も変わらなかった。
今までは近所の子ばかりの学校だったから、特に揶揄われることもなかったけど、高校は、県に一つしかない為、初めて登校した時は、入学早々だったから、私達の事を知らない同級生の何人かに揶揄われた。
「ねぇ、手、繋がなくても大丈夫だよ?もう高校生、だし」
彰の大きな瞳がまんまるになる。
「なんで?高校は、手繋いだらダメって決まりでもあんの?」
「……そうじゃないけど、彰は、その……困らないかなって」
「困る?」
「うん、他の女の子にどう思われる……かなとか」
私は、あの時見た、あの情景が頭の中に蘇ってくる。
今日こそ、彰に聞いてみたい……ほんの少しの勇気を出そうとしながら、もう3日たっている。
「俺が?別に他の女に何思われてもいいけど。砂月が憑かれなかったらいいわけだし。
前、下足ホールに居たじゃん、死んだゴキブ」
「彰っ!」
私が一番苦手な、虫の名前を言おうとして意地悪な顔をした彰が、私を見下ろした。
「幼稚園の時からだからさ。砂月が、嫌ならやめるけど?」
彰はズルい。答えを私に求めるから。答えなんて、決まってるのに。
「じゃあ……あの黒いの、下足ホールにいるかもしれないからお願い」
頬が熱い。彰は、私から視線をそらすと、頭をガシガシと掻いた。