この世界に生きていた男の話

 俺はこれまで、弱々しくなっていく親父から目をそらそうともしていた。だから今になって、受け入れざるを得ない現実に遅れて打ちのめされた。

 けれど俺は、まだ泣き崩れてはいけなかった。親父に不安や心配を覚えさせないよう、必死で笑顔を作って見せた。俺が「大丈夫だよ」と言うと、親父は「そうか」とどこか安心したように呟いて、また深い眠りへと落ちていった。

 重症の患者が隔離されている部屋の外に出ると、そこには担当医が一人立って俺を待っていた。担当医は「厳しい事を言いますが」と同情するような眼差しを向けつつ、はっきりと現実を突きつけた。

「もう退院は難しいと思って下さい」
「……そう、ですか」
「もしもの延命治療については、今からでも変更出来ますが……」
「…………いえ、そのまま、で、お願いしま、す……」

 今にも涙腺が崩壊しそうになって、それをどうにか抑えて言葉がうまく出ない俺に、担当医は「そうですか」と声を潜めて言葉を切った。俺自身覚悟していたとはいえ、もう親父が帰宅も叶わないという宣告は、想像していた以上に俺の胸を抉った。