先日、NHK紅白歌合戦の出演者が発表された。出演者の中には私の大好きなバンドSもいて、今年のSの実績が認められたようでうれしい気持ちになった。
しかし、喜びと祝福の声で溢れるTwitterのタイムラインをスクロールしていくと、今まで白組として出場していた彼等が今年は紅組として出場するという情報が目に入った。

これはどういうことだろう。Sは男女比3:1、ボーカルのFは男性である。ピアノのSが女性であるとは言え、どう考えても不自然に思える。
もやもやした気持ちを抱えたまま画面をスクロールしていくと、どうやらジェンダーレスの観点から彼等は紅組として出場するらしい。
私は胸に小さな引っかかりを覚えて、ジェンダーレスについて真剣に考えてみた。


そもそも私はジェンダーレスをそこまで重要な社会の課題として観ていない。最近は何でもかんでもジェンダーレスと言い過ぎだ。Sが紅組として出場したところでなんの意味があるんだ。別に紅白歌合戦くらいは男女に分けてもいいだろう、女性を劣等的に見ているわけでもないのだから。

そういう半ば怒りに近いような思いを抱えて、心からSの出場を喜べないでいた。そんなことが悲しかった。


しかしある日の夜、食卓を囲みながら父親がこう言った。
「うちの会社に虫が苦手な男の子がおるんやけど、男のくせに情けない。」
それを聞いた母が、
「ええー?男で虫苦手なんは嫌やわ」
と顔をしかめていった。

私は信じられない気持ちになった。
男で虫が苦手でも別にいいだろう。男とはいえ皆それぞれ違うんだから、みんながみんな虫を触れなくても当たり前だ。どうしてそんなことが分からないのだろう。

そう憤っているうちにはっと気づいた。
これはもしかしたら、男女差別の1種なのではないか。男女差別は、こんなにも身近なところにも眠っているのだ。

虫を苦手とする男に対して批判の言葉を並べる両親達は、きっと自分が今まさに男女差別をしているとも、その考えが誰かを深く傷つけうるとも、欠片も思っていない。誰もが気づかないうちに男女差別をして人を傷つけてしまい得るのだ。


ジェンダーレス問題に限らず私たちに今必要なのは、「人はそれぞれ違うのだ」という事を受け入れるための教育を充実させることなのではないかと思う。
そうすると、「男なんだからこうであるべきだ」「女なんだからそんなはしたないことするな」という声や固定概念も、LGBTへの偏見もきっと減るし、ジェンダーレス以外にもネットでの誹謗中傷も減ると思う。さらに言えば、SNSの発達したこの時代で人と比べて落ち込んだりもせず、自分らしく生きていけるのではないのだろうか。

現代社会に眠っているさまざまな問題の本質は、結局は皆同じなのかもしれない。表面的な対策ではなく、根本的なところから見直すべきだと、未熟ながらにそう思う。