「なっ⁉ 火事だって⁉」
 瞬時に男が叫び、周囲も慌ただしく動き出す。
 火元は近いようだったが、こちらは風上なのか焦げた臭いなどはしなかった。
「ちっ! 早く来い!」
「あっ!」
 火事という緊急事態にも関わらず、手を離そうとしない男。
 仕方なく引かれるままに足を進めながら、美鶴はどこか納得していた。

(火事なのに何故火に巻き込まれるまで家に帰らなかったのかと思っていたけれど、こういう状況だったからなのね)
 予知で見た自分は明らかに門の近くの建物付近にいた。
 木造平屋が立ち並ぶ都は火の回りが早い。そこに住んでいる者以外は早々に避難するのが常だった。
 だというのに、小屋が倒壊するほどの火に巻き込まれるまでこの辺りにいたのは、この男に捕まっていたからなのだろう。

(あ、だとしたら……)
 それならば、この男も危ないのではないだろうか?
 予知では自分以外は見えなかったが、この男に連れて行かれた先での出来事に違いない。
 善人とは思えないが、死んで当然と思えるほどこの男のことは知らないため、巻き込むのは忍びないとも思う。
「あの、離した方が――っ⁉」
 どう説明すればいいのか分からなかったが、とりあえず巻き込まれないうちに手を離した方がいいだろうと声を掛けかけて気付く。

(風向きが、変わった?)
 突風でも吹いたのだろうか。
 突然焦げた臭いと熱風が美鶴と男を襲う。
「っ! なんだ⁉」
 今まで以上に慌てた男は周囲を見回しぎょっとする。
 美鶴も倣って男の視線の方へ目をやると、赤くうねる炎が見えた。
(嘘……火の回りが早すぎる)
 風向きが変わったとはいえ先ほどまでこちらは風上だったのだ。
 しかも火元からは離れるように進んできたはず。
 だというのにもう炎が見えるほど燃え移っているとは……どこか人為的なものを感じたが、今はそのようなことを考えているときではなかった。

「ひっ! もうこんなところに⁉」
 悲鳴を上げた男は一瞬迷うそぶりを見せたが、すぐに決断したようだ。
「仕方ねぇ、簪だけでも今日の食い扶持は稼げる。じゃあな嬢ちゃん!」
 自らに言い聞かせるように呟いた男は、言い捨てると美鶴の腕を離しどん、と肩を押した。
 押された美鶴はよろめき尻もちをつく。
 お荷物になると判断したのだろうが、押すことはないだろうと僅かに怒りが湧いた。
 だが怒りの声を届ける前に男は走り去って行く。
 逃げ足の速さに驚きつつも立ち上がると、熱気をすぐ近くに感じた。
 見ると、まだ離れた場所にあった炎が美鶴の周りを取り囲んでいる。
 尻もちをついて立ち上がるという僅かな差で、火の手から逃げる術が無くなってしまっていた。

(やっぱり早すぎる)
 燃え移ったばかりの炎を見ると、まるでそこに直接風が送られているかのように燃え盛るのが早い。
 人為的なものを感じると思ったが、これは人の仕業とは思えなかった。
(人ではないとすると妖?)
 妖という事は公家の者という事だろうか。
 平民を守ってくれるはずの公家がこのようなことをするとは思いたくない。
 確かに横柄で平民を切り捨てるような者もいると聞くが、火をつけるとなると大勢が死ぬ。
 そこまでのことをする公家がいるとは思いたくなかった。

(ああ、でももう私には関係のないことだわ……)
 炎が美鶴を囲い、死が更に近付いたことで逆に冷静になる。
 自分はここで死ぬのだ。もう終わりだというのに、先のことを考えても仕方のないこと。
 ぼう、と立ち尽くしたままうねり狂う赤い炎を見つめる。
 見ている分には綺麗だとも思う。
 だが、この炎は自分の身を焼くものだ。
 熱いだろう、痛いだろう。
 そうは思うのに、どこか他人事の様にも感じる。

 ぱきぱきっと、近くの小屋の柱が鳴る。
(ああ……そうだ、この柱だ)
 予知で視たものと重なった。
 この柱が倒れて、自分は死ぬのだ。
 そう、淡々と死を受け入れようとする。
 なのに、ばきん、と一際大きな音が鳴って柱が落ちてきた瞬間、脳裏にある記憶が蘇った。

 走馬灯なのだろうか。
 今ではもう忘れてしまったと思っていた記憶。
 春音が生まれるより前、異能を持っているとまだ分からなかった頃の記憶。
 母に、「愛しているよ」と抱きしめられたことを思い出してしまった。
 何故今それを思い出してしまったのか。
 今はもう愛されてなどいないのに。
 思い出して、生き延びたとしても愛されない日々が続くだけなのに。
 なのに、思い出してしまったから……だから、思ってしまった。

(生きたい!)

 でも、赤い炎を纏った柱は無情にも美鶴に向かってくる。
 避ける暇もなく、腕を上げて身を守るそぶりしか出来ない。
 生きたいと今更思っても、死は目の前に迫っていた。
(そうだ、予知を変えることは出来ないんだ)
 今まで、どんな事柄でも変わることはなかった。
 当たって欲しくない予知を回避しようとしても、それは必ず起こってしまう。
 生きたいと胸に宿った灯は燃え盛りそうなほどに熱いのに、現実だけが上手くいかない。
 そして、まさに美鶴の身に柱が落ちる寸前それは起こった。

 ごぉうっと音を立て、青い炎が目の前を横切る。
 その炎は美鶴に落ちてくるはずだった柱を押しのけ吹き飛ばした。

「娘! 無事か⁉」
 何が起こったのかと呆然とする美鶴の目の前に、青の炎を追うように男が一人現れた。
 明らかに上質と分かる狩衣姿に烏帽子を被った出で立ち。
 僅かに解けている冠下髻(かんむりしたのもとどり)は見たこともない白金色で、整った面差しをしている。
 そして、美鶴を映す目は紅玉を思わせるほど美しかった。