その日は、左大臣である藤峰という男が美鶴を訪ねてきていた。
「初めまして、宣耀殿の更衣。美鶴様、とお呼びしても?」
「……どうぞ」
御簾越しに対面した藤峰は、もっと早くお会いしたかったと話す。
美鶴は知らなかったが、弧月の唯一の妃に会いたいという公卿は多いらしい。
その多くは興味本位だが、美鶴の異能が何なのか探りを入れたい者や何か利用出来ないかと近付きたい者など悪意のある者も多い。
だから弧月が面会をかなり制限していたのだそうだ。
だが、美鶴が身籠り中宮の位を得て弘徽殿へと移ることがどこかから漏れてしまったらしい。
美鶴はまだ了承していなかったが、移ることだけは決まっていたので弘徽殿を整えてはいた。
他にも美鶴の出産に関わることを進めて行かなくてはならないため、今までのように全てを隠し通せはしなかったようだ。
そうして話を聞きつけた左大臣が、「妖帝の中宮となるのであればご挨拶は必須でしょう。異能持ちといえど平民なのです。せめてどのような方なのか知らねばなりません」と願い出た。
臣下への面会を制限し続けるなら美鶴を中宮として認めないとまで言われては承諾する以外になかったそうだ。
「美鶴様は大人しく謙虚な方なのですな。しかも聡明な方の様だ。ご自分の立場をしっかり理解してらっしゃる」
「……ありがとうございます」
朗らかにも聞こえる声に、美鶴は楚々と礼を言う。
だが、褒められていないことは分かった。
御簾越しで表情が見えない上に、言葉などほぼ交わしていないも同然でその評価だ。
実際には評価などせず、そうあるべきだと言っているようなものだった。
貴人との会話の機微などはまだまだ学んでいる最中だが、悪意に敏感な美鶴は言葉の端々に隠れる毒をしっかり感じ取る。
その上で礼の言葉を口にした。
相手は左大臣だ。弧月の子を身籠り寵を頂いていることを除けば異能持ちの平民でしかない自分など、取るに足らないものと思っていてもおかしくはない。
そんな相手に口答えするのは詮無いことだ。
(それに、この方の目的は別にあるのだろうし)
左大臣の褒め言葉という名の悪意を聞き流しながら、美鶴はそのときを待った。
「そうそう、本日は妊婦に良いという生薬をお持ちしたのですよ。煎じたものもございますので、是非美鶴様に飲んでいただきたい」
そう言って連れて来た女官に指示を出した藤峰は、毒見だと言って自分も飲んで見せる。
「ささ、どうぞ」
そうして勧められた杯を美鶴は拒否した。
「申し訳ございませんが、こちらを飲むわけにはまいりません」
「何ですと?」
途端、藤峰の顔から朗らかさが抜け落ちる。声音に探るようなものを感じて美鶴は慎重に口を開いた。
「こちらの生薬は、本当に妊婦に良いものなのでしょうか?」
問う形ではあったが、美鶴には確信があった。
この生薬を煎じたものを飲んだせいで、腹の子が流れてしまうのを予知の夢で見たのだから。
夢見では、藤峰自身が毒見をしたことで安心し飲んでしまっていた。
だが、拒否した今どう転ぶのか分からない。
「……どういう意味ですかな? 私も飲んで、毒など入っていないと見せたではありませんか」
低く淡々とした声に、彼が間違いでこの生薬を持ってきたわけではないと確信する。
「毒は入っていないでしょうけれど……妊婦には良くないものという事もあるでしょう?」
だから飲めない、とまた拒むと、藤峰は深くため息を吐いて「仕方ありませんな」と呟く。
諦めてくれれば良いと思ったが、藤峰の声音には不穏なものを感じた。
え? と反応するよりも早く、何か紐のようなものが美鶴に巻き付いて来る。
「美鶴様!」
側にいた小夜が叫び助けようとしてくれたが、そんな彼女にもそれは巻き付く。
「小夜っ! これは……」
巻き付いているのは何かの植物の蔦だ。
本来なら有り得ない速度で成長し、意思を持つかのように美鶴と小夜を拘束する。
「なんとまあ勘の良い娘だ。それとも異能の力か?」
この状況に動じない藤峰の様子に、この蔦は彼が行使したものだと察した。
「お察しの通りこれは堕胎薬としても使われているほおずきの根を煎じたものだ。お前に妖帝の子など産んでもらっては困るからな」
語りながら立ち上がった藤峰は、御簾を上げ母家に入ってくる。
僅かに皺の刻まれた顔には、憎々しげな表情が浮かべられていた。
「どう、して……?」
予知で知っていたとはいえ、左大臣ともあろう者が孤月を裏切る様な真似をするとは……理解出来なかった。
「どうして、か。それは勿論主上に子が出来ては困るからだ。いくら妖帝が世襲では無いとはいえ、あれ程の妖力を持つ方の子だ。次の妖帝になり得てしまう」
妖力が強すぎて子が出来ぬと聞いていて油断した、と苦々しい表情を浮かべた藤峰は、断った杯を手に取り冷たく美鶴を見下ろした。
「主上より妖帝に相応しい方がおられるのだ。なのに他にも候補が増えるなど、阻止するに決まっているであろう?」
「そんなことのために?」
そんな、生まれてもいない子には関係ない政略を理由に殺そうというのか。
怒りが沸き上がる。
(そんな理由で、大事な我が子を失うわけにはいかない)
生まれてこの方、ここまでの怒りを覚えたことはないかもしれない。
「そんなこと? 平民には分からぬだろうが、とても大事なことなのだよ」
睨みつける美鶴を嘲った藤峰は、彼女の顎を掴み杯をその口元に寄せた。
その目には罪悪感など欠片もなく、まるでこうするのが当然とでもいうかのようだ。
「さあ、飲むんだ」
「うっ」
無理やり開けられた口に薬を流し込まれそうになる。
(弧月様!)
心の中で叫ぶと同時に、いつかと同じように青い炎が美鶴の目の前の脅威を押しやった。
「ぐあっ!」
藤峰が廂の方へ飛ばされると、青の炎は器用に美鶴と小夜を拘束している蔦だけを燃やしていく。
体が自由になると同時に、美鶴は温かく力強い腕に抱かれた。
「無事か? 美鶴」
「はい、大丈夫です。弧月様」
変えられない予知を――運命を変えてくれる唯一の存在が、側に来てくれた。
「初めまして、宣耀殿の更衣。美鶴様、とお呼びしても?」
「……どうぞ」
御簾越しに対面した藤峰は、もっと早くお会いしたかったと話す。
美鶴は知らなかったが、弧月の唯一の妃に会いたいという公卿は多いらしい。
その多くは興味本位だが、美鶴の異能が何なのか探りを入れたい者や何か利用出来ないかと近付きたい者など悪意のある者も多い。
だから弧月が面会をかなり制限していたのだそうだ。
だが、美鶴が身籠り中宮の位を得て弘徽殿へと移ることがどこかから漏れてしまったらしい。
美鶴はまだ了承していなかったが、移ることだけは決まっていたので弘徽殿を整えてはいた。
他にも美鶴の出産に関わることを進めて行かなくてはならないため、今までのように全てを隠し通せはしなかったようだ。
そうして話を聞きつけた左大臣が、「妖帝の中宮となるのであればご挨拶は必須でしょう。異能持ちといえど平民なのです。せめてどのような方なのか知らねばなりません」と願い出た。
臣下への面会を制限し続けるなら美鶴を中宮として認めないとまで言われては承諾する以外になかったそうだ。
「美鶴様は大人しく謙虚な方なのですな。しかも聡明な方の様だ。ご自分の立場をしっかり理解してらっしゃる」
「……ありがとうございます」
朗らかにも聞こえる声に、美鶴は楚々と礼を言う。
だが、褒められていないことは分かった。
御簾越しで表情が見えない上に、言葉などほぼ交わしていないも同然でその評価だ。
実際には評価などせず、そうあるべきだと言っているようなものだった。
貴人との会話の機微などはまだまだ学んでいる最中だが、悪意に敏感な美鶴は言葉の端々に隠れる毒をしっかり感じ取る。
その上で礼の言葉を口にした。
相手は左大臣だ。弧月の子を身籠り寵を頂いていることを除けば異能持ちの平民でしかない自分など、取るに足らないものと思っていてもおかしくはない。
そんな相手に口答えするのは詮無いことだ。
(それに、この方の目的は別にあるのだろうし)
左大臣の褒め言葉という名の悪意を聞き流しながら、美鶴はそのときを待った。
「そうそう、本日は妊婦に良いという生薬をお持ちしたのですよ。煎じたものもございますので、是非美鶴様に飲んでいただきたい」
そう言って連れて来た女官に指示を出した藤峰は、毒見だと言って自分も飲んで見せる。
「ささ、どうぞ」
そうして勧められた杯を美鶴は拒否した。
「申し訳ございませんが、こちらを飲むわけにはまいりません」
「何ですと?」
途端、藤峰の顔から朗らかさが抜け落ちる。声音に探るようなものを感じて美鶴は慎重に口を開いた。
「こちらの生薬は、本当に妊婦に良いものなのでしょうか?」
問う形ではあったが、美鶴には確信があった。
この生薬を煎じたものを飲んだせいで、腹の子が流れてしまうのを予知の夢で見たのだから。
夢見では、藤峰自身が毒見をしたことで安心し飲んでしまっていた。
だが、拒否した今どう転ぶのか分からない。
「……どういう意味ですかな? 私も飲んで、毒など入っていないと見せたではありませんか」
低く淡々とした声に、彼が間違いでこの生薬を持ってきたわけではないと確信する。
「毒は入っていないでしょうけれど……妊婦には良くないものという事もあるでしょう?」
だから飲めない、とまた拒むと、藤峰は深くため息を吐いて「仕方ありませんな」と呟く。
諦めてくれれば良いと思ったが、藤峰の声音には不穏なものを感じた。
え? と反応するよりも早く、何か紐のようなものが美鶴に巻き付いて来る。
「美鶴様!」
側にいた小夜が叫び助けようとしてくれたが、そんな彼女にもそれは巻き付く。
「小夜っ! これは……」
巻き付いているのは何かの植物の蔦だ。
本来なら有り得ない速度で成長し、意思を持つかのように美鶴と小夜を拘束する。
「なんとまあ勘の良い娘だ。それとも異能の力か?」
この状況に動じない藤峰の様子に、この蔦は彼が行使したものだと察した。
「お察しの通りこれは堕胎薬としても使われているほおずきの根を煎じたものだ。お前に妖帝の子など産んでもらっては困るからな」
語りながら立ち上がった藤峰は、御簾を上げ母家に入ってくる。
僅かに皺の刻まれた顔には、憎々しげな表情が浮かべられていた。
「どう、して……?」
予知で知っていたとはいえ、左大臣ともあろう者が孤月を裏切る様な真似をするとは……理解出来なかった。
「どうして、か。それは勿論主上に子が出来ては困るからだ。いくら妖帝が世襲では無いとはいえ、あれ程の妖力を持つ方の子だ。次の妖帝になり得てしまう」
妖力が強すぎて子が出来ぬと聞いていて油断した、と苦々しい表情を浮かべた藤峰は、断った杯を手に取り冷たく美鶴を見下ろした。
「主上より妖帝に相応しい方がおられるのだ。なのに他にも候補が増えるなど、阻止するに決まっているであろう?」
「そんなことのために?」
そんな、生まれてもいない子には関係ない政略を理由に殺そうというのか。
怒りが沸き上がる。
(そんな理由で、大事な我が子を失うわけにはいかない)
生まれてこの方、ここまでの怒りを覚えたことはないかもしれない。
「そんなこと? 平民には分からぬだろうが、とても大事なことなのだよ」
睨みつける美鶴を嘲った藤峰は、彼女の顎を掴み杯をその口元に寄せた。
その目には罪悪感など欠片もなく、まるでこうするのが当然とでもいうかのようだ。
「さあ、飲むんだ」
「うっ」
無理やり開けられた口に薬を流し込まれそうになる。
(弧月様!)
心の中で叫ぶと同時に、いつかと同じように青い炎が美鶴の目の前の脅威を押しやった。
「ぐあっ!」
藤峰が廂の方へ飛ばされると、青の炎は器用に美鶴と小夜を拘束している蔦だけを燃やしていく。
体が自由になると同時に、美鶴は温かく力強い腕に抱かれた。
「無事か? 美鶴」
「はい、大丈夫です。弧月様」
変えられない予知を――運命を変えてくれる唯一の存在が、側に来てくれた。