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 柚子は大きな敷地を持つ、和風建築のお屋敷に来ていた。
 同じ和風な建物でも、比較的新しい玲夜の屋敷とはまた違った、厳かな雰囲気の古い屋敷だ。
 ここは元一龍斎の当主が住んでいた場所。
 経営が傾き、屋敷の維持すらままならなくなった一龍斎が手放したのを、待っていましたとばかりに玲夜が買い取ったのだ。
 憎らしさを感じている一龍斎の屋敷だ。
 玲夜は元々買い取るつもりなどなかったのだが、龍がここには大事なものがあるからどうしても手に入れてほしいと懇願したので、手に入れるために動くことになった。
 玲夜は順を追って追い込んでいたようだが、龍があまりにもまだかまだかと急かすものだから、査定金額よりも金を積んで一龍斎一族をとっとと追い出したらしい。
 さすが鬼龍院。
 かつては日本を裏から牛耳るほどの権力があった一龍斎も、あやかし界だけでなく政治経済においても日本トップの家である鬼龍院には形なしである。
 一龍斎も鬼龍院に喧嘩を売らなければ没落することもなかっただろうに、虎の尾を踏んづけてしまったようだ。
 鬼龍院親子を怒らせると怖いと身をもって知っただろう。
 そんな鬼龍院の次期当主が自分の旦那様なのだから、未だに信じがたい。
 もし柚子が過去の自分に会って伝えたとしても、信じてはくれないはずだ。
「玲夜。中に入れるの?」
「ああ。なにが大事なのか分からなかったから、必要最小限のものだけ持って追い出した」
 軽く言っているが、一龍斎側からしたらとんでもない扱いだ。
 少々同情してしまう。
 しかし、長年に渡り一龍斎に囚われていた龍に同情する気持ちは微塵もなく、軽快に笑っている。
『カッカッカッ。愉快愉快。さぞや追い出される時にごねたであろうな』
 口を大きく開けて気分がよさそうだ。龍にとって一龍斎の不幸は蜜の味なのだろう。
「先に中を見て回る?」
 見て回ると言っても母屋の屋敷だけでも相当に広く、離れの建物を含めたら、それだけで一日が終わってしまいそうだ。
「あのお方の本社はどこなのかえ? わらわは早く挨拶がしたい」 
 そう問うたのは狐雪撫子。
 波打つ長い黒髪と蠱惑的な雰囲気のある彼女は妖狐の当主であり、今回かろうじて踏ん張っていた一龍斎にとどめを刺すのにひと役買った人物である。
 どうやら龍の話す大事なものと関係が深いらしく、玲夜以上の気迫で率先して一龍斎を潰しにかかったとか。
 さすがの一龍斎も、鬼どころか妖狐まで出張ってきたら、泣くに泣けない。
 撫子とは一龍斎の屋敷を手に入れる時にひと悶着あった。
 それはどちらがこの屋敷の所有権を得るかというものだ。
 龍に頼まれたこともあって、当然のように玲夜が買い取るつもりだったのだが、撫子が『あの方の本社がある場所ならばわらわが所有していたい』と、言い出した。
 柚子も玲夜も“あの方”という言葉の意味が分からず、それほどに撫子が欲しがっているなら譲ってもいいと考えていた。
 一龍斎との決着をこんなに早く決められたのは間違いなく撫子の貢献があってこそだから。
 玲夜の父親である千夜も問題ないとしたのだが、しかし、龍が待ったをかける。
『あの方の社は柚子が管理すべき。その方があの方も喜ばれる』
 まったく意味の分からないやり取りに、名前を出された柚子は困惑したが、撫子の方は龍の言葉でなにやら納得したようだった。
 そんなこんながあり、結果的に玲夜が買い取り、名義を柚子のものとすることで落ち着いた。
 話を戻し、撫子の言う『あのお方の本社』という言葉の意味を柚子は分かりかねている。
「玲夜……」
 玲夜を見あげるも、玲夜も話しに入っていけないようで首を横に振っている。
 この場で撫子の話が通じているのは龍だけだ。
 柚子は龍に視線を向ける。
 龍は撫子の言葉にうんうん頷く。
『確かにここへ来たならば真っ先にご挨拶をすべきであろう。ついてくるがよい。ただし、護衛は置いてくるのだぞ。あの方のいる大事な場所に大勢で押しかけてはご迷惑だからな』
「その通りじゃな」
 撫子は連れてきていたおつきの人たちに残るように指示すると、玲夜も同じように護衛たちへ待機を命じる。
 ふたりのやり取りを見届けてから、龍は道案内をするように柚子たちの先頭を進んだ。
 母屋と離れの建物を囲むように雑木林がある。
 目に入るところは手入れがされていて綺麗な庭が維持されていたが、母屋から離れるに従って手入れがされていない林が姿を見せる。
 草木は何年も人の手が入っていないように生い茂り、歩くにつれ前に進みづらくなってきた。
 着物を着ている撫子は特に歩きづらそうにし、時折草木に行く手を遮られながらも文句ひとつ言わない。
 邪魔な植物に苛立ちを感じているのが顔に出てしまっているが、正直言うと柚子も同じ気持ちだ。
 しかし、洋服の柚子はまだマシだろう。
 ヒールの高い靴ではなく、スニーカーを履いてきて正解だった。
「大丈夫ですか、撫子様?」
 柚子は見るに見かねて撫子に声をかける。
「うむ。ちと大変だが、わらわは大丈夫じゃ。こんな荒れた道なき道を歩くと分かっていたなら、着物で来たりはしなかったのじゃがの……」
 前を歩く玲夜を見れば、柚子と撫子が歩きやすいように草木を踏み固めて道を作ってくれている。
 それでも歩きづらいのは変わりないのだが、撫子ですら不満を言っていないのに柚子が言うわけにはいかない。
 どこまで行くのかとお構いなしにズンズン進んでいく龍の後をついていくと、柚子は驚いたように目を見開いた。
「アオーン」
「ニャーン」
「えっ、まろ? みるく?」
 玲夜の屋敷に置いてきたはずの、黒猫と茶色の猫が姿を見せたのだ。
 まるでその場の番人のように左右に立つまろとみるくはちょこんとお座りをして柚子を見ていた。
 まろとみるくは荒れ放題の草むらに向かってそれぞれが鳴いた。
「あおーん!」
「にゃーん!」
 まるで二匹の鳴き声に反応するように突然風が吹き、草がザワザワと葉を擦り合わせるように動き出す。
 その言葉にできない異様な雰囲気に柚子は息をのむ。
「っ……!」
『ほれ、柚子。前へ出るのだ』
 驚きのあまり声も出ない柚子が龍に背を押されて前へ出ると、行く手を遮るように生えていた草や木が、左右に分かれて道を作ったのだ。
 まるで柚子を迎え入れるかのように。
 これには玲夜と撫子も驚いた顔をしている。
「どどどいうこと?」
 激しく動揺する柚子は振り返って玲夜と撫子をうかがう。
 しかし、ふたりから答えはもらえない。
 ふたりも分からないのだろう。ただ様子を見ているだけだった。
『あのお方が柚子の来訪を楽しみに待っておるのだよ』
 龍の言葉に同意するように、まろとみるくも鳴いた。
「アオン」
「にゃん」
 もう一度玲夜を振り返り困ったように眉を下げながらも、意を決したように恐る恐る前へ歩いていく。
 柚子が一歩、また一歩進むに従い、草木が自然と避けていくではないか。
 まるで生きているかのような動きを見せ、ぎょっとする柚子。
 現実のこととは思えない光景に普通なら怖いと思うのかもしれない。
 柚子も始めは怯えたが、一歩一歩前に進むにつれ清浄な空気が辺りを包んでいくのが分かった。
 それは以前に撫子の屋敷で感じたようなとても綺麗で神聖なものだ。
 不気味とはほど遠い清廉な空気を感じたら、恐れなどどこかへ吹き飛んでしまった。
 むしろこの先になにがあるのか早く知りたい。そんな気持ちがあふれてくる。
 急くような気持ちを抑え、ゆっくりと前へ進む柚子の後を玲夜と撫子が続く。
 龍は柚子の肩に乗り、左右をそれぞれまろとみるくが付き従うように歩いた。
 それほど長くない距離を行くと、突然道が開け、大きな鳥居が柚子たちを出迎えるようにして建っていた。
 その鳥居の先には社がある。
 撫子の屋敷にあった社より倍ほどある大きく立派なものだ。
 不思議なことに、ここまでの道は決して人の手が入っているようには思えないほど荒れていたのに、社は寂れた様子もなく、綺麗な状態でそこにあった。
 一見すると普通の社。
 しかし、その大きさよりもずっと大きな存在感を肌で感じる。
 きっと今の気持ちを言葉にするなら、『畏怖』と人は言うのかもしれない。
 何故だろうか。胸がしめつけられるように痛み、バクバクと心臓が強く鼓動する。
 思わず服の上から胸の辺りをぎゅっと握りしめるが、目は社から離せない。
 すると……。
「柚子、どうした?」
 どこか焦りをにじませた玲夜の声にはっとする。
 玲夜が柚子の頬に手を伸ばす。
「どうして泣いてるんだ?」
 柚子はそこでようやく、自分が涙を流していることに気がつく。
「あれ?」
「具合が悪いのか?」
「ううん。なんでだろ?」
 自分でも何故泣いているのか分からなかった。
 痛いわけでも苦しいわけでもないというのに。
 柚子はゴシゴシと手で乱暴に目元を拭う。
「もう大丈夫」
 心配そうに柚子の顔を覗き込む玲夜に笑ってみせてから、もう一度社に視線を向ける。
「ここはなんなのかな?」
「分からない」
 玲夜にも分からないのなら柚子に分かるはずがない。
 一龍斎に関わる知識はほとんどないのだから。
 すると、後ろから撫子が声を発する。
「ここは見た通り、社じゃ。わらわの屋敷にあった社はここの本社から分霊されたもの。妖狐の一族はずっと探しておったのに、まさかこんなところに隠れておられたとは……」
 興奮を抑えきれないという様子で、撫子は社を目に収めている。
 撫子は着物や手足が土で汚れるのも気にせず、地面に膝をついて座り、深々と頭を下げた。
 気位が高い妖狐当主である撫子のその姿に、柚子だけでなく玲夜も驚いた顔をしている。
 あの撫子が地面に額をつくほどに頭を下げているのだ。
 社ということは、よほど大切な神様を奉っているのだろう。
 神様なら柚子も同じようにお参りした方がいいかと、撫子の横に並ぶように正座して頭を下げようとしたが、まろがスリスリと頭を擦りつけてきた。
 龍も寄ってくる。
『さすがにそこまで仰々しくせんでよいだろう。あの方も柚子にそこまで求めておらんよ。ただ、柚子には今後できるだけこの社に通って祈りを捧げてほしいのだ』
「祈り? お参りすればいいの? 私は別にいいけど……」
 お参りするぐらいなんてことはない。
 しかし、【祈る】と【参る】は微妙にニュアンスが違うような気がする。
 そもそもなにをお祈りすればいいのか分からない。
 玲夜が難しそうな顔で佇んでいるのが気になり、玲夜の顔をうかがう。
「ここはなんの社だ? どんな神が奉られているんだ?」
 柚子も気になったこと。
 撫子は知っているようだが、柚子も玲夜もなにも知らされずこの場にいる。
 玲夜が疑問に思うのは当然だ。
 一龍斎に関わりがあるのは間違いないのだろうが。
『ここは一龍斎が崇めていた神が奉られている場所だ。その昔、サクが神子として仕えていた』
 龍が口にした『サク』は、最初の花嫁と言われている。
 人間から初めてあやかしに嫁いだ鬼の花嫁。
 柚子にとったら先輩である。
 しかし、彼女の生涯は壮絶を極め、失意のうちにその命を終えた。
 サクは一龍斎の神子だった。
 そんな彼女が神子として仕えていた神。
「一龍斎の敷地内にあるから一龍斎が崇めている神様ってのは納得なんだけど、撫子様は……?」
 一龍斎が奉る神と撫子は関係ないのではないかという疑問は、最後まで口に出さずとも伝わったようで、撫子が口を開く。
「一龍斎の奉る神は、同時にあやかしの神でもあるのじゃよ。あやかしと人間。本来なら相容れぬ存在であるふたつの種族を繋いでいた神であり、一龍斎は神子として神の代弁者をしておった。いつしか一龍斎はその役目を放棄して、忘れていったようじゃがな」
『あのお方はサクを大層かわいがっておられたからな。一龍斎がサクを死に追い込んだことで、あのお方は一龍斎から手を引き、眠りにつかれたのだ』
 先ほどから龍が呼んでいる『あのお方』とは、どうやら神様のことのようだ。
『本当なら神に見放された時点で一龍斎は終わっていたはずなのだが、我が捕まりそうもいかなくなった』
「にゃうにゃーう!」
 みるくが龍を責めるように声を荒げたかと思うと、まろもじとっとした眼差しを向けていた。
 二匹の視線を感じた龍は、くわっと目をむき反論する。
『仕方なかろうが! 我とて口惜しいのは同じだ。むしろ一番奴らを憎々しく思っているのは我だぞ!』
「アオーン」
「ニャン!」
 まろとみるくの言葉は分からないが、なにやら不満をぶつけているように聞こえる。
『捕まる方がアホとはなんだ! お前たちこそもっと早く助けにこぬか』
 ぎゃあぎゃあと騒いでいる三匹を横目に、撫子はようやく立ちあがる。
「わらわの屋敷にある社は、最初の花嫁が鬼に嫁いだ時に分霊されたものだ。当時あやかしの間で特に力を持っておった三つの一族に、神が形代を与えた。鬼龍院には神がもっとも愛した神子を花嫁として。孤雪には分霊された社をというようにな」
「花嫁と社。あとひとつは……?」
 撫子は三つと言っていたのに、ふたつしか口にしていない。
 柚子が玲夜に顔を向けると眉間にしわを寄せていた。
 玲夜から撫子に視線を移すが、撫子は柚子に目を向けることなく、社を見たまま話を続ける。
「神が眠りについたと知ってから、孤雪家は代々神の本社を探しておった。神に見放された一龍斎に本社を任せてはおけぬとな。しかし、どこを探しても見つからなかったのじゃ。それがまさかわらわの代でこれほど容易く見つかるとは……」
 柚子の疑問には答えなかった撫子。
 聞こえなかったのかと深く考えることはなかった。
「一龍斎の屋敷にあるとは思わなかったんですか?」
 柚子の素朴な疑問。
 一龍斎の屋敷を探せばすぐに見つかったのではないかと。
 子供でも真っ先に思いつくだろうことに気づかぬはずはなかった。
「もちろんじゃ。だから真っ先に探したと記録にあったが、ついぞ見つけることは叶わなかった。だから、一龍斎がどこぞに隠したと思っておったのじゃ」
 そのわりには簡単に見つかったように思う。
 探し方が足りなかったのではないかと、柚子は失礼なことを考えてしまったが、龍が横から話に入ってくる。
『サクがあんなことになって、あの方はずいぶんと怒り悲しんでおられたからな。誰もここにたどり着けぬようにされたのだろう。あの方が近づかせぬようにしたなら、いくら力のあるあやかしと言えども見つけるのは不可能だ』
「へぇ。そんなことができるなんて、神様はあやかしより強いの?」
『当然であろう。ものすごく強くて偉いのだ!』
 龍は我がごとのように自慢げに胸を張る。
「そんな神様なのに、サクさんは助けられなかったの?」
 柚子が純粋な疑問を口にすると、途端に龍がずーんと肩を落ち込ませた。
 心なしかまろとみるくも落ち込んでいるように見える。
「えっと……。なにか変なこと言っちゃった?」
『いや、おかしなことではない。そう思うのはもっともだ。しかし、サクがそれが止めたのだ。あの方は最初、一龍斎の一族に神罰を与えようとしていた。しかし、神の及ぼす影響は大きく、累が及ぶ者の中には生まれたばかりの赤子も含まれる。だからサクは望まなかった。それにより起こった悲劇はあの方を苦しめる結果となってしまったのだ』
「そう、なんだ……」
 余計なことを言ってしまったと柚子は反省するが、一度口から出てしまった言葉は取り消せない。
 龍たちが、サクを大切に思っていると知っていたはずなのに、配慮に欠けていた。
 なにもしようとしなかったはずがないのに。
「……ごめんね」
 申し訳なさそうな表情で、柚子は龍の頭を撫でた後、まろとみるくもに同じように優しく触れる。
 甘えるように頭を擦りつけてくるまろとみるくに、謝罪の気持ちを込めて丁寧に撫でた。
 龍が柚子の腕に巻きついてくるのを、されるがままになる。
『柚子が謝る必要はない。あの時は悪いことが重なり、誰にもどうすることもできなかったのだ。けれど、あの方は自分を責めて眠ってしまわれた』
「神様は今も寝てるの?」
『どうであろうな? 我にも分からぬ。ただ、柚子がこれからここに来てくれるようになれば、あの方も目覚めるであろう』
「私が来たぐらいで目が覚めるとは思えないんだけど」
 確かに柚子には一龍斎の血がわずかながら流れており、神子の素質があると龍から言われている。
 しかし、神様が神罰を与えようとするほど一龍斎の一族を憎んでいるなら、逆効果ではないだろうか。
『いや、柚子が来るとあらば、のんびり寝てもおれなくなるはずだ』
「そうかなぁ?」
『絶対にそうだ。だから時間を見つけて来てくれぬか?』
 なにをもって断言できるのか柚子には理解できないが、龍がそこまで言うならそうなのかもしれない。
「さすがに毎日は無理だけど、時間が空いたときならでいい?」
『かまわぬよ』
 玲夜に視線を向ければ、問題ないというように頷いた。
 玲夜が反対しないなら危ないこともないのだろうと、柚子は暇を見つけてはここに通うことになった。