黒峰は自宅に帰り、中学生の息子の由依斗に「紙幣」という言葉を知っているか聞いてみた。

「ああ、歴史の教科書で見た気がする。日本で初の硬貨が富本銭で、最後の紙幣の肖像は、えーと、誰だったっけな。実業家の人だった気がする」

声変わりしたばかりの声で、由依斗は答えた。しゃべり方には幼さが残っている。捻くれた自分と比べて、この子は素直だと黒峰は思った。思春期にもかかわらず、親を疎ましく思うことなく慕ってくれていることを黒峰は喜んだ。凄腕官僚も家では一般家庭と何一つ変わらない父親だ。

「もし、紙幣が現代にあるとしたら、由依斗は誰の肖像がいいと思う?」
「えー、父さん紙幣刷るの?」
「そんな紙の無駄になるようなことしないさ。アナログのお金は窃盗や強盗みたいな犯罪の温床にもなりかねないしね。心理テストみたいなものだよ」

由依斗は、女性アイドルの名前を挙げた。

「俺の推しなんだよね。ほら、この子だよ。可愛くない?」

由依斗がソファに座ったままスマートフォンの画面を黒峰に見せた。年相応に、可愛い女性アイドルのファンになり、いまいちイメージのわかないお札の肖像は「国のマスコットキャラクター枠」のようなものだと思っている。

「パパ、お兄ちゃん、何のお話?」

ぬいぐるみで一人遊びをしていた幼稚園生の娘、由璃菜が楽しげに話す父と兄を見て会話に混ざりたがった。

「昔のお金はね、紙だったんだよ。偉い人の絵が描いてあったんだ」

幼稚園生の娘を抱き上げて、膝に乗せる。

「へえ、そうなんだ。パパもお兄ちゃんも物知りだね」
「それでね、もしも今のお金も紙になったら誰の絵がいいんだろうねって、話をしていたんだよ」
「それなら、あたしタピオカちゃんの絵がいい!」

タピオカちゃんとは、由璃菜が大好きな幼児向けアニメのキャラクターである。幼児アニメには疎い黒峰も由依斗も、家中がタピオカちゃんグッズであふれているためそのキャラクターだけは知っていた。由璃菜が片時も離さない丸っこいぬいぐるみはもちろんタピオカちゃんだ。
 団欒をしていると、入浴を終えた黒峰の妻が来た。妻も会話に混ざる。

「ねえ、ママはどんな絵がいい?ママは誰が好き?」
「うーん、ママは由依斗くんと由璃菜ちゃんが一番大好きだから由依斗くんと由璃菜ちゃんかなぁ」
「やめてくれよ、恥ずかしい。コンビニ行って、俺の絵が描かれた金やりとりするとか何の罰ゲームだよ」

母親のくだらない冗談とは分かっていたが、由依斗は即座にその案を却下した。

 多くの人の心には「推し」がいる。「推し」という概念は21世紀の前半に生まれた。インターネットが急速に発展し、ペーパーレス化や電子マネー化が進んだのもその頃である。そして、当時は不景気であった。当時の人間の行動心理学に学ぶことは多い。黒峰は当時の世相を勉強するために、電子図書館のデータベースにアクセスし、夜通し文献を読んだ。

 官僚の朝は早い。翌朝、急ピッチで雑務を終えた黒峰は時間を作り、白菊と話す時間を作り出した。そして、昨日の家族との会話を元に考えた案を白菊に提案した。

「入金画面や決済画面のエフェクトを魅力的な物に設定できるようにするのはいかがでしょうか。いわばバーチャル紙幣といったところです。現物と違って、データですから使ってもなくなりません」
「素晴らしい!人は好きな物を目の前にすると行動的になる。バーチャル紙幣を得るためにはお金を稼がなくてはならないから仕事にも積極的になる。支払い画面を見るという動機があれば購買行動に走る。経済は間違いなく活性化するだろう。人を動かす行動原理は、愛なのかもしれないな」

この人はまたクサいことを、と黒峰は苦笑した。しかし、黒峰が提案したこの案の大元は白菊の純粋さから生まれた物であるので、この男には変わらずにいてほしいとも思っている。

「ただ、ひとつ問題があるな。国民すべてに愛される存在なんているのだろうか?いったい誰の肖像を使えばいいのか分からない。それに紙幣のデザインは偽造されてはならないから、専門家に頼まなければいけないのだろう?」
「随分と調べられたのですね。頭が下がります、白菊総理。しかし、通貨として使うのであれば偽造防止のために加工などの処理が必要ですが、あくまで通貨は電子マネーというデータそのものです。バーチャル紙幣は、利用者がローカル環境で閲覧する目的で使うものですから。いわば電子マネーが纏う舞台衣装のようなものです。偽造防止など難しいことを考える必要が無いのですよ。」
「なるほど」
「そして低コストで制作し、国民の大多数を納得させる方法があるのですよ。私にお任せください」

黒峰は、昨日の優しいパパの顔とはうってかわって悪い大人の顔をしてニヤリと笑った。