「ようこそお越し下さいました。まずはこちらにお名前をお書きください。偽名でも結構」
「偽名でもいいんですか?」
「うん、ここを借りる時に顧客が反社会なんとかかどうか確認しろとか言われてさ、でも聞いたってわかるわけないからとりあえず名前書いてもらってるんだ。世知辛い世の中だよね」
「はぁ」

 その辻占の席についたのは偶然だった。
 なぜだろう。一人でいたくなかったから。大量の水分がもたらすこの蒸し暑さにむしゃくしゃしていたから。そんな簡単な理由。それからその辻占はギリギリショッピングモールの軒下に陣取っていて、たまたまピチョリと振り始めた雨を避けるのにちょうどよかったから。
 気がつくと、その雨は全てを押し流すような豪雨に変化していた。

 今日は朝から生憎の曇りでずっと空模様は冴えなかった。それが夕方を迎えてその重さに耐えきれなくなったのか、俺が席に座った途端にどさっと夕立となって落ちてきた。
 左手側はにぎやかで電飾瞬く真昼のように明るいアーケード、右手側は人気(ひとけ)のないまだ夏の夕方なのに垂れ込めた重い雲ですっかり暗い屋外。今も何人かの人がこちらに逃げ込んでくる。
 ここはちょうど狭間の中間地点で、明るい方に行くのにもまだ未練があって、かといってこの夕立の中を戻るのもためらわれ、むしゃくしゃした気持のまま立ち往生して、結局落ち着いたのはバラバラと派手な音とその飛沫が真上の軒とすぐ左手の地面に打ち付けられるその狭間にひっそりともうけられた占いの席だった。
 無意識に、どちらにいくべきか誰かの意見を聞きたかったのかもしれない。
 席に座るとふいに、温度が下がった気がする。

「酷い夕立ですね」
「ゲリラ豪雨というやつかな。そのうち上がるでしょう」

 その声に改めて占い師を見ると黒い長髪を横分けでまとめた30代くらいのこざっぱりした女だった。
 勢いで座ったけどよく見てなかったなとキョロキョロと眺めまわすと女はケラケラとおかしそうに笑う。

「お兄さん、占いは初めてですか」
「そうですね、本格的なのは。遊園地とかのブースで彼女と何回か占ってもらったくらい」
「ああ、似顔絵コーナーとかの近くにあるやつ」
「そうそう」

 占い師の女の声はどこか落ち着いていて、ようやく胸をなでおろすと料金表が目に入った。
 俺の視線に気づいた占い師は少し首を傾げて問いかける。

「何の占いがご希望でしょう?」
「そうですね……」

 料金は基本的に1つの占い毎に30分で3000円。2つになると1時間で5000円という体系のようだ。相場感はわからないけど、そういえば遊園地もそのくらいだったかな。
 生活運、仕事運、金銭運、それから……恋愛運。
 恋愛か。その文字がやけに目につくが、今は目にいれたくない。

 俺は付き合っていた彼女とこのショッピングモールにデートにきていた。付き合うことにはしたものの、俺と彼女の関係は梅雨前線がひしめき合うように可及的速やかに悪化していき、おそらくもう駄目なんだろうなという予感はしていた。それでさっき、お互いに腹を立ててささいなことで喧嘩した。そして彼女は公衆の面前で俺を引っ叩いて走り去った。
 俺も彼女も頑固で強引だから、ここまでこじれてしまえば恐らくやりなおすことは不可能だろう。けれども彼女の気が強いところ自体は結構好きで、だけど俺も折れることはできなくて、張り合って、どこで間違ってしまったんだろう。
 今も隣で降り続ける夕立のように気持ちは晴れない。
 するとふいに夏の風のような言葉が耳に入る。

「今日の天気でも占います?」
「天気? 今日はもう雨でしょう? 予報では朝からずっと曇りだったけれど。今週いっぱいは曇か雨で、晴れ間は来週のお預けらしい」
「きっとこれが梅雨の最後なんでしょうね。明けるときっと、カラッと晴れる。でもまぁ、今日は晴れるかどうかが肝心な特別な日なので」

 特別。特別か。
 いろいろな思いが去来する。だが今日はもう恋愛のことは考えたくない。

「いえ、そうですね、仕事運をお願いします」
「仕事運。わかりました。ではお手を拝見いたします」
「あれ? 手相占いなんですか?」
「他にもありますよ。観相とか四柱推命とか。タロットでも。こだわりはあります?」
「いえ、特に」

 なんだか妙に適当だな。
 そう思っていると、占い師の女は俺の左手首を掴んでしわをなぞる。

「アレルギーはありますか?」
「アレルギー?」
「そう、アロママッサージやるから」
「アロマ?」
「リラックスした方がいいでしょう? 体が固まってると頭も固まるからね。どの匂いが一番好きかな」

 占い師は机の下から素早く5本ほどの色とりどりの小瓶と白い陶磁の丸いポッドを出した。
 その途端にフワリとフクザツな香りが漂う。オレンジのような、バラのような、ミントのような、そんな色々な香りがまざりあう香気。
 1本ずつ軽く鼻にあてると、一つ嗅ぎなれた爽やかな香りがした。

「これは、りんご?」
「そう、青りんご。よくわかったね」
「ええ、まぁ」
「ちょうど季節だよね」

 占い師は青りんごのアロマをとり、用意されたオイルに数滴垂らすとふわりと香りが広がった。なんとなく淀んで垂れ込めた雨の湿度がそこだけ霧散した、気がした。
 それからポットの上部にペットボトルから水を入れてそこにも数滴。ポットの下にキャンドルを入れると、ふうわりとした香りがまた広がる。その空気の塊が周りの雨の湿めったい臭いを押し出して、青りんごの香りのシャボン玉のなかにでもいるような清涼な気配に包まれた。