閉店後、俺はインターネットで識字障害について検索した。俺が詩織くらいの年の頃には人口に膾炙していない概念だった。学力との因果関係はない。程度の差はあれ、二十人に一人以上が識字障害を抱えていると言われている。俺には知らないことばかりだった。症状や程度はまちまちだと専門のホームページには書いてあるが、詩織はいったいどれだけ苦労して生きてきたのだろうと心情を慮った。

 色々と調べていると、ユニバーサルデザインフォントという言葉を発見した。書店のオーナーでありながら、初めて知った語彙だった。俺は自分の不勉強を恥じた。そして、ネットショッピングのサイトである物を注文した。


 その週の日曜日、詩織はお詫びと言うことで菓子折を持って書店を訪れた。私服の雰囲気は以前と変わらないはずなのに、小学生と言うことを知ったうえで見るとどこか幼さが残っていると俺は思った。

 俺はポケットから、一枚の栞を取り出した。リーディングトラッカーと呼ばれる物で、淡い色の透明なフィルムの両端に黒い縦縞が入っている。隣の行の文字を隠しながら読んで使うと、どこかの教育者のブログに書いてあった。隣の行の文字と文字が混ざって頭の中でぐちゃぐちゃになってしまうのを防いでくれると、レビューにはあり、満足度を表す星の数が多かったので信頼が置けると判断した。

 気休めにすぎないかもしれないが、同じ本好きとして俺はどうにか詩織の力になりたいと思い、リーディングトラッカーを注文した。そして、それを詩織に手渡した。

「これを使いながら読むと、他の行の文字が良い具合に隠れるんだって」

「もしかして、私のために取り寄せてくださったんですか?」

斜めがけのギンガムチェック模様の鞄から、パステルピンクの財布を取り出しながら詩織が尋ねた。

「ああ、これは商品じゃないからお金はいらないよ」

俺が支払いを拒否すると、詩織は驚いた顔をした。

「君の名前、しおりっていうんだろ」

「ありがとうございます。一生大切にします!」

 詩織は目に涙を浮かべながら、俺にお礼を言った。

「よせよ。そんなに喜ばれたら照れるじゃないか」

俺はこめかみを掻いた。一回り以上年の離れた少女にどのように接するのが正しいのかは、いまいち正解が分からない。けれども、詩織が喜んでいるのを見て俺は温かい気持ちになった。

「今日は何を買いに?手伝うことはある?」

詩織は、はっと本題を思い出したように答えた。

「はい、読書感想文の課題図書を買いに来ました」

詩織が課題図書としてあげた書籍は、比較的著名な小説だった。

「急ぎかな?」

「いえ、夏休みの宿題なので」

俺は詩織をレジ脇に案内すると、パソコンで書籍を検索した。

「ユニバーサルデザインフォントを知っているかな?」

俺は問いかけながらキーボードを叩いた。詩織は首をかしげた。

「君と同じ悩みを抱えている人は世の中にたくさんいて、おかしなことではないんだ。誰でも本を読めるようにと専門の人が読みやすいフォントを開発しているんだ。それがユニバーサルデザインフォントだよ。そして、そのフォントで書かれた読みやすい本を出している出版社があるんだよ」

俺もつい最近得たばかりの知識ではあるが、小学生の詩織にも分かるように噛み砕いて説明した。

「おお、あった、あった」

多くの出版社が何刷も重版をかけているような小説であったため、検索に多少の時間はかかったが、いわゆる識字障害を持つ人でも読めるようにと作られたユニーバーサルデザインブックを見つけることが出来た。

 試し読みのページサンプルをパソコンの画面で詩織に見せながら、俺は取り寄せのシステムについて説明した。

「一週間ほど時間をもらうことになるけど、どうかな?」

「すごいです。お願いします」

注文用紙の書き方は難しいかもしれないと思ったので、俺は丁寧に

「この枠に名前を書いて、この枠には電話番号を」

と一つ一つ教えた。無事取り寄せの予約を完了した詩織は俺に丁寧にお辞儀をした。こういった所作の隅々から、詩織の育ちと人柄の良さがにじみ出ていると俺は感心した。

 詩織がたどたどしく名前を書いた注文用紙を見て、名前の漢字が本に挟む「栞」ではなくポエムの「詩」に機織りの「織」であることを知った。慣れないキザなことをするものじゃないな、と自嘲した。


 一週間後、詩織が注文した本が届く日の開店時刻数分前、俺は書店の窓ガラスにポスターを貼っていた。

「オーディオブックも予約できます」

物語を愛する全ての人にとっての止まり木になれるような書店を作りたいと俺は思った。「読みやすい本のコーナー」を店の一区画に作るのも良い、そんなことを考えながら丁寧にポスターを貼る。ポスターには、オーディオブックのイラストを俺自ら描いた。従業員の一人は俺の変わりように驚いていたが、一方で素敵なアイディアだと感心してくれた。

「おはようございます」

白いワンピースに身を包んだ詩織の声に、俺は振り返った。

「やあ、早いね」

「はい。楽しみで」

「ちょっと待っていて。今すぐ店を開けるから」

俺は詩織にほほえみかけてから、店のドアを開けた。