六月のある日、少女は大きなタブレット端末を抱えて店にやってきた。彼女は有名私立小学校の制服を着ていた。セーラー服姿は、学校指定の帽子とランドセルがなければ中学生と見間違うほど大人びていた。俺はその時初めて、彼女が小学生であることを知った。

 その日、少女は平積みの本をじろじろと見ながら、いつもは行かない少年漫画のコミックスのコーナーへと向かった。彼女はおもむろにタブレットを構えると、棚の写真を撮り始めた。シャッター音を消すことはしていなかったので、その音を聞いて俺は彼女の元へ向かった。少女は棚の写真を何枚か撮ると、タブレットで写真を確認して、また撮り始めた。俺が彼女に近寄ったが、特に悪びれる様子はなかった。

 俺は呆れていた。見るからにおとなしい雰囲気の少女だが、見かけによらずふてぶてしいと感じていた。少女が一冊の漫画を手にとって表紙を写した。写真を拡大して確認した後、その本を戻してまた新たな本を手に取ったタイミングで、俺は彼女を制止した。

「君、店内は撮影禁止だよ」

「えっ、そうだったんですか。ごめんなさい」

何を白々しい、と俺は思った。何しろ二人の目の前には「店内撮影全面禁止」の貼紙があった。少女がよく使う児童書のコーナーや、雑誌エリア、レジ前にも同じ貼紙がある。

「写真を確認するから、バックヤードに来て」

俺は苛立っていた。どうせ、この少女も本を買わずにSNSに表紙の画像だけ投稿するのだろうと辟易した。毎週雑誌を買い、有名私立に通う裕福な少女がなぜそんな貧乏くさいことをするのかが理解できなかった。

 バックヤードで、俺は少女に撮影したタブレットを机の上に出すように命じた。

「君、名前は?」

「西川詩織です」

「デジタル万引きって言葉を知っているかな。万引きほどの罪には問えないが、撮影禁止の店内で写真を撮り続けて警察沙汰になったケースもある。なんでこんなことをしたんだ?」

強い口調で問い詰められ、詩織は静かに泣き出したが、やがて口を開いた。

「私、ディスレクシアなんです」

「ディスレクシア?」

馴染みのない単語を首をかしげながら復唱した。

「識字障害を抱えていて、普通の人と比べて文字を読むのが極端に苦手なんです。文字をうまく認識できないことが多いんです」

「文字が読めない?」

詩織の言っていることが俺にはよく分からなかった。なぜ、文字を読むのが苦手だというのに本を買っていたのかが不可解だった。

「全く読めないわけではないんです。ただ、文字を読むのに人よりも時間がかかってしまって、文字を文字として認識できないことがあるんです。だから、撮影禁止のポスターも見落としてしまってごめんなさい。あと、撮影って漢字が読めませんでした。ごめんなさい」

何度も謝る詩織が嘘をついているようには見えなかった。先ほどまでより少し抑えた口調で俺は質問を続けた。

「よく少年誌や児童小説を買っていたから、活字が苦手なようには見えなかったけれども、それはこの際置いておこう。なんで写真を撮ったの?」

「姉に、本屋さんに寄るならついでに漫画を買って来て欲しいと頼まれました。でも、漫画の背表紙のフォントが見づらくて、写真に撮って拡大しないとタイトルと巻数が分からなかったので撮りました。写真は全部消します。本当にすみませんでした」

平謝りする詩織は、捕まったからその場限りの謝罪をしている非行少年少女とは違って見えた。あまり他者と深く関わることはしない俺だが、詩織は悪い子だとは思えないと直感が告げていた。

「君、小説とか漫画好きなの?」

口をついて出たのは重苦しい空気には似つかわしくない質問だった。

「はい。幼稚園に入る前から物語が好きでした。母が色々な絵本を読み聞かせてくれたのが楽しくて。おかしいですよね、馬鹿なのに本が好きなんて」

詩織の目は悲しみの色をしていた。今思えば、詩織が小説の最初のページをめくって、棚に戻す瞬間も悲壮感にあふれていた気がする、と俺は思い返した。

「普段は、電子書籍で拡大しながら読んだり、図書館でオーディオブックを借りたりしているんですけど、学校の読書の時間は紙の本以外禁止されていて・・・・・・」

「じゃあ、よく本を立ち読みしていたのは・・・・・・」

「読めるフォントやレイアウトか確認していました。あまり小さい文字だと読めなくて、あと行間が詰まっていると文字が混ざってしまってよく分からなくなってしまうんです。ごめんなさい、迷惑でしたよね。もうここには来ません」

「いや、そんな事情があるとは知らず頭ごなしに怒鳴ってごめんね。お姉さんに頼まれた本は今用意するから、タイトルを教えてくれるかな?」

詩織は申し訳なさそうに流行の少年漫画のタイトルと巻数を数冊分言った。どれも、詩織が購読している少年誌に掲載されている漫画だった。

「君が毎週買っている本誌で連載中の漫画ばかりじゃないか」

「実は、その漫画は読んでいないんです。コミックスの大きさになってしまうと、文字が読めないので本誌で読んでいるんですが、全部の漫画を追っているわけではないので。だから、一目では分からなくて」

「お姉さんは、ディスなんとかのことは?」

障害という言葉を第三者が使って良いのか分からず、正式なカタカナの名前を言おうとしたが正確な名前が思い出せなかった。俺は気まずさを振り払うために立ち上がった。

「姉は私と違って優秀なので知られたくなくて言っていません。父と母と話し合って、姉には言わないことにしました」

姉と比較して自分を卑下する詩織だが、俺には詩織の頭が悪いとはとうてい思えなかった。最初は泣いていたが、落ち着いてからの話し方はむしろ聡明な印象を受けた。

「いつもうちで本を買ってくれてありがとう。次からは、探している本があったら俺が持ってくるから気兼ねなく言ってほしい」

「ありがとうございます、すみません」

「それと、話していて思ったけれど、君は頭が悪くなんてないと思う」

「そんなこと、初めて言われました」

詩織は俺の言葉を聞いてすすり泣いた。いよいよ本格的に気まずくなった俺は席を外し、詩織が買おうとしていた単行本を用意した。