好きになった人は吸血鬼でした。―さくらの血契1―【完】


昨日、黎の気配が一時的に消え――翌今日は、様子がおかしい。

……喰らったか。

門叶は恋人と簡単に口にしたが、まさかそのような存在が出来たのでは――

「あの馬鹿め」

もし相手が、普通の人間であったら――妖異怪異の類であったら――

「………」

今は、自由にさせておくか。

恋ごとに、じじいが顔を突っ込むのもあんまりだ。

でもいつか、黎――あの孫が、恋人の紹介なんてしてきたら……。

「……ずっと一緒にいてくれる子なら、よいか」

ぐりぐりと、門叶の頭を撫でまわした。

楽しみに、待っているぞ。


何だか料理を頑張ってみようと思った。

「あつっ!」

熱したフライパンに指が触れてしまった……。手を流水につけて、ため息をつく。自分はキッチンに嫌われているんだろうか。むーっと唸りながら蛇口を捻る。

それでも、頑張ってみようと思って、頑張るんだと決めた。

「自分がこんな女の子っぽいのキャラじゃないんだよー……」

けれど次に出るのは愚痴の混じった息。

そしてまた次の瞬間には頑張る思いでいっぱいになる。

天秤がぐらぐらし過ぎている私だった。

もう逢えないという人を想って、何をしているんだろう。

でもいつかは逢う人だからとすがってしまうのだろうか。

……でも何で料理?

苦手なことに向かっている自分。自問してしまった。

何か出来ること、何かしたくてしょうがなくって。

ただ立って待っているだけは出来なくて。

目についたことをしてみた。

……全く使った気配のないキッチン。

料理をしないでいたのは、それがママとの繋がりだったからだろうか。

記憶にあるママは、とても上手に、手際よく道具と材料を動かして。

美味しいご飯を作ってくれた。

だから、料理はママに頼り切りでいることが、私を無意識にママへ繋いでいる糸だった気がしてきた。

ママと離れて暮らして、恨むことはなかった。

知らない恋人といても、変わらないままだったから。

「真紅ちゃん!? どうしたの!?」


気づけば薄闇の部屋でうずくまって泣いていた。

金切り声のママに見つけられて、顔をあげた。

首が痛い。

どれだけの時間を小さくなって過ごしていたんだろう。

「真紅ちゃん? どうしたの、包丁で切ったの?」

背中に手を添えるママ。……綺麗な人だった。

ずっと変わらない凛とした美しさの人だった。

少し冴え冴えとした面差しながら、雰囲気が柔らかいお母さん。

「ま、ま~……っ」

抱き着いた。

切ったように痛い。

どこだかわからない。ただ痛い。

「……助けてくれた人に?」

殺されかけたことや血がどうのというのは言わずに、ぼやかした言い方になってしまったけど……逢いたい人がいる、その気持ちは総て話した。

「………」

ママの問いかけに、こっくり肯いた。

暁になっても消えない想い。

どうすればいいの。

「そうね――」

ママは立ち上がり、押入れから私の習字道具を持ち出して来た。

中学時代選択授業で取っていたので、開けてすぐの場所に置いてあった。

その中から下敷き、半紙、文鎮、硯に墨を流し、筆を取った。

「……ママ?」


何をするのか問えば、ママはにっこり微笑んだ。

「そういう自分じゃ解決出来ないどうしよもないときはね、こうするといいのよ」

と、筆を半紙に置いた。

「………」

私は半ば呆然としながらそれを見ていた。

「――こんなとこかしらね」

満足げに呟いたママが書いた文字は――

『また逢えた』

――だった。

「あの、ママ……私逢えてないよ?」

逢える方法がわからなくて途方に暮れていたのに……。

「うん。だからこういう願い事とかどうしても叶えたいことって、過去形にしちゃうといいのよ」

と、墨が乾くのを待って、ママは更にそれをセロハンテープでぺとりと壁に貼った。

「毎日これ見て、毎日想うの。逢えた、また逢えた。だからきっと、また逢える――。そんな感じに、自分に言い聞かせるの。そうするとね、それを聞いた自然とか運とか、そういう誰にも触れられなくて人間にはどうすることも出来ないものが、聞き届けて叶えてくれるわ。そうか、そんなに叶えたいのか、そんなに逢いたいのか――ってね」

そうか――の下りをわざとらしく低い声で言って、最後にママはおどけるように私を見た。

「………」
 
私はまだ言葉がない。

なんと言うママらしい方法。

穏やかだけれど型破りで、優しいけれど気が強い。

そんな風に、自分を信じる方法。

「……」

初めて、私の顔がゆるんだ。


目尻が下がって、唇が薄く開き小さな笑顔になる。

「こうすると、ちょっと気持ち楽にならない? 自分以外の何かを信じるって、逢いたいと思ってる相手も信じてるって感じしない?」

ママは私の頭をぽんぽんと叩いた。

「……思っててくれるかな」

「わからないから信じるんじゃない」

相手を。

その前に、自分を。

逢いたいと思っている気持ちは、自分しか持っていないものだから。

その気持ち一つ、信じて。

大事に抱いてあげて。

「私、ママすきだなー」

「私だって真紅ちゃんが一番すきだからね」

自然と生まれる笑顔。

恋に迷ったら、こういう道もあるんだ――。

この初恋、いつか……。きっと叶う。


「真紅ちゃんを助けた、ねえ……」

帰り道、私――桜木紅亜(さくらぎ くれあ)、夜天に呟いた。

真紅ちゃんの暮らすアパートから離れて、独りで暮らしている家へ。

真紅ちゃんに、本当のことは伝えていない。

私には恋人などいない。本当は独り暮らしだ。

年頃の娘を独りで置いておくなんて、自分でも不用心で危ないことだとわかっている。

けれど、私と一緒にいる方が、真紅ちゃんにはずっと危険だった。

真紅ちゃんは何も、知らないから。

教えていないから。

……教えるには、真紅ちゃんは血が濃すぎる……。

そして私は、無能だ。

私は、自分伝いで真紅ちゃんの存在が知られないように、離れることでしか娘を護ってやれない。

「紅亜さん? こんばんはー」

妙に間延びした挨拶がかけられた。
 
をあげれば、真紅ちゃんの隣の部屋に住む子だった。

「舞子(まいこ)ちゃん。こんばんは。今帰り?」

「はい。紅亜さんも、真紅ちゃんのとこですか?」

舞子ちゃんは近くの病院で看護師をしている。

夜勤もあるから滅多に顔を合わせることはなかったけど、舞子ちゃんが学生の頃からお隣で、真紅ちゃんとも仲がいい。

……私は舞子ちゃんにだけ、本当は恋人などいないことを話してある。

お隣さんに、真紅ちゃんに対して見捨てられた子、などと思われるのは嫌だったし、真紅ちゃんの知らない本当を知っている人がいてくれれば、私自身が安心するのもある。

「うん。……海雨ちゃんは、まだ入院してるの?」

海雨ちゃんが入院しているのは、舞子ちゃんの勤務先だ。


「ええ……。なかなか現状は変わらないです」

「そう……」

淋しげな舞子ちゃんの声。

現状が変わっていないということは、よくもなっていないが悪化もしていないということだろう。そして、ドナーも……。

「今度、真紅ちゃんとお見舞いに行くわね」

「是非そうしてください。海雨ちゃん喜びますよ」

にっこり笑顔のお隣さんに、おやすみと挨拶をしてまた独りの家に帰るために歩いた。

――本当は一緒に暮らしたい。

大すきな、宝物みたいな娘だもの……。

そんな真紅ちゃんが、泣くほど逢いたがっている人がいるのね……。

「それを奪っていくには、相応の輩(やから)でないと納得いかないわね!」


「……ママってすごいなあ」

それから更に半紙を増やしてみた。

五枚ほど書いたところで、何だか満足――した。

心が満たされた、と言うか……安心したのだと思う。

「……もう、大丈夫」

言葉一つで信じることが、出来る。

……私は薄々考えていたことがある。ママの恋人とやらのことだ。

「本当に、いるのかな……?」

ママが私を独りにしている理由。

私がその人と逢ったことは一度もない。実の父親がどうしていないかは知っている。あれはあれでなかなか複雑だから、私に言えたこともない。それが原因で、ママは私ともども桜木の家から絶縁されたらしい。

しかしママに恋人がいないとなると、どうして私を独りにしているかがわからない。

叶うなら、一緒に暮らしたい。

「………」

考えてもわからないことなので、一旦放棄することにした。それより今は、黎のこととか。海雨のこととか。

明日も海雨のところへ行こう。海雨とは保育園からの友達で、一番私をわかろうとしてくれる子だ。


「――白桜(はくおう)様」

柔らかい呼びかけに、私室の縁側で夜天を見上げていた俺は、つと振り返った。

「天音(あまね)」

着物を重ねて着、しかし動きやすいように細工されている意匠(いしょう)の、銀色の髪の女性は軽く面を伏せた。

「黒藤(くろと)様がいらっしゃっております。至急、白桜様に取り次ぐようにと」

「黒(くろ)か。すぐ行く」

黒藤――幼馴染である影小路(かげのこうじ)家の若の、月御門(つきみかど)へのその来訪の理由は薄ら気づいていた。

「白(はく)。母上が目覚める」

門まで出迎えた俺に、長身の黒い幼馴染は端的に告げた。

「紅緒(くれお)様が眠られてから十六年か……。所在は摑んでいるんだろう?」

「紅亜様の居所は常に小路に把握されている。娘を護るため、紅亜様は今、共には暮らしていないようだが……。その日、娘に逢って来ようと思う」

「それは小路(こうじ)の問題だから、御門(みかど)の俺が口を出すのも難だが……真紅嬢だったか? 出自は知らないんだろう?」

「父君との一件で、桜木から絶縁されているからな。紅亜様は直系長姫(ちょっけいちょうき)でありながら廃嫡(はいちゃく)された身だ。知らされてもいないし、陰陽師や退鬼師としての修業なんざもやってねえみたいだ」

黒はぼやくように頭を掻いた。一房だけ銀が混じった黒い前髪。