好きになった人は吸血鬼でした。―さくらの血契1―【完】


「真紅、歩けるか?」

「歩く」

黎の腕から降りて、靴を脱ごうとしたときに、

「……ぁれ」

ふらりとまたよろめいた。

「……座れ」

呆れ気味の黎に促され、玄関にすとんと座り込んだ。アパートの一室。キッチン部分と、畳の部屋。

黎は私の前に膝をついて、靴を脱がせた。

「!!!」

え! な、何をされている……⁉

鮮やかな手つきに叫ぶことも出来ない。

「ねえ……『何』なの? あなたは……」

まさかだけれど、執事とかそういったことの経験者なのだろか。

「吸血鬼だよ。真紅の血がほしいだけの」

「………」

私は、血なら役に立てるんだ。

「あげるよ」

「………」

「ん?」

私から外した靴を揃える吸血鬼が、顔を上げる。

「血が欲しいんなら、あげるよ」

「……急にどうした?」

「私なんかで役に立つなら、血でいいんなら、あげるよ」

「交換条件でも出しそうだな?」

「うん。私の最期を看取ってくれたら」

「………」

「私のね、両親は離婚してて、父親の顔は知らない。お母さんは恋人のところにいる。私は、この部屋で死ぬようなことがあったら誰も知られずに腐敗していくだけなの。だから、あなたが私の最期を看取ってくれるって言うなら、私の血は全部あげる」


「………」

「どうかな? やっぱり私も、こんな私でも、死ぬときくらいは誰かと手を繋いでいたいって思うよ」

「わかった」

吸血鬼の指が、私の首筋に触れる。

「真紅の血はもらう。最期のとき――俺が傍にいる」

「……うん」

また、牙が首筋に触れた。


「美愛(みあ)」

父は母をそう呼んでいた。優しい声。母はそれに、微笑みで応える。

異国の娘であった母。本名は『ミーア』というらしい。日本で生きていくために、父がそれに漢字をあてた。

古めかしい家、味方は父だけ。

俺の吸血鬼性は、母から継いだものだった。

吸血鬼と言っても、俺の血は半分の混ざりもの。吸血した相手を吸血鬼にすることもないし、幼い頃は血なんか吸わなくても、人間と変わらない食生活で生きて来られた。

――時が来るまでは。

「こんなガキみたいな奴の血がうまいなんてなあ、自分」

やはり、俺の本質は鬼人(きじん)ではなく吸血鬼だったか。

勝手に引きずり出した布団に横たえた真紅の頬を撫でる。

俺は母が吸血鬼なら、父は鬼人の家の当主だ。例のない混血だった俺は、今、実家に縁のある陰陽師の家に籍を置いて、監視下にある。

――ということになっている。

監視という名目に匿われて、俺は今、人間として生きることが出来ている。

そんな厄介なだけの自分が。……よりによって人間の血を欲するようになるなんて。

最期まで傍に、なんて約束を、するりとかわしてしまうなんて。

「真紅……」

最期のとき傍にいる。

その言葉は、嘘じゃない。

「ん……」

「真紅?」

「んー……? ママ……? 今日は遅かったね……」


「真紅―? おーい、ママじゃねーぞー」

「……え。ええっ!?」

がばっと飛び起きた真紅はうす掛け一枚握って窓際まで逃げた。

「なっ! 何あんた! どうやってここに入ったの! 警察呼ぶよ!」

「やっぱ混乱するよな……」

雑に頭を掻く。そりゃ、眠る前は出欠多量で死にかけていた真紅だ。そしてあの口ぶりは、今この場で血を吸いつくされ命を終えることを望んでいる言葉だった。

一瞬、何と言うか考えた。この反応だと、真紅に俺の血が馴染み始めていて、貧血状態からは脱したようだ。でも、落ち着け、と言ってこういう場合で落ち着いてくれたためしがあるだろうか。

いや、ねーな。

「真紅の血は甘い香りで美味しかった」

「はあ!?」

ものすごく危ない人を見る目で見られた。その反応を見てから、またもやそりゃそうだと思う。いきなり血の話って。吸血鬼だとは言ったけど。

「真―紅。憶えてないか? お前が最期まで一緒にいてくれるなら血をやるって言われたんだけど」

「そんな頭悪いこと言う奴がいるか!」

「いや、お前なんだけど」

とは、大声では言えなかったのでぼそっと言った。

「じゃあ、首に手ぇ当ててみ。牙痕(がこん)――この、牙の痕あんだろ」

と、口を開けて自分の牙を指して見せた。人間にはないほど鋭利な。真紅は目を見開き首に手を当てた。そして顔色を変えた。

「――きゅうけつき……?」

……思い出してくれたか?


そうだ。眠る意識の前。何かに襲われて斬りつけられて――殺されかけて、吸血鬼に助けられて、そして、血を求められて――そんな夢を、見ていた。

「……ほんとう…?」

大きく目を見開き、見知らぬはずの青年を見つめる。知らないはずなのに、名前がわかる。私は、彼が誰だか知っている。

「……れい………?」

そんな名前で、

「そうだよ」

「黎、明……の」

そんな意味で、

「憶えてるじゃないか」

「……私、死ななかったの………?」

自分は確かに、この人に命をあげたはずなのに。

「死ぬよ。俺が血をもらうからな」

黎明の吸血鬼が立ち上がった。私はびくりと身体を震わせ、布団で身体を護るように握り締めた。

「じゃあ――」

「でも、今じゃない」

黎明の吸血鬼は、言葉とともに足を停める。

「………」

長身のその瞳を睨み上げる。銀――さっきは月を背負っていた、その瞳の色。人間にこんな目の色はあっただろうか。

「今は死なせてやらない。俺は真紅の血がほしいから、死なせたくない」

「……何、勝手なこと……」

「そうだよ。勝手なことだ。俺の勝手な願望で、真紅を死なせたくないだけだ。真紅の血がほしいだけだ」

「な――」


何故だか顔が熱い。いや、そんな告白みたいな言葉を簡単に吐く奴がいるか。普通に恥ずかしいだけだ。嬉しいわけなんかじゃない――

「生きる理由がないならさ、俺を理由にしろよ」

「………」

「俺に血を与える、主にならないか。お前がいるから俺は生きていられる。それを、真紅が生きて理由にすればいい」

「何で、そんなこと――」

「んー、真紅の血が美味しかったから?」

ち? 血が、美味しかった……? ……それだけ? と言うか、血が美味しいから死なせたくないって、私はエサか?

ぶちいぃっ!

「消えろ変態!」

窓から投げ飛ばしました。

火事場のバカ力ってすごい。

「何なんだ、あいつは……っ」

ぜえぜえ息をして、とりあえず現実を取り戻すために何かしようと考えた。着替えようか、お腹が減っているようだからご飯を食べようか、それとも――あ、まずは服を替えないと。血まみれだって銀の人が心配してくれていたんだ。それから、貧血状態だから早く寝ないと――。あれ? そう言ってくれたのは……?

「………」

首元に手を当てた。続いて、肩口にも。

熱い。一瞬、焼けるような痛みが走った。――確かにここには傷があった。

「………ほんとうに……?」

助けてくれた?

………。

何で自分は眠ってしまったのだろう。ちゃんと起きて、出来事が夢である可能性もないと思える頭だったのなら、総てを信じられたかもしれないのに。

血、が、

  あなたをもとめている。

 あの、こっ恥ずかしいことを平気で言ってしまう――

 違う。

    あなたの息が、私の血を――



「……」

胸を衝く衝動に耐えられなくなって、窓から身を乗り出した。

ここは二階。下は植え込みになっているけれど――

「あ、やっぱ見た」

声は真正面からした。驚いて顔をあげると、私の部屋の前に立つ樹の枝に、黎明の吸血鬼はいた。

「このままシカトされたらさすがにどうしようかと思った」

軽く笑う黎明の吸血鬼を見て、また胸が熱くなる。どうしよう。……どうしよう。その姿を見るだけで、なんでか知らないけど、泣きそうになってしまう。それが恐怖からではないことだけは、わかる。

「ど、どうやって……」

「うん? 投げ飛ばされたのに乗じて飛び移っただけだけど? 距離が近くてよかったよ」

「私、死なせてって、言わなかった……?」

心の、小さな鍵付きの部屋に閉じ込めていた言葉。

誰にも言わないと、言うことはないだろうと思っていた、言葉。

夢か現かの世界で、私はそれを音として自分の耳に聞いていた。

私と同じ高さにある樹の枝に腰掛ける青年は優雅に微笑む。

「言ったよ。死なせてくれるなら、血をあげるって」

「……じゃあ、何で、私……、血、飲まなかったの……?」

「飲んだよ。いただいた」

「――じゃあ!」

「言葉は護るよ。お前は、最期のときに一緒にいてくれるなら、最期のときに傍にいて手を握ってくれるなら、って言ったんだよ」

「………」

「だから、俺はお前と一緒にいるよ。最期の時に手を握っててやる。お前が天命を待って死ぬまで」

「―――」

天命を待って、

  死ぬまで。

「私は今―――」

しぬべきなの。

ずっと鍵のかかった部屋にいた言葉。飛び出すならば、今しかない。


「……あなたは、誰なの? どうして私に、そこまでしてくれる……?」

今しかなかった。でも、もう言うことはない。

鍵のかかった部屋の、私の秘密の言葉。声に出せば叱られる願い。秘密の小さな願いだった。

部屋の鍵は開いた。中は空っぽ。

言葉、消えてしまった。見つめて来る銀の瞳の、その奥に吸い込まれるように。

とても、触れてみたい。この人に、優しくされてみたい。この人は、優しい。

 わたしにやさしい。銀の人。

身のうちの感情に困ってしまう。なんでこんな、初対面の怪しさ満載の人に一喜一憂されなくちゃならない。

この人にたくさん怒られたのは、たくさん心配していてくれたからで。

私の言葉もちゃんと聞いてくれて、この人なりの答えをくれた。

あ――こわく、ない。最初っから感じていたこと。この人は、怖くない、と。

「あの、寒い……でしょ? 投げちゃってごめんなさい……こっち来ていいよ?」

ぶっ飛ばした私が言うのも難だけど、もう冬になりかけている時期の夜だ。

「んー、それは駄目」

彼は困ったように首を傾げてからはっきり断った。さっきまでの強引に奪ってくるような態度とは違う。

「さすがにね、真紅。お前が男に免疫ないのはわかったけど、そういうこと簡単に言うのはやめな? 危ない」

「……あなた以外には言わないと思うよ?」

「………」

正直なことを言ったら、目をまん丸に見開いて顔を背けた。

「あ……の?」

「お前なー……」

低く唸るような声。だけれど、どこか朱を帯びた声音。

「あーもうダメ。絶対そっちへは行けない」


「えっ、でも……」

「だったら、真紅がおいで?」

黎明の吸血鬼は顔を背けたまま、瞳だけで私を見てきた。

「寒いから、ちゃんとあったかくして。俺のこと知りたいんだったら真紅が外に出ておいで。……危ない目には遭わせないから」

鍵を壊した。

自分を閉じ込めていた部屋の、鍵。

私が初めて見た外の世界は夜。銀色の輝きを背負って、優雅に立つ彼の場所。

そこに行きたいと、思った。

そこに、いきたいと。

そこで、生きたいと。





「ん。ちゃんと厚着してきたな」

彼は階段の下で私を待っていた。言われた通りにジャケットを着てマフラーを持ってきた。十月も終わりの今、常用するにはまだ微妙な時期だけど、帰りが遅くなったりするからもう出してあった。

「これ」

白と茶色のチェック模様に、幾筋かのピンク色のマフラー渡すと、黎明の吸血鬼は面食らっていた。

「男の人サイズの服はなくて……ないよりはマシかと」

言い訳をする私を見て、黎明の吸血鬼はまた軽く笑った。おかしそうに。

「ありがと。借りるよ」

受け取り、首に巻きつける。そのまま手を差し出して来た。

「近くに公園あったから、そこに行こうか。道端で話してるのも難だし」

「うん」

嬉しい。

どうしてか、黎明の吸血鬼の一挙手一投足が嬉しい。私は肯いてその手を取った。自分はどんな顔をしているのだろうか。黎明の吸血鬼にはどう見えているのだろうか。

笑っているの、かな?

「さっき起きる前にあったこと、ちゃんと憶えてるか?」