有名な逸話に泥水が入った樽の中にワインを一滴垂らしても、それは泥水が入った樽のままだが、ワインの樽に泥水を一滴でも垂らせば、それは泥水が入った樽となる、というものがある。
 この話を知った時、ぼく、藤原直哉は「なるほど」と強く感心した。だからこそ、今この逸話を思い出しているのだろう。
 放課後、青とオレンジが混ざる白んだ空、家から高校、高校から家へと何度となく歩いた道のり、重なったり離れたりを繰り返す二つの影。

「あのさっ……」

 声が震え、ぼくはとっさに口をつぐむ。

「だからな、鮭の皮を食べないやつって人生損してると思うんだよ。直哉もそう思わね?」
「……なんの話だよ」

 ぼくの声は彼には届いていないようだった。ぼくも彼の話は聞いていないからお互い様だが。
 隣を歩くただ一人の友人である彼、杉村雅樹にぼくはある隠し事をしている。
 ぼくにとってのワインは「秘密」だ。
 秘密は誰にも知られないからこそ秘密なのだ。しかし、喜ばしく、奇跡のようなこの秘密を、ぼくは杉村にだけは打ち明けたいと思っている。それがたとえ秘密の価値を無くすものだったとしても。

「杉村、あのさ……」
「ん? なにこれ?」

 杉村は突然走り出すと道端からなにかを拾い上げる。近づいてみると、杉村の手には眼鏡が握られていた。銀のフレームに薄いレンズがはまったオーソドックスなタイプだ。
 ぼくはまたタイミングを逃した、と口の中に用意していた言葉を飲み込み、小さく溜息をついた。

「なにって、眼鏡だよ」
「それはわかるよ。でも眼鏡が落ちてるって変じゃない?」

 眼鏡は視力の低下が生活に支障をきたす人が持つもので、落とした時点ですぐに気づくと、杉村は言いたいのだろう。
 しかしその他にも眼鏡には用途がある。例えば。

「あ、これ伊達眼鏡だ」

 どう? かっこいい? と杉村は眼鏡をかけてはしゃぎ始める。
 こういうところが友人としてはちょっと気になる。ぼくならそもそも、そこらへんに落ちているものを拾わないし、それを自分の顔にかけるなんて絶対にしない。
 杉村はぼくが知り合った人類の中で、トップクラスのバカだ。

「やめろよ、汚いって」
「割と綺麗よ。よく見える。直哉もかけてみろよ」
「そういう問題じゃなくて……」これ以上言っても無駄だな、と口を閉じるぼくに代わり杉村が突然、大声をあげた。
「うわっ!? 犬だ!!」

 杉村は急いでぼくの後ろへ隠れる。杉村は小さい頃に犬に追いかけられて以来、犬が大の苦手なのだ。ぼくよりも少しだけ背が高い杉村が縮こまっているのを見て、ぼくは友人というより、一人の人間としての倫理観で守ってやろうと胸を張った。だけど。

「ねぇ、犬なんていないけど」

 道には犬どころか、ぼくたち以外に誰もいない。

「いやだって、あれ? さっき眼鏡外そうした時に……」

 そこへ急に、道の角から柴犬が飛び出してきた。

「わ!? さっきの犬!」

 杉村は再びぼくの後ろへ隠れるがピンクの首輪をした柴犬はぼくたちに目もくれず、道の果てまで突っ走っていった。

「びっくりした……」

 あの柴犬、どこかで見た気が……。ぼくは過去の記憶を遡ろうとして頭を振る。犬の正体よりも、杉村の言葉の方が気になるからだ。

「ねぇ『さっきの犬』ってどういうこと?」
「知らねえよ。さっき眼鏡で……あ」

 杉村は手に持った眼鏡をかけ直し、片目ずつ閉じては開けて、を繰り返す。杉村から下手くそなウインクをされ続け、ぼくは訳がわからない。

「な、なにしてんの?」
「これな、左目で見ると直哉がいなくなるんだよ」
「は?」

 ほら、と杉村に手渡され、ぼくは嫌々ながらに眼鏡をつまむ。外観を見るに、なにかしらの仕掛けが施されているわけでもない、何の変哲も無い眼鏡だ。目立った傷や汚れもないことを確認し、ぼくは眼鏡をかける。
 やはり、両目で見ても景色はなにも変わらなかった。そのまま、右目のまぶたを閉じると、左のレンズには走り出す杉村の影が映った。

「なにが見えた?」

 杉村の問いかけを無視してぼくはその影を追い、首を振る。するとそこにはぼくが立っており、ぼくの後ろには縮こまった杉村の情けない姿があった。

「なぁ! なにが見えた?」
「……ぼく」
「ぼくぅ?」

 右のまぶたを開き、両目で眼鏡越しに前を見ると、眉根を寄せる杉村の顔が至近距離にあった。
 じゃあ、右目で見ると、どうなるんだ?
 ぼくはさっきとは逆に、左目のまぶたを閉じて右のレンズを見ると、突然、杉村がぼくめがけて拳を振り下ろしてきた。

「うわっ?!」

 ぼくは驚いて尻餅をつき、尻に鈍痛が走るが、杉村に殴られたはずの頬は全く痛くない。

「どうした? なにが見えた?」
「杉村に、殴られるところ」
「……一応言っとくけど俺は殴ってないぞ」
「そんなのわかってるよ」

 尻餅をついた恥ずかしさを紛らわせるように、ぼくはぶっきらぼうに応えて立ち上がる。
 どういうことだ?
 ぼくは眼鏡を外し、見回しながら考える。やはりどう見ても、普通の眼鏡だ。両目で見るとかけていない時と同じ光景が見えるのに、片方ずつ見ると右と左で違う光景が見える。
 ん? 右と左?

「杉村。さっき犬見た時ってどっちのレンズで視た?」

 杉村はうーんと唸りながら、先ほどの動作を再現するようにパントマイムで眼鏡を外すふりをする。

「たぶん、右だったかな」

 つまり。
 右目のレンズで見ると、数秒後に現れる犬が見えた。
 左目のレンズで見ると、つい先ほどまでの、犬に怯える杉村の姿が見えた。
 ということは。

「これ、右のレンズは未来の出来事が視えて、左のレンズは過去の出来事が視えるんじゃない?」

 杉村は再び眉根を寄せて、首をかしげる。

「じゃあなんで、両目で視たらなんともないんだよ」

 杉村はぼくから眼鏡を取り上げ、不思議そうに見つめる。
 杉村の問いに対し、ぼくは考える。

「両目で視ている光景は今、つまり現実なんだよ。現実は過去の積み重ねであり、未来への一歩目だ。だから、過去と未来を同時に認識することで、ぼくたちが生きている時間、現実を写すことが……」
「あーもう! わかったから! うるさい!」

 杉村の声で我に返った。うんざり顔の杉村に、ぼくはムッと腹が立つ。

「う、うるさいってなんだよ」
「直哉はいつも哲学的すぎるんだよ」

 ぼくは人よりも考え込む癖がある。なぜ、どうして、どうやって。答えを求めてぼくは考える。答えが出たら、そのほかにも答えがないか考える。答えが出つくしたら、その中で最良な答えを考える。そんなふうに、考えすぎるぼくのことを杉村はいつも「哲学的」と言って揶揄するのだ。

「違う。杉村が本能的すぎるんだよ」
「は? なにそれ。本能的?」

 杉村の声が落ち、ギロリとぼくを睨みつける。ぼくはその目を見て、ある可能性が頭をよぎり、背筋が凍った。
 しかし杉村はぼくの可能性を裏切り、満面の笑みで照れ臭そうに頭をかいた。

「かっこいいじゃん! ワイルドって感じがしてさ!」

 ぼくは肺の中の空気を全て出し尽くさんばかりの大きなため息をついた。

「あれ?」

 そんなぼくの安堵をつゆ知らず、杉村は再び眼鏡をかけてまぶたを交互に閉じている。

「未来が見えるのは右だよな?」
「そうだよ」

 左のまぶたを閉じた杉村は不思議そうに、右のレンズ越しに未来を見ている。

「なにが見えてるの?」
「俺たちが握手してるとこ」
「握手?」

 杉村曰くそれは、平和的で、友好的な微笑ましい握手だという。
 ぼくは杉村から眼鏡を受け取り、顔にかけて左目を閉じる。しかしというべきか、やはりというべきか、右のレンズには先ほどと同じように杉村に殴られているぼくの姿が見えた。

「なんでだ?」

 二人が見ている未来が、あまりにもかけ離れている。
 杉村は思いついたように人差し指を空に向ける。

「あれかな、俺らが今から殴り合うような喧嘩をして、そのあとに俺たちやっぱり友達だって握手するとか?」
「昔の漫画みたいだな」

 そんな展開になるのはいやだが、杉村のいう通りかもしれない。
 さっきの柴犬が現れたのは現実から十秒くらい未来の出来事だった。しかし、杉村が犬に怯えてぼくの後ろに隠れたのは現実から二分近く前の過去の出来事だった。
 つまり、過去や未来が視えてもそれがいつの時点での出来事なのかわからないということだ。

「あ!!」

 突然、杉村は叫んだ。

「びっくりした……なに?」
「いいこと考えた!」

 杉村は口元が緩みきっている。

「絶対にいいことじゃないだろうけど、なに?」
「でもなー、言ったらお前真似するだろうしなー」
「そういうのいいから、なに?」
「なんかなー、教えてもらう立場の人間が、そういう態度はいかがなものかなー」
「おい、いい加減に……」

 ぼくは急いで口を閉じる。ぼくの口の中には「いい加減にしろよ。どうせバカみたいなアイデアなんだから」という言葉が用意されていた。
 この言葉をそのまま言っていたらどうなっていただろう。
 考えるまでもなく、その結末を、未来をぼくは知っている。
 ぼくはどうやら、杉村に殴られるらしい。
 たとえそのあと仲直りするとしても殴られないに越したことはない。
 いや、そもそも未来は不確定なはずだ。気をつけて行動すれば、殴られない未来が訪れるかもしれない。ぼくは腰を折り、手を揉む。

「杉村くん、ぜひ、杉村くんの考えを、教えて欲しいなー」
「杉村様、だろ?」
「あ?」

 やばい。ぼくが先に杉村のことを殴ってしまいそうだ。もしかしたらあの未来はぼくが杉村を殴った後に、やり返しとして殴られた瞬間の光景なのかもしれない。
 ぼくは逆立つ胸を沈めながら、にっこりと微笑む。

「杉村様、ぜひ、私めにご教授願えませんでしょうか?」

 仕方がないなー、とぼくの肩を強めに叩く杉村は、ぼくのかけた眼鏡の左レンズを指差す。

「放課後の誰もいない教室で、この、過去が視える左のレンズ越しに、瀬山さんの席を見る!」

 は?
 瀬山という名前を聞いて、ぼくの思考は一気に鈍った。瀬山さんは同じクラスの一番人気の女子だ。可愛らしさ、性格の良さ、全てが完璧でいつも友達に囲まれている、ぼくたちとは正反対の生き物で、杉村がいつか話しかけたいと夢見ている相手だ。

「するとだな、三百六十度どこからでも瀬山さんを眺められるというわけだ! すごいだろ! 名付けて、VR瀬山さん!」
「なに言ってんだよ。馬鹿らしい」

 あ。
 つい、心の声がそのまま声に乗ってしまった。
 ぼくは慌てて、わかりやすい言葉と優しい口調で付け加える。

「ごめん、だけどそういうのは、良くないんじゃないかなって……」
「そんなのわかってるよ!!」

 杉村の顔はみるみる赤くなっていく。

「そんなに怒らなくても……」
「本当にそんなことしねえよ!」
「え」
「子どもに言い聞かすみたいな喋り方しやがって! バカにすんな!」
「そんなつもりじゃ……」
「こういうノリとかギャグがわかんねえから、お前は俺しか友達いねえんだよ!」

 カチン。
 確かに、ぼくは友達と呼べる人間は杉村だけだった。だからこそ、本当のことを言われて頭にぐわっと血が上る。

「そんなこと知ってんだよ! お前だってな、バカすぎて周りに引かれてんだよ! それにすら気づかないお前がぼくは羨ましいね!」

 一息にいい終わり、息を吸うと頭の熱が冷めていく。
 やばい、言ってしまった。
 杉村の拳が強く握りしめられているのが目に入り、殴られてしまうと目を瞑るが、杉村はその場を動かない。

「……殴らないの?」
「もういい。お前とは絶交だ」

 そう言い捨て、杉村は踵を返し歩き出す。
 ちょっと待て。こんな未来、知らないぞ。
 遠のく杉村の背中を見て、ぼくは考える。
 未来は不確定なもののはずだ。
 あらゆる可能性の中に、ぼくたちは握手をする未来、ぼくが殴られる未来があった。しかし、ぼくが選んだ未来は、杉村と絶交する今だ。
 こんな今を、ぼくは望んでいない。
 だったらどうすればいい? ぼくは考える。
 考えて考えて、これしか思いつかなかった。

「ごめん! 言い過ぎた!」

 遠のく杉村にぼくは頭を下げる。眼鏡がずり落ちそうになり、ぼくは眼鏡を押し上げる。
 いつのまに、ぼくはこの眼鏡をかけていたのだろう。最初は道に落ちていた眼鏡をかける杉村に引いていたのに。
 いつもそうだ。ぼくは杉村と一緒にいると、いつのまにか影響を受けている。確かに杉村はバカだ。すぐ調子にのるし、ぼくとは正反対で、本能的な、どうしようもないバカだ。
 だけど、ぼくの友達だ。かけがえのない、唯一の友達なんだ。
 この眼鏡は未来が視える右のレンズ、過去が視える左のレンズ、その両方を重ねて今、現在が視えている。

 過去と現在と未来。

 それらすべてが関係しあい、影響しあうのならば『過去』の過ちを『今』償えば『未来』を変えることだってできるはずだ。
 頭を上げるといつのまにか杉村はぼくの目の前に立ち、腕を振り上げていた。
 殴られる、と構えたがその腕はゆっくりと差し出され、握られた拳は優しく開かれる。

「俺も言い過ぎた。ごめんな」

 恥ずかしそうな杉村を見て、ぼくはその手をしっかりと掴む。ぼくたちは今、仲直りの握手をした。
 杉村の手と一緒に、ぼくは未来を掴んだのだ。

「直哉……、おい直哉!」
「へ?」

 杉村の声で我に返った。

「お前、またなんか哲学的なこと考えてただろ」
「べ、別に考えてないよ。っていうかなんだよ哲学的なことって」

 杉村は笑い、ぼくもつられて笑ってしまう。
 そこへ、遠くから声が聞こえてきた。

「おーい!」
「せ、瀬山さん?!」

 声の主は、クラスで一番の女子、瀬山さんだった。途端に杉村は顔を赤らめる。
 瀬山さんは随分と疲れている様子で息遣いが乱れている。呼吸に合わせて胸が膨らみ、前髪が汗に濡れておでこにピタリとくっついている。ぼくの視線に気づいたのか瀬山さんは恥ずかしそうに前髪を整える。

「どうしたの瀬山さん?」
「うちのペットが逃げちゃったんだけど、二人とも見てない?」
「ぺ、ペットっていうか、犬なら向こうの方に……」

 瀬山さんの問いかけに、ぼくははっ、と思い出す。
 先ほど感じた違和感。柴犬のピンクの首輪に対する既視感の正体を。
 それは先日、初めて瀬山さんの家に遊びに行った時の光景に答えがあった。

「さっきの小春か! なんか見覚えあるなと思ったんだ」
「小春?」

 杉村が呟くと、瀬山さんは「うちのペットの名前だよ」と優しく説明する。しかし、杉村の疑問はそこじゃない。

「なんで直哉が瀬山さんのペットの名前を知って……」

 そんな杉村を置いて、瀬山さんはぼくにぐいっと近づく。

「なおくん、小春を見たの?」
「なおくん?!」

 ぼくは一旦、杉村を無視して道を指差す。

「こ、小春なら、この道を真っ直ぐ走っていったよ」
「わかった! ありがとう!」

 瀬山さんはまた走り出そうとするが、ぼくの顔の変化に気づいたようで、さらにぐいっと顔を近づける。

「眼鏡、似合ってるね」
「そ、そうかな……」

 瀬山さんはふふ、と微笑み、ぼくの肩に手を置く。

「また明日、家でね」

 恥ずかしそうに耳元で囁くと、次の瞬間には瀬山さんは走り出していた。
 やっぱりかわいいな、瀬山さん。
 ぼくはぼんやりと遠のく瀬山さんの背中を見送ると、すぐ隣の殺気に気がついた。

「お前、瀬山さんとどういう関係だよ。家でねってなんだよ?」
「あ、いや、これは……」

 ぼくは必死に考える。答えというか、言い訳はたくさん浮かんだ。
 瀬山さんと交際を始めたのはつい一週間前だとか、みんなには内緒にしてほしいと言われていたこととか、だけど唯一の友達である杉村にだけは伝えておきたいと思っていたこととか。
 しかし、それらが口から出る前に杉村の腕はすでに高く上がっていた。

「この裏切り者が!」

 杉村の拳が振り下ろされる様子を、ぼくはレンズ越しの両目で見つめる。

 終わり。