「離して!助けてっ―この人に監禁されていますっ」
泣きわめく女性が口にした言葉で空気が張り詰めた。
―あの紙に書かれていたことだ
男性に目をやるが何故か男性は泣きそうな顔をしていた。そして困ったように笑うと
「違うよ。帰ろう。大丈夫だよ、俺は君を愛しているから」
「違うっ…離して!助けてください!私はずっとこの人に監禁されているんです」
「すみません、お騒がせして申し訳ありません。今お金払って帰りますので」
男性は店長に何度も頭を下げ既に他の客が去っていたこの喫茶店内を見渡し、眉を下げる。
暫くすると、制服姿の警察が店内にやってきた。
店長が警察へ連絡したようだ。事件性があるのかどうなのかは判断がつかないからだろう。
由香里はただ黙って女性を見つめていた。
女性が演技をしているようには見えなかった。先ほどまであんなにも穏やかだったのに、だ。
「お騒がせしてすみません」
警察がやってくると男性は直ぐにそう言った。男性から離れようと必死な女性は何度も助けてくださいと叫んでいる。
しかしこの状況で警察は「高橋さんですか」と何故か男性の名前を呼ぶ。そして「病院までタクシーで向かった方がいいでしょうね」と二人を見ただけでそう言ったのだ。
まだ何も状況を聞いてもいないというのに、まるで前から二人を知っているかのような反応だった。
「高橋…さん?」
店長も驚いていた。由香里と店長を交互に見ると
「事情を説明しますね」
と言った。
その間も男性はずっと女性を抱きしめていた。
必死に離れようとする女性をただ抱きしめている。
警察が言うにはこの二人は夫婦であり、妻側に若年性認知症があるということだった。
時折、自分以外の人物が分からなくなり、あのように錯乱状態になるということだった。
この間は自分は見知らぬ男に監禁されていると思い込み、スーパーで店員に監禁されているという紙をそっと手渡して警察沙汰になったのだという。
警察の方ではしっかりと通院歴も調べてあり、男性側の証言が正しいことも証明済だそうだ。
「私も実はこの間助けてくださいと書かれてあった紙をもらったんです。あ、今持ってます」
ポケットに手を突っ込み、それを警察官へ渡した。
警察官は数回頷いて
「そうですね。これもおそらく高橋さんが監禁されていると思い込んで助けを求めたのでしょうね」
と言った。
全ての違和感が解消された瞬間だった。
女性の二つの顔はどれも彼女だったのだ。どれも本当だったのだ。
演技などではなかったのだ。
胸がきゅうっと締め付けられた。
「すみません、お騒がせして…すみません」
「高橋さん、私たちはそういう病気の専門ではありませんが…―あまり奥様を外出させない方がいいのではないでしょうか」
女性の方は徐々に落ち着き、気を失ったように動かなくなった。
男性は目を潤ませ、静かに言った。
「それがいいかと思いましたが…まだ自分のことはわかるんですよ、彼女は。だから彼女が彼女でいられるまで思い出を作ってあげたいんです。以前も暴れて大事になった際に義理の家族が来て暴れて他人に迷惑をかけるならば拘束した方がいいと言ってベッドの上で彼女を拘束しました。手首にも足首にもまだその跡が残っています。そういうことは極力したくはないんです。分かっています、他人に迷惑をかけるようなことはしてはいけないのは。でも…―すみません、責任は全て俺が負いますので」
そこまで言うと警察官は何も言わずに手続きを終えると帰っていった。
タクシーを呼んでこれからまた病院へ向かうようだ。
その間、女性が目を覚ました。
「あれ?ゆうちゃん?」
「起きた?今、タクシーが来るから」
「そうなんだ」
女性は心底嬉しそうに男性の手を握った。
割った食器代など男性が支払うと言ってきかなかったのだが、店長はそれを断った。
二人がタクシーで帰っていくのを見送ると由香里は熱くなった目頭を隠すように上を向いた。
「そういうことだったんだ。女性は記憶が曖昧になっているのに知らない間に手首の跡が出来ていて、見知らぬ男の家にいる状況下なれば監禁されていると思い込んでしまう。でも事実は違った…」
「そうですね」
いつの間にか隣にいた高塚に由香里は頷く。
「幸せそうだったなぁ、二人とも」
「そうだね」
いつの日か、全てを忘れてしまうときが来るかもしれない。
いつの日か、自分のことすら分からなくなる日が来るのかもしれない。
そうだとしても、きっとあの二人は幸せなのだろうと二人の幸せそうな顔を思い出してそう思った。
【END】
泣きわめく女性が口にした言葉で空気が張り詰めた。
―あの紙に書かれていたことだ
男性に目をやるが何故か男性は泣きそうな顔をしていた。そして困ったように笑うと
「違うよ。帰ろう。大丈夫だよ、俺は君を愛しているから」
「違うっ…離して!助けてください!私はずっとこの人に監禁されているんです」
「すみません、お騒がせして申し訳ありません。今お金払って帰りますので」
男性は店長に何度も頭を下げ既に他の客が去っていたこの喫茶店内を見渡し、眉を下げる。
暫くすると、制服姿の警察が店内にやってきた。
店長が警察へ連絡したようだ。事件性があるのかどうなのかは判断がつかないからだろう。
由香里はただ黙って女性を見つめていた。
女性が演技をしているようには見えなかった。先ほどまであんなにも穏やかだったのに、だ。
「お騒がせしてすみません」
警察がやってくると男性は直ぐにそう言った。男性から離れようと必死な女性は何度も助けてくださいと叫んでいる。
しかしこの状況で警察は「高橋さんですか」と何故か男性の名前を呼ぶ。そして「病院までタクシーで向かった方がいいでしょうね」と二人を見ただけでそう言ったのだ。
まだ何も状況を聞いてもいないというのに、まるで前から二人を知っているかのような反応だった。
「高橋…さん?」
店長も驚いていた。由香里と店長を交互に見ると
「事情を説明しますね」
と言った。
その間も男性はずっと女性を抱きしめていた。
必死に離れようとする女性をただ抱きしめている。
警察が言うにはこの二人は夫婦であり、妻側に若年性認知症があるということだった。
時折、自分以外の人物が分からなくなり、あのように錯乱状態になるということだった。
この間は自分は見知らぬ男に監禁されていると思い込み、スーパーで店員に監禁されているという紙をそっと手渡して警察沙汰になったのだという。
警察の方ではしっかりと通院歴も調べてあり、男性側の証言が正しいことも証明済だそうだ。
「私も実はこの間助けてくださいと書かれてあった紙をもらったんです。あ、今持ってます」
ポケットに手を突っ込み、それを警察官へ渡した。
警察官は数回頷いて
「そうですね。これもおそらく高橋さんが監禁されていると思い込んで助けを求めたのでしょうね」
と言った。
全ての違和感が解消された瞬間だった。
女性の二つの顔はどれも彼女だったのだ。どれも本当だったのだ。
演技などではなかったのだ。
胸がきゅうっと締め付けられた。
「すみません、お騒がせして…すみません」
「高橋さん、私たちはそういう病気の専門ではありませんが…―あまり奥様を外出させない方がいいのではないでしょうか」
女性の方は徐々に落ち着き、気を失ったように動かなくなった。
男性は目を潤ませ、静かに言った。
「それがいいかと思いましたが…まだ自分のことはわかるんですよ、彼女は。だから彼女が彼女でいられるまで思い出を作ってあげたいんです。以前も暴れて大事になった際に義理の家族が来て暴れて他人に迷惑をかけるならば拘束した方がいいと言ってベッドの上で彼女を拘束しました。手首にも足首にもまだその跡が残っています。そういうことは極力したくはないんです。分かっています、他人に迷惑をかけるようなことはしてはいけないのは。でも…―すみません、責任は全て俺が負いますので」
そこまで言うと警察官は何も言わずに手続きを終えると帰っていった。
タクシーを呼んでこれからまた病院へ向かうようだ。
その間、女性が目を覚ました。
「あれ?ゆうちゃん?」
「起きた?今、タクシーが来るから」
「そうなんだ」
女性は心底嬉しそうに男性の手を握った。
割った食器代など男性が支払うと言ってきかなかったのだが、店長はそれを断った。
二人がタクシーで帰っていくのを見送ると由香里は熱くなった目頭を隠すように上を向いた。
「そういうことだったんだ。女性は記憶が曖昧になっているのに知らない間に手首の跡が出来ていて、見知らぬ男の家にいる状況下なれば監禁されていると思い込んでしまう。でも事実は違った…」
「そうですね」
いつの間にか隣にいた高塚に由香里は頷く。
「幸せそうだったなぁ、二人とも」
「そうだね」
いつの日か、全てを忘れてしまうときが来るかもしれない。
いつの日か、自分のことすら分からなくなる日が来るのかもしれない。
そうだとしても、きっとあの二人は幸せなのだろうと二人の幸せそうな顔を思い出してそう思った。
【END】