「今日は少し寒いね」
「そうね。ちょっと寒いわ」
「家に帰ったら温かいものでも食べよう」
「うん、そうする」

 平日にもかかわらず二人は一緒にいる。それも不思議だった。仕事はしていないのだろうか。それとも不規則な仕事をしているのだろうか。
 席へ案内し、すぐにおしぼりとお盆を持って三番テーブルにいく。

 二人は正面に座り合いながら、女性の方が頬を近づけ小声で何かを話している。クスクスと笑い合っていてまるで二人だけの秘密の話をしているようだった。
楽しそうに、本当に幸せそうだった。

「…じゃあ、あの紙は一体…」

 自分がみたあの光景もあの紙を貰ったことも何もかもが幻だったのではと錯覚するほど二人は仲睦まじい。
水とおしぼり、メニュー表を普段通り二人の席へ運ぶと一度目と同じように男性が柔和に微笑む。

「ありがとうございます」
「お決まりの頃にうかがいます」
そう言ってそっと立ち去る。

「…見間違いだったのかな、あの痣も―」


 頭の中がごちゃごちゃと考えがまとまらないまま由香里は接客を続けた。
ちょうど高塚が店にやってきたのは、それから二十分ほど経過してからだった。

「先輩、お疲れ様です」
「お疲れー」
「今日はどうしたんですか?出勤じゃないですよね」

スタスタと店内に入る彼女にそういうと高塚はやってしまったという表情で額に手をやる。

「忘れ物だよ、忘れ物。最近忘れっぽいんだよねぇ。本当困っちゃう」
 店に忘れ物をしてわざわざ取りにきたようだ。
よくありますよ、と返すと今度は神妙な面持ちで顔を近づけてくる高塚。

「あの二人また来てるんだ?」
あの二人が誰を指すのかもちろん由香里は直ぐに分かった。

「はい、凄く仲が良さそうで…。だからあの紙に書かれてあったことは間違いなんじゃないかって」
「普通に考えたらそうよね。でもじゃあ悪戯で渡してきたってこと?本気にされて警察でも呼ばれたらどうするんだろう?」
「そこが謎なんです。あの目は…決して嘘を言っているようには見えなくて」
「嘘をつくメリットがないのよね。メリットが」

 高塚が忘れ物を取りに来てそのついでに由香里とあの男女の話をしていると、突然店内が騒がしくなった。


 キャーっという女性の悲鳴とともにガシャンと皿やコップが割れる音が響く。
由香里も高塚もすぐに店内の音のする方へ向かう。
 しかし由香里と高塚は思わず足を止めていた。何故ならば叫び声をあげる女性はたった今二人が話していたあの“おかしなお客”だったからだ。
 三番テーブルに案内された女性が「やめて、やめて」と叫びながら水の入ったコップなどを床にぶちまけながら混乱している様子だった。

「お客様、どうかされましたか。落ち着いてください」

 すかさず店長が声を掛けるが女性には一切声が届いていないようだ。錯乱状態の女性を必死に抱きしめようとする男性、慌てる店長、店内にいた少数の人たちが何事かと立ち上がり帰ろうとする。今日は高塚の出勤日ではないのだが、席を立ちあがった客の会計をするためにレジへ向かった。

 由香里はこの状態を理解することが出来ずに立ち尽くす。

(何が起こっているの?…)