両親はふさぎ込んでいた俺を全米チェス協会主催の集まりに連れ出した。そこにあったのは、学校にある木製の駒じゃなくてガラス製の駒だった。クロが惚れ込んだ透明な騎士や王に俺は思わず手を伸ばした。不謹慎かもしれないけれど、チェスプレイヤーとしての性には抗えなかった。見知らぬ大人と対局をして、クロもこんな感じで親戚のお兄さんに指導対局をしてもらっていたのかなと考えると涙が止まらなかった。
 もし俺がチェスをやめたらクロとの思い出も消えてしまうような気がした。チェスが俺とクロを繋げてくれたのだから。クロが教えてくれた日本のアニメや漫画なら、同じ夢を追いかけていれば必ずいつか運命の再会ができるものだ。俺はその未来に賭けた。かすかな希望を胸に俺はもう一度立ち上がった。
 数年後俺はプロになった。ちょうどその頃、例のサイトがサービスを終了した。最後の日までずっとクロは現れなかった。クロと勝負する夢を何度も見た。棋譜は夢の中でさえクリアな映像として脳裏に浮かぶのに、クロの顔だけが靄がかかって見えないままだった。夢からさめて、いつものようにサイトをクリックしてURLが無効になっていたとき、数年ぶりに泣いた。
 プロになると、他国のチェスプレイヤーの情報が手に入れやすくなった。日本のプロチェスプレイヤー情報はよくチェックしていた。黒沼、黒沢、のような名前の人には特に注目したけれども年齢が違った。クロの由来が本名由来とは限らない。漫画やドラマなら棋譜を見ればクロだと分かるのだろうけれど、そんな奇跡は起こらなかった。最後の対局から何年も経っている。分かるわけがない。
 強くなれば、日本にも俺の名前は届くだろうか。そう思って、ある時からわき目も降らずに鍛錬に励んだ。あんなに根詰めてマサヒロはそのうち死ぬんじゃないかと同期でプロになった友人たちは噂していたらしい。事実、一度オーバーワークで倒れたことがある。親にはこっぴどく叱られた。
 見舞いに来た友人達を心配させまいと、軽くジョークを飛ばした。なあ、クロ。俺、今は結構まともに英語しゃべれるんだ。英語が分からないって泣いていた頃を知っているお前からすると信じられないだろ?もう心配かけたりしないから、クロも一言元気でやっていると俺に伝えてくれないか?病院の窓の星空に願った。
 大会である程度の結果を残せるようになってからは、日本人であることと、雑念がなく愚直すぎる様から「盤上のサムライ・マサ」と呼ばれるようになった。クロが生きているのなら、俺は勝ち続けてクロを待っていないといけない。クロ以外の誰にも負けるものか。強い誓いを胸に戦い続けた。そして、昨年ついに全米大会で優勝した。
 今年の初め頃、日本の若き天才の噂を耳にした。俺と同い年にして、鮮烈なプロデビューを飾った後、めきめきと頭角をあらわし、連勝に連勝を重ねて次々と大会を優勝した。もはや国内では無敵といって差し支えはないという。しばらく日本のチェスプレイヤーをチェックしていなかったことを思い出し、日本の王者・土浦薫のインタビュー記事を読んだ。

「ずばり、ライバルといえる存在はいますか?」
「いますよ。小学生の頃、インターネットでチェスをしていたんです。本名は知らないのですが、真白という子と指していました。ただ、震災でそれどころではなくなってしまって真白とはそれっきりです。岩手から大阪の親戚の家に避難させてもらっていたので、パソコンなんて贅沢なものはねだれませんでしたし。近所の公民館のチェス教室に混ぜてもらって、生活が落ち着いてからは親に頼み込んで本格的に習わせてもらったんですけど、その頃には真白と対局していたサイトはいつの間にかサービス終了してしまって。プロになったのは続けていればいつか真白に会えるかなって期待もあったりして……なんて、夢物語ですよね。実は真白には負け越したままなんですよ。最後の対局もいいところで終わってしまいましたし。真白は一生ライバルです」

クロ、Kuro……Kaoru、薫。アナグラムしたあとに、俺と同じようにAを抜いたハンドルネーム。ずっと探していたクロを見つけた。クロは俺のことを覚えていてくれていた。俺はすぐに全米チェス協会経由で土浦薫と親善試合がしたいと連絡した。

 今日、クロと勝負するために10年間チェスを続けてきた。あの日の勝負は俺の負けだから、戦績は99勝99敗。勝った方が、100勝目の大一番。本当の100勝目の後に、俺は自分が真白だと告白する。

 全神経を集中して、先の手を読み続けた。戦略が張り巡らされた四角い世界で32の駒が激闘を繰り広げた。ヴァーチャル空間ではなく、幼い俺たちを虜にした本物の駒を使ってのクロとの真剣勝負。ああ、楽しい。今まで何千試合と戦ってきたけれど、クロとの勝負が一番楽しい。勝負は麻薬だ。通常の麻薬の何百倍にも濃縮されたかのような刺激が俺の脳を支配する。限界のその向こうの扉を何枚も何枚も開いて、勝ち筋を探る。

 楽しい時間は永遠じゃない。クロの軍が戦局を支配し、俺のキングは悲鳴を上げている。馬をかたどったクロのナイトの駒がニヤリと笑った気がした。数手後にはチェックメイトされることが一目瞭然だった。

もはやこれまでか。俺は口を開いた。本当は勝って告げるつもりだった。

「クロ、俺は今日君と勝負するために10年間チェスを続けてきた」

盤上を見つめていたまっすぐな瞳が俺に向いた。クロは心底驚いた表情をしていた。

「俺が真白です。あの日、言うべきだった言葉も今から言うよ」

俺は自らのキングを潔く横に倒した。白星とともに告げるはずだった俺の名前は10年前と今日の2本分の白旗とともに告げることになった。

「リザイン。俺の負けだ。100勝おめでとう」

色々な感情が入り混じって涙が止まらなかった。こんな格好悪い告白をするつもりじゃなかったのに。それでも、こんなに胸躍る試合は初めてで、クロが生きていてくれて安心して、現実世界で会えたことが嬉しかった。だからこそ、負けて悔しかった。クロ以外には絶対に負けたくないという思いで戦ってきたのに、他の誰に負けるよりクロに負けるのが一番悔しかった。
 泣いている俺とは対照的に、「やっぱり、真白との勝負が一番楽しい」と、クロが無邪気に笑って俺に握手を求める。初めて触れるはずのクロの手から懐かしさを感じた。土浦薫、ずっと探し続けた親友。そして生涯のライバル。初めてリアルで聞いたその芯の通った声に「リザイン」と言わせたくなった。

ここから先は言葉なんていらない。きっと同じことを考えているから。そんな俺達がまた何回も勝負を繰り返して、通算成績199勝199敗になって、200勝目をめぐって世界大会の決勝で激突するのはまた別の話。