ひとめぼれというのは、甘いようで酸っぱく胸を締め付ける。なんともはかない瞬間が何度もおそう。それは、花びらのように可憐で美しいのに一瞬で形がなくなる。恋とは花にとても似ていると高校生の俺は最近悟る。まさか自分にもそのような感情があったとは正直意外だった。そして、そのような出来事が自らに降りかかることも想定外だった。少女漫画のような世界観が俺をおそったのは今年、4月の春真っただ中のことだった。

 俺は、それまで人を好きになるというほどに好きという気持ちにのめりこんだことはなかった。

 桜の木の下で彼女を見てから、ずっとどこの誰なのか気になっていたが、調べるにもあまりに情報が少ない。生徒の数が多すぎてクラスも学年もわからなかった。ストレートの美しい黒髪が桜風のなかでなびくその美しさに目を奪われた。彼女の顔立ちは美しく肌は透き通るように美しい。桜と謎の少女との融合はまるで芸術のようであった。これ以上足を踏み入れてはいけないような気がして、その禁断の領域に足を踏み入れず、俺はたたずんでいた。つまり、一定の距離を保って見ていることしかできなかったということだ。こんなにも桜が似合う人はきっと他にいない。それ以来、ずっと彼女のことが頭から離れない。

 桜の君のことを探していたのだが、毎日会えるものでもなく、俺は他のクラスや他の学年のクラスを時間をみつけては探しに行く。屋上のほうへ歩く、彼女らしき人を見かけた。彼女を追いかけたのだが、みつからない。おかしいと思ってキョロキョロしていると、後ろから気配を感じる。

「君は、何年生?」
 最初に愛しの君が目の前にいることに緊張しすぎて、俺は言葉がつまってなかなかでてこなかった。かろうじて答えたのは、たったひとこと。

「2年生」
「私は、3年なの」
 3年生だったのか。俺は彼女の情報をひとつ得られたことに喜びと、目の前の彼女との会話にひどく緊張してしまい、立っているだけで精一杯だった。

「君の名前は?」
 一番重要な名前を聞いていなかった。俺はとても重要な彼女の名前を聞きたかった。そうすればおのずと情報を得られる!! 勇気を振り絞って出す。

「華歌《はなか》っていうの。華道の華に歌っていう字を書くのだけれど」
「素敵な名前だね」
 なるべく相手が喜んでくれるような気の利いたコメントをしたいと思ったのだが、なかなかそうもいかない。

「また、会えるかな?」
「あなたが私を見つけてくれたら、きっと会えるよ」

 もっといろいろ話したいと思ったのだが、タイミングが悪くチャイムが鳴る。人生とはそんなものだ、と少々諦めを抱いた俺は、素直にチャイムに従うことにした。

「じゃあ、授業があるから」
「またね」

 彼女は手を振る。またねということはまた会えるということだろう。
 俺は彼女に手を振って、教室に戻る。でも、彼女は急いで教室に戻る様子はなかった。少し遅れていくつもりなのだろうか? さぼるつもりなのだろうか? そんなことを思いながら、授業に遅れたらまずいと焦りながら俺は教室に向かった。

 3年生の名簿を見てみるが、華歌なんていう生徒はいない。20代であろう若手の担任の先生は3年生の教科を受け持っているので、何か知っているかもしれない。

「先生、華歌っていう生徒を知っていますか?」
「そんな生徒いたかなぁ……」
 手元の名簿を見る。

「3年にいますよね? 髪の長いストレートの女子」
「在校生にはいないけれど、かつてそういう名前の生徒はいたなぁ」
 それは感傷的な言い方だった。

「転校したんですか?」
「彼女は死んでしまったんだ」
「ウソ……」

 言葉にならない。驚きと悲しみと焦りが芽生えた。
 
「彼女に会ったんですよ」
「でも、彼女はもうこの世にはいないぞ」
「でも、本当にさっき屋上にいて……」

 俺は顔面蒼白状態だった。気持ちが追い付かない。
 しかし、先生は落ち着いた話しぶりで、驚く様子はなかった。

「トイレの花子さんを見たっていううわさは聞いたが……花子さんじゃなくてこの学校では華歌さんと言う方が正式名称だな。……彼女はまだ屋上にいたのか。俺は霊感がないからな、彼女のこと見ることはできないんだよ」
 先生は遠い目をして少しさびしそうに目を細めた。まるで、知り合いのような話しぶりだ。 

「彼女はこの学校に未練があるのかもしれないな。だから、トイレの華歌さんと呼ばれたり、屋上の華歌さんと呼ばれ続けているのかもしれないな」

 先生はその事実を怖がるばかりか懐かしそうに目を細めた。怖くないのだろうか? その話を聞いてから、俺は背筋が凍ってしまった。初恋がまさかのこの世にはいない人だったなんて。だから、この世の者ではないあんなに透き通ったきれいな妖精のように見えたのかもしれない。

 放課後、委員会の用事をしてからトイレの前を通ると、大好きだったはずの彼女が立っていた。あんなに会いたい人だったのに、本当のことを知ってからは、恐怖の存在になってしまった。

「こわいの? 私が見える人って少ないからうれしかったのに」

 美しい初恋の少女から、恐怖の華歌さんとなった彼女が目の前にいる。美しさは恐ろしさにもつながることを初めて知る。はかなげな美しい白い肌はまるで死人のように透き通っていた。色白美人だと思っていたのだが、この世にいないという事実を知ると恐怖しかなかった。

 俺の足は棒のように立ち尽くしているだけで精いっぱいだった。足ががくがく震えていた。でも、恐怖で震えていることを悟られたくないと必死に隠す。もし、変に怖がると呪われてしまうかもしれないし、たたりに合うかもしれない。

「君は3年生ではないんだね」
「屋上で言ったでしょ。3年って……」
「でも、担任が3年にはいないって……」

「学年ではなく……死んで3年っていう意味よ」
「3年って死んでからっていう意味……?」
 俺は絶句してしまう。
 なんとか、その場を切り抜けるために俺は必死だった。

「そこにいるのか? 華歌」

 担任の声がうしろから聞こえる。

「先生、私ずっと先生のことが好きだったよ。でも、思いを伝えることなく死んでしまいまったの。高校3年のときにあなたが担任でよかった。私、当時荒れていて、クラスメイトともうまくいってなかった。何かあるとすぐ他の先生に疑いをかけられても、先生だけは信じてくれたね。親ともうまくいかなくて、先生は勤務時間以外でも呼べば助けに来てくれた。あのまま、真面目になろうかなって思った矢先に不良仲間のバイク事故に巻き込まれてしまった。ずっと先生と話したかったけれど、先生は霊感が弱いから、全然私の声は届かなかった。でも、ここにいる少年とは波長があったのか声が届いたの。だから、この少年を通して今、語り掛けているんだけれど、聞こえているよね。先生、私、もうちょっとここにいてもいいかな」

「俺も……当時まだ新任で何もできなかったけれど、君のことは、恋愛対象として見てしまった。だから、これではだめだと何度も自分の感情を封じ込めていた。二度と君と話すことができなくて俺は、後悔していたよ。もう少しこの世界にいても構わないと思うし、俺としては側にいてほしい。いつか、成仏できる日まで、君と一緒にいたいんだ」

 先生と彼女は両思いだったのか。俺は、失恋したと同時に交信の橋渡し役になってしまった。先生は俺が側にいないと彼女の声も聞こえないし、彼女の姿を見ることはできない。そして、実態のない幽霊と愛をささやきあう担任教師には頼りにされてしまった。担任に下手に断ることもできない。

 俺の想いを伝えなくてよかった。俺の気持ちは本物の恋ではなかったけれど、先生と彼女の想いはずっと前から存在していたんだ。俺は腕時計を見る。ようやく想いが通じ合ったのが5分前だったってだけだ。想いはずっと二人の心の中にあったんだ。

 それ以来俺は彼女と接することを避けた。会えてうれしいはずだった女性に二度と会わないように、おまもりまで毎日持参している。俺の初恋は終わったのだ。早く卒業してこの学校から離れたい、これが今の俺の目標だ。しかし、今日も担任と美しい幽霊は俺を通して心を通わせる。

 どうやら俺は恋愛物語の脇役にしかなれなかったらしい。